Su凸ko D凹koi『店長、私バイト辞めます。』――6
九月の終わり。「海、行こう!」と、晩ご飯の途中で有紗が言った。
「海?」
「そう。二年生の時行ったでしょ。あそこ、行こう。なんか、無性にドライブしたい」
「さんせーい!」
のんちゃんが元気よく手を挙げる。有紗が得意げに腕を組んだ。
「ふみの復活祝いもしたいしね。新しいバイトも決まったし」
「そんな、大袈裟な」
「あたしが! 行きたいの! つき合ってくれるでしょ?」
ね、と有紗が微笑んだ。この笑顔には勝てない。
晩ご飯を食べ終わり(今日は手羽元と大根の煮物だった。めちゃくちゃおいしかった)、後片付けをみんなで済ませてしまうと、さっそく車に乗り込んだ。有紗のスマホに入っている曲をかけて、夜のドライブ。本当に、あの時のことを思い出す。あの時は確か、有紗は高倉さんと別れたばかりだった。それで、のんちゃんの話を聞いた。
有紗が強引に私を連れだした意図は、なんとなく察していた。予想は、有紗がハンドルを動かしながら昔話をしたことで、さらに確信に変わった。
「あたしね、本当は音大行きたかったの」
初耳だったが、なるほどな、と思った。有紗の並外れた音楽センスは、そこで培われたものだったのだろう。
「お姉ちゃんが音大生でさ。あたしも小さい頃から、一日十時間とかピアノ練習してて。家帰って、宿題したら、ランドセル置いたまま寝るまでピアノだよね。そんな生活だったから、みんなとこうやって遊べるのとか、実はすごく新鮮なんだ」
「ほええ、すごい」
のんちゃんが感嘆する。「すごくないよ」と有紗は照れ笑いをした。
「だけど結局、親の方針で、音大は行かせてもらえなかった。お姉ちゃんはよかったのにね。すごく悔しくて、その分大学受験がんばったんだけどさあ、親がまた、『東大以外は大学じゃない』くらいの人なわけよ」
こうして明るく話せるまでに、どのくらいの時間がかかったんだろう。そう思いながら、有紗の話を聞いていた。
「結局現役東大は無理で。二年目も前期で落ちて。でも二浪はさすがに無理でさ。後期で受かったからここに来たわけだけど」
「へええ、やっぱ有紗頭いいんだなあ」
「だから、そんなことないってば」
「後期でここ受かるって相当でしょ」
「そう?」
照れが出ているのか、有紗が心持ち車を飛ばしている気がする。
ていうか有紗、長女じゃないんだ。あまりにもしっかり者なお姉さんだったから、少し意外。
「弟がね、医大行きたいんだって。だから私、音大も二浪も諦めるしかなかった」
「……なるべく稼げる仕事に就きたいってのも?」
私が尋ねると、「鋭い」と有紗がニヤっとした。
「お姉ちゃんが私立音大でしょ。弟が医大でしょ。うちの親はそこまで貧乏じゃないけど、さすがにきついんだよね」
「有紗、すごいな」
「すごくない、すごくない」
「有言実行するのがよ」
うんうん、とのんちゃんも頷いている。
でもさー、と有紗。ハンドルを握りながら、遠くを眺めている。
「あたしが音大諦めて、一浪してなかったら、みんなと会えることもなかったし、こうして同期で仲良くもできなかった。巡りあわせって不思議だよね。人生、無駄なことなんて、きっと、ひとつもないんだよ」
「……いつか私も、そう思えるかな」
就活に失敗したこと。ケンさんとつき合ったこと。あの夜のこと。消したい過去は山ほどある。
「過去は変わらない。時間は前にしか進まない。だったら、そう思った方がお得かもよ」
有紗はやっぱり大人だな。
後部座席で揺られながら、他人事のように思った。
「海だあー!」
車から降りるなり、のんちゃんが大きな声で叫んだ。狭い車内から出て、開放的な気持ちなのは、私も同じ。うーんと背伸びをする。風が気持ちいい。潮のにおいがする。
「やっぱここ、いいねえ。人も少ないし」
「うん。穴場だよね。そうだ、なんかジュース買お」
有紗が示した先には、二年前はなかった自販機が置いてある。思わぬところで時の流れを感じた。「コーヒー百円だって!」とのんちゃんが飛び跳ね、みんなで同じ、甘ったるいコーヒーを買った。
温かいコーヒーが沁みる夜だった。潮鳴りが爽やかで、海風がほのかに冷たい。
あの日と同じように、私たちは岩場に並んで腰かける。残念ながら、もう夜光虫は見ごろを過ぎたようだ。時折、青白い光が、思い出したようにちらりと光る。
「さて、今度は私が話す番かなあ」
コーヒーで手を温めながら、独りごちた。有紗とのんちゃんが秘密を打ち明けた場所。ここに連れてこられた意味は、とっくにわかっている。
「無理しないでよ」
のんちゃんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いいの。私、今ならやっと話せる気がする」
今までは生傷が深すぎて、直視することができなかった。果てに水平線が見えるこの場所なら、遠い海に向かって、何かを語れる気がした。
「ただ一つ、約束してほしい。私が間違ってばかりだったってことは、私が一番よくわかってる。だから、」
正しいことは、何も言わないでほしい。
私の頼みを、二人は訝しそうな顔で受け入れる。
「ケンさんとつき合ってから、悪いことばかり続いた。有紗の忠告、聞いておくべきだったね。ごめん」
「何を今更。気にしないでいいのに」
「ううん。本当のことなんだ。全部、私が悪い」
私は少しずつ、少しずつ、傷の中身を抉り出す。
膿を出さないと、傷は治りきらない。苦しいけど、きっと、必要な作業なんだ。そう思いながら。
「ケンさん自体はただのよくあるクズ男で。それ自体は、馬鹿な恋愛をしたなあって感じで、どうってことないんだけどね」
馬鹿な恋愛のひとつやふたつ、若いうちにしとかないとね。いつだったか、有紗もそう言ってたっけ。
間違って、痛い目に遭って、やっと学習して。その繰り返しでかさぶただらけになることを、人はたぶん「成長」と呼ぶ。
ただ、今回ばかりはかさぶたでは済まなかった。取り返しのつかない大きな傷を負ったのは、元をたどれば、私のせいだ。
「ケンさんに紹介されたライブに、時々出てたの。そうしたら、主催だっていう偉い感じのおじさんに、ごはんに誘われた。話があるっていうから断り切れなくて、なんかよくわからない高い店つれていかれて、そうしたら『君は才能があるから、もう一軒つきあってくれたらレコーディング会社に紹介してもいい』って言われて」
「……それで、ついていっちゃったの?」
のんちゃんが不安そうに訊いた。
「うん。本当、馬鹿だった」
口の中の苦みを、コーヒーで強引に上書きする。コーヒーはとにかく甘くて、歯の裏の方までべたべたする気がする。
「二軒目、ホテルのバーだったんだよ」
ホテル、という言葉を聞いて、二人の顔が明らかにこわばった。
「運転手つきの立派な車なんか乗せられてさ。どこから来たのかもわからないし、タクシーで帰るお金もなかったし、仕方なくついていったの。そしたら、二杯目飲んだあたりで、急に意識がなくなって」
「それ、薬入れられてたんじゃない?」
有紗の眉間の皺が深い。
「かもね。あの意識の失い方は、明らかにおかしかったから。それで、そのあとはたぶん、二人の一番悪い想像通り」
二人とも、言葉を失っていた。
私は何かを誤魔化すようにしゃべり続ける。
「抵抗はしたんだよ。そうしたら殴られて、身体がすくんでどうしようもなくて。されるがままになるしか、なくて」
涙は出るかと思ったのに、もう、枯れてしまったみたいだ。
もしも、食事をきっぱり断っていたら。甘言なんて真に受けなかったら。二軒目に行かず帰っていたら。あのグラスの中身を飲まなかったら。もっと必死に、がむしゃらに抵抗していたら。
たくさんの「もしも」が、私を苛み続けた。
「……警察に行った方がいい、って言いたいところだけど」
先に口を開いたのは、有紗だった。
「ふみは、それが嫌なんだよね、きっと」
「うん。『二人でお酒飲んでたんでしょ』とか、『なんで死ぬ気で抵抗しなかったんだ』とか、たくさん責められるって話もあるし。あの時のことも思い出したくないし。あの人ともう一度関わることになるかもしれないのも」
もうこれ以上傷つきたくない。これはきっと、臆病な私のわがままだ。
「うん。怖いよね。わかるよ」
有紗は優しく頷いてくれた。
あれからもう長い時間が経ってしまった。本当なら、帰った足でそのまま警察に行くべきだった。そうすれば、まだ、色々できることはあったかもしれない。
……ああ、また「もしも」だ。
私は本当に、どうしようもない。
のんちゃんは、私よりも先に泣いていた。あの時みたいに、子どものように泣きじゃくっていた。私の分まで、のんちゃんが泣いてくれている気がした。
「ふみが、花ちゃんに電話してくれて、よかった」
「……うん」
「花ちゃんがわたしたちに連絡くれてよかった。ふみが殺されないで、死んじゃう前に駆けつけられて、よかった。よかったよお」
のんちゃんが腕にしがみついてくる。有紗は私とのんちゃんをまとめて抱きしめた。
二人の体温に包まれた瞬間、忘れていたはずの涙が、また堰を切って溢れた。
「ふみが死んじゃったら、どうしようって、わたし、ずっと心配だった。ふみ、本当に、あの時、いつ死んでもおかしくないような顔してた」
涙で言葉がうまく出なくて、うん、と言うことしかできない。もう枯れるほど泣いたと思っていたのに、熱い涙はぼろぼろと頬を伝う。
「本当。ふみが生きててよかった。死なないで、よかった」
有紗が噛みしめるように言った。声に少し涙が滲んでいた。
「私、生きてて、いいの?」
呼吸の隙間で、どうにか口にする。
「当たり前だろ、馬鹿!」
有紗が怒鳴った。泣き崩れる寸前みたいな声で。
「三人で、またライブ出ようって、言ったじゃん」
「うん」
ありがとう、という声は、掠れてうまく出なかった。でもきっと、二人には届いていたと思う。
二人には死ぬまで頭が上がらない。二人がもしもいなかったら、私は本当にどうなっていたのかわからなかった。私を助けてくれてありがとう。一緒にバンドを組んでくれてありがとう。仲良くしてくれてありがとう。叱ってくれてありがとう。たくさんの意味の詰まった「ありがとう」だった。
人気のない海岸。私たちは三人で、わあわあと馬鹿みたいに泣いた。互いの背中を叩きながら。互いに寄り添って、しがみつきながら。
空と海だけが、透き通るようにきれいな夜だった。
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