Su凸ko D凹koi『店長、私バイト辞めます。』――4
気づくと私は家の前に立っている。いつどうやって帰ってきたのか、まったく覚えていない。くしゃくしゃになったTシャツと、身体にまとわりつく生ぐさいにおいだけが、暴力の痕跡としてしっかり残っていた。
長原さんはどこまで送ってきてくれたのだろう。もし家の前で降ろされたのなら、家だって知られているかもしれない。
ぞっとして、すぐさま部屋に入り、鍵とチェーンをかけた。そのままへなへなと床の上に座り込んだ。緊張が解けた途端、わっと涙がこぼれた。怖かった。苦しかった。
そのまま玄関先で眠りに落ちて、吐き気で目が覚めた。急いでトイレに駆け込んで、胃の中のものを全部吐いた。昨日食べた高い料理は未消化のまま水の中に浮いた。吐瀉物のにおいと見た目のグロテスクさに、吐いても吐いても胃は収縮をやめなかった。便器を抱えながら、冷や汗でびっしょりになりながら、小一時間、便器の中に顔をうずめていた。
ふらふらする中で無理にシャワーを浴びて、身体を念入りに洗った。いつもは洗わないような深い部分まで。何度洗っても、触られた感触も生ぐささも取れた気がしなかった。なんとか服を着て、髪だけを乾かして、化粧水もつけずにベッドに倒れ込んだ。ふとした拍子に長原さんの顔を思い出した。手首にはまだ抑えられている感覚が残っていた。
朝方に帰ってきたはずなのに、次に目が覚めた時には、外が既に暗かった。浅い眠りの中で、ずっと泣いていたような気がした。泣き疲れたせいで目がはれぼったくて、頭がひどく痛かった。何も食べずに鎮痛剤を水で流し込んだ。食料はとっくに尽きていたけれど、買いに行くような気力も体力もなかった。
昼間に寝て、夜に起きて、また眠る。それを何度も繰り返した。バイト先からたくさん不在着信があった。横たわったままかけなおすと、「秋田さん、何度も無断欠勤ってどういうつもり?」と店長から叱責があった。何も考えられないまま、辞めます、と言った。ケンさんの顔だって見たくなかった。「君に言われるまでもなく君はクビだよ」と吐き捨てる声とともに、電話が切れた。
何も考えず、眠るだけの日々。
――眠れば、何もわからない。何も感じない。
やっと気持ちが落ち着いて、警察に電話をしようと、番号を打ち込んだ。でも、発信ボタンがどうしても押せなかった。もうあの時のことを思い出したくなかった。うかつだった私の非を責められるのが怖かった。これ以上傷つきたくなかった。
よろよろとベッドに戻り、電気もつけずにタオルケットの中で丸まっていた。気づくと長原さんの上気した顔や、身体をまさぐられる感触を思い出しそうになって、その度に枕に顔を埋めて、荒い呼吸を整えた。必死に別のことを考えようとした。幸せだった頃の記憶を。
みんながノッてくれたライブ。スタジオ練習。夜の海を見ながら話をしたこと。みんなでやった花火。何も知らない新入生だった頃、ステージで見た先輩の姿。思い出しては違う感情で泣きそうになった。
『あなたの一番古い記憶はなんですか?』
いつか、面接で訊かれた質問を思い出す。
『父とキャッチボールをしたことです』
あの時、私はまだ三歳か四歳だった。父が「子どもが生まれたらキャッチボールをするのが夢だったんだ」と、ぴかぴかのグローブを私に持たせた。「それって普通息子とじゃないの? やめなさいよ、女の子なのに」と、母は呆れていたけれど、私の好きなおかずばかりの弁当を作って、公園までつき合ってくれた。父と無心でボールを投げ合った。母は木陰で見守りながら、時々「怪我しないでよー」「ふみ、もっと後ろ!」とこちらに呼びかけた。
泥んこになって帰った。父と一緒にお風呂に入って、晩ご飯を食べると、私はすぐ眠ってしまった。隣には父と母の体温があった。
幸せだった頃の記憶。
愛されていたんだなあ、と思う。
『お父さんとはまだ仲がいいんですか?』
父は死にました、とは言えず、少し考えた後、作り笑いで「はい」と言った。
その面接も、確か、落ちたんだったな。落ちた原因がはっきりしている面接もキツいけれど、この時の面接みたいに、何が悪かったのかまるでわからないのもつらい。
お父さん、ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい。愛していた娘がこんなに汚れてしまって。社会にもろくに適合できず、馬鹿な男に騙され、ゴミみたいに使い捨てられて。それもきっと、私がゴミみたいな人間だからだ。自業自得だ。
ごめんなさい。こんな人間なのに、生きていてごめんなさい。
まともな人間になれなくて、ごめんなさい。
枕に涙が次々染みこんでいった。
一人でいると気持ちはどこまでも沈んでいった。ひたすら眠ろうとしたのに、そのうち眠るのにも限界がきた。冷蔵庫に残っていたお酒を流し込んで、無理に眠ろうとしても、気持ち悪くなるだけだった。私は本当に馬鹿だ。
朦朧とした視界で、窓の外を見る。二階。飛んでも、死ねない。
そこまで考えて、さすがにまずい、と我に返った。
だれかにすがりたかった。だれでもいい。声を聞きたかった。こんな暗い部屋で、一人でいたくなかった。じゃないとすぐ、向こう側に吸い込まれる。
窓の外は暗い。この頃、明るい空を見ていない気がする。
有紗。この時間はたぶんバイトだ。のんちゃん。研究室が夜まで忙しい。ケンさん。論外。千葉くん。こんなことを突然吐き出されても、きっと困る。
電話をできるあては、一人しかいなかった。
震える指で、通話ボタンを押した。コールの間、時間がやけにゆっくりと過ぎた。
『……もしもし、ふみ?』
不安そうな、けれど穏やかな声は、聞き慣れた、ひどく懐かしいものだった。
「花岡」
口にして、わっと温かい涙がこぼれた。
しばらく何も言えず、ただスマホを握りしめていた。
『ふみ、泣いてるの? どうしたの?』
どこまでも私を気遣う彼の優しさが痛かった。
「……ねえ、花岡」
自由にならない呼吸の隙間。やっとのことで声を振り絞る。
会いたい。その言葉が、どうしても言えなかった。自分の身勝手さで彼をどれだけ苦しめたのか。後悔が歯止めをかけた。代わりに尋ねた。
「私には、生きる価値があると思う?」
社会からは必要とされず。ろくでもない人間に堕ち。ゴミみたいに扱われたのも、自業自得で。
ずっと私を愛してくれていた人に、唾をはきかけ続けて。
『……おれは、ふみがいなくなったら悲しい。それじゃあ、だめかな』
花岡の声は悲しそうで、不安そうで、だけどやっぱり優しかった。
「花岡は、まだ私のこと、待っててくれてる?」
『うん』
「そっか」
こんな言葉で、私は簡単に安心してしまう。
「ごめん、花岡。忙しかったよね。急に電話して、本当に、ごめん」
『ううん。ふみから連絡くれて嬉しかった』
ねえ、何かあった?
その言葉の始まりが聞こえた途端、私は咄嗟に電話を切ってしまった。
せっかくこちらに手を伸ばしてくれたのに。怖くて手を掴めない自分の弱さに、うんざりした。
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