Su凸ko D凹koi『店長、私バイト辞めます。』――2
もう一つの事件は、数度目の弾き語りの後に起こった。
拍手も、反応も、日に日に小さくなっていく気がする。あくびをしながら出ていく人。スマホをいじっていた人。友達と壁にもたれてしゃべっている人。ステージの上からは、思っているよりも色々なものが見える。
憂鬱な気持ちで舞台を降り、袖に引っ込んだ時、「ちょっと」と誰かが私を手招いた。確か、このライブの主催者で、前に名刺をくれた人だ。名刺にあった名前は、確か、長原文雄。名前の部分が奇しくも同じで、なんとなく覚えていた。
なんだろう、と思いながら長原さんに近づく。小柄だがどっしりとした体つきで、妙な貫禄のある人だった。父が生きていたらこのくらいだろうか、という歳だ。歳の割に頭髪はしっかりしていて、いかにも穏やかそうな、「お父さん」を絵に描いたような人だった。
「文緒ちゃん、いつもライブ出てくれてありがとう。今日もよかったよ」
「ありがとうございます」
頭を下げて通り過ぎようとしたら、再び呼び止められた。
「この後、空いてたらごはんでもいかないか」
「いえ、給料日前で金欠なので……」
私がそう断ろうとすると、長原さんは「はっはっは」と嘘みたいな笑い方をした。
「もちろん僕の奢りだよ。娘みたいな年の子に、お金を出させるわけにはいかない」
笑顔は柔和だった。それに一瞬だけ、不穏なにおいを感じ取った気がした。
こういう時の違和感は当たるものだけれど。明確に警戒をするほどの理由もなくて、断りきれないでいるうちに、相手の強引さに負け、気づくとご飯に行く流れになっていた。ご飯に行くだけ。少し、話をするだけ。相手も私を娘みたいなものだと思っているようだし。きっと、何もない。大丈夫。そう自分を宥めた。
最初は穏やかな食事だった。長原さんが連れてきてくれたのは、軽いコースを出してくれる店だった。一食七千円程度とコースにしては比較的安価で、ドレスコードもないけれど、コース料理なんて初めてだ。私は落ち着かなかった。「こんなところ、同世代の男の子とじゃ来れないだろう?」と長原さんは自慢げだった。「そうですね」と機嫌をとりながら、申し訳ないけれど早く帰りたくて仕方なかった。
「せっかくだからワインも頼もう」と、長原さんは一杯何千円もするワインまでつけてくれた。ワインはあまり得意ではなかったが、頑張って喉に流し込んだ。繊細に盛り付けられた料理は、どうやって食べたらいいかわからないものばかりだった。長原さんの見よう見真似でどうにか皿をきれいにした。
「僕は、君には才能があると思ってる」
はあ、と私の返事は釈然としない。お世辞としか思えなかった。才能があるなら、どうして、ライブではあんなに観客の反応が薄いのか。
肉料理をフォークで口に押し込む。「この肉はつけ合わせと一緒に食べるのがうまいんだよ」と、長原さんはすぐさま蘊蓄を挟む。機嫌を崩すのが嫌で、言われた通りに食べた。確かに、おいしい。けれど、もっと気心の知れた人と、リラックスした状態で食べたかった。
「君さえよければ、歌の仕事を斡旋するよ。レコーディング会社に知り合いがいるんだ」
そう言って、長原さんは、誰もが知っているレコーディング会社の名前を挙げた。私が就活で選考を受けて、一次面接で落ちたところだった。
「……いいんですか?」
棚からぼた餅、というのか。思ってもみない話だった。何をしても続かない私だけど、音楽だけは漫然と好きでいた。音楽を仕事にできるなら、願ったりかなったりだ。レコーディング会社を受けたのも、そんな気持ちがあったからだった。
「うん。代わりに、もう一軒、つき合って。いいバーを知ってるんだ」
断れば、仕事をもらえなくなるかもしれない。それどころか、お情けで出させてもらっていたライブにだって出れなくなるかもしれない。お酒にはそんなに弱くない。きっと潰れるようなことはないだろう。気は進まなかったけれど、将来の自分のためだ。就活とさほど変わらない。
私は長原さんの要求を呑むことにした。大丈夫。ちょっと、お酒を飲むだけだ。
お酒の入った長原さんは、いつもより少し横柄で、気が大きかった。自分は誰と知り合いだとか、芸能人の誰と飲んだことがあるとか、そんな話ばかりを、やたら大きな声でした。私は「そうなんですね」「すごいですね」を繰り返しながら、淡々と胃にものを押し込んだ。私が愛想を振りまくほど、長原さんは楽しそうに自慢話を続けた。
帰りたい。
いくら高い食事でも、こんなに疲れるのなら、一人でカップ麺でも食べていた方が何倍もマシだ。
二軒目は、有名なホテルのラウンジにあるバーだった。ホテル、ということで少しぎょっとするけれど、「ラウンジに寄るだけだから、そんなに警戒しないで大丈夫だよ。傷つくな」と長原さんは笑い飛ばした。確かに、私でも聞いたことがあるような著名なホテルだ。確か、一泊何万とするようなところ。気軽に寄れるラブホテルとは違う。
大丈夫かな。
大丈夫だよな。
娘のような歳の女の子なんて、この人には子どもみたいなものだろうし。そんな人間に下心なんて抱かないだろう。私はたいして男好きする見た目ではないし。一泊何万なんて、私なんかのために使うわけ、ないし。
せっかくよくしてくれているのだから、警戒をあらわにするのは失礼なのかもしれない。怒らせてしまうのかもしれない。
父といた時間が短いせいで、年上の男の人というのは、それだけでどこか怖かった。私は黙って車を降りた。運転手の人はすぐに去ってしまう。ああ、もう、戻れない。ここで帰ろうにも、私には足がない。道がわからないし、タクシーをとるようなお金もない。
逡巡しながらも、引き返すタイミングを完全に逃して、私は黙って長原さんについて行った。高級ホテルのラウンジは、Tシャツにジーンズの女子学生は予想通り浮きまくっていた。自分が悪目立ちしていることを自覚しながら、小さなグラスに入ったカクテルを、やけくそになって流し込んだ。
二杯目を飲んだ頃だろうか。突然、視界がぐらりと傾いた。何の前触れもなかった。今日はワインを入れても三杯くらいしか飲んでいないのに。おかしい、と思いながらも、身体が言うことを聞かない。周りの景色も音もめちゃくちゃに聞こえる。
暴力的なめまいに襲われて、背後から殴られたみたいに、私はテーブルに崩れ込んだ。
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