リーガルリリー『リッケンバッカー』――5

 就活をやめてから、心はずいぶんと軽くなった。母にはたっぷりと小言を言われたけれど、私が弱っていることは伝わったのか、「まあ、好きにしなさい」と言われ、会話は終わった。母も私に期待をするのはやめたのかもしれない。その方がずっと生きやすい。

 私も、ケンさんに何かを期待するのはやめた。

 それでも、心のどこかでは、無意識に期待をしていたらしい。一度、初めて曲を作った。後輩たちは徐々にライブを再開させている。いつか先輩たちも出れたら、とせっかく言ってくれているし、どうせなら一度は弾き語りで出てみたい。そんな気持ちで作った曲だった。

 歌詞にコードをつけただけのものだけれど、何せ初めてのことだったから、それなりに苦戦した。思い入れもあった。できた、と思うと嬉しくて、そのままケンさんに聴いてもらった。

「ふみは、歌が上手いなあ」

 褒めたつもりだったのだろうけど、私の曲への感想は、一言もなかった。まともに傷ついている自分がやるせなくて、だけどやっぱりそれも言えなくて、花岡の時みたいに、「言うほどではないか」が私の中に蓄積していった。

 ただ、ケンさんは、「もしよかったら出てみいひん?」と、小さなライブを斡旋してくれた。ケンさんのサークルは、サークルの内だけじゃなく、外のライブハウスに出る人も多い、本格的なところだ。

「本当は別の子が出る予定やってんけど、たまたま空きが出て、主催の人が困ってるんよ。ふみの弾き語り、外にも通用すると思うねん。どうや?」

 そんなことを言われて舞い上がる程度には、私は単純で、馬鹿だった。

 初めて出た外のライブは、客入りは思ったより多くなくて、反応もサークルほどじゃなかった。外で通用しない自分の実力を思った。上手い上手いとちやほやされていたのは、せいぜいサークルという井戸の中での話だ。私は井の中の蛙だった。

 けど、主催者のおじさんからの評判だけはなぜだかよくて、「次のライブも出てほしい」と名刺までもらってしまった。喜んでいいのか、悪いのか。

 ケンさんはライブの打ち上げに出てしまって、その日は一人で夜を明かした。アウェイな飲み会で自分が楽しめるとは思えなかった。


 花岡になにも言えないまま月日だけが過ぎて、停滞は、すぐにやってきた。

 夜勤明けの休日。昼過ぎに起きて、なんとなくそういう雰囲気になって、ことが済んでしまうと、私たちはただただ時間を持て余す。共有している時間が長すぎて、話すことは随分前から尽きていた。

 私はケンさんがやるゲームをぼうっと見ている。彼の銃に打たれたよくわからない生き物が、スマホの中でのたうちまわって倒れる。見ていても退屈なばかりで、しばらく友達のインスタを見ていたけれど、それもすぐに飽きた。あくびをかみ殺して、ぬるい休日の午後にうとうとする。

 カーテンから差し込む光はいつの間にか西日になっている。昼に食べたカップラーメンの容器が卓上に置きっぱなしになっている。

 怠惰と言えば怠惰で、平和と言えば平和。私たちの関係は、すべてがそこに収束する。

 趣味が合うと思っていた部分はほんの少し重なり合っていた部分だけで、思っていたほど感性が合うわけでもないのだと知った。好きな曲を聞かせて、「ふうん、こういうの好きなんや」と生返事だけがかえってきてから、自分の好きなものをむやみにさらすことはやめた。うっかり本音をしゃべりすぎてしまった日は、デリカシーも悪意もない言葉に必要以上に傷ついて、なんであんなことまで話してしまったんだろうと、決まって後悔した。

 嫌いじゃないけど、好きでもない。直してほしいところはたくさんある。食べ終わった食器を水につけないところ。便器を下ろすのを忘れるところ。やたらアドバイスしたがるところ。身体を重ねたあとに妙に素っ気なくなるところ。変な関西弁。

 指摘をするほどのことでもないか、と私は何度も言葉をのんだ。その度に、お腹の奥に、名前のつけられない、悲しみのような、寂しさのようなものが積もっていった。それでも、波風を立てるよりも、やり過ごす方がずっと楽だった。彼も私に不満はあるだろうに、やはり表立って指摘することはなかった。

 私は花岡の時から、ちっとも成長していない。

 他人同士なんだし、合わないところがあるのも当たり前だ。期待をしなければ、ある程度は満たされる。家族も友達も恋人も、私の人間関係は、いつも同じところに着地する。


 ケンさんがSNSでしょっちゅう女の子と絡んでいるのも、男だけの飲み会と言いながら、二人で飲んだ子がいるのも知っていた。看過するのは別に難しくなかった。だらしない人とだらしなくつき合うことを選んだのは私だ。

 けど、ある日。いつも通りインスタを見ていたら、ある人の投稿が目に留まった。ハンドルネーム、「kotone」。アイコンの写真からすぐ琴音ちゃんだとわかった。

 いつの間に相互になっていたんだっけ。記憶になかったけれど、そんなことはすぐ、画像の情報で上塗りされた。

 しっかり恋人繋ぎされた手の片方は、間違いなくケンさんだった。

 わかっていた。「ずっとふみが好きだった」という言葉が嘘なこと。それならサークルに元カノがいるのはおかしい。ケンさんは、都合のいい言葉を、都合よく吐いただけ。

 全てわかっていたはずなのに、急に、無理だ、と思った。血管の浮き上がり方もごつごつした手の形もよく見知ったものだった。人差し指には見慣れたシルバーの指輪がついていた。

 衝撃は受けたものの、すぐに腑に落ちた。琴音ちゃんはケンさんと同じサークルだ。ケンさんは頻繁に「ふみは髪のばさへんの?」「ロングのふみもかわいいやろなあ」と言っていた。黒髪ロング美少女、なんて、いかにも好きそうだ。

 腑には落ちたけれど、だからといって、割り切れるわけではなかった。逆に、生理的な嫌悪が胸の中にじわじわと広がった。

 だからだろうか。いつもは受け流せる小言が、受け流せなかった。

 気持ちを変えたくて、美容室で髪を染めた日。ブリーチはひりひりして痛かったけれど、このまま黒髪でいると、どうしても就活のことが頭から離れない。きっぱり決別する気持ちで、私は髪色を金に戻した。

「髪染めたん? もっと大人しい色にすればいいのに」

 髪色が変わっていた私を見て、ケンさんが不満そうに呟いた。いつもなら、それも甘えたスキンシップの一環だと割り切れた。

「ならそういう子とつき合えば?」

 自分の口から出た声は、自分でもびっくりするほど冷たかった。「冗談やん、冗談」と誤魔化す声が、いつもよりもざらざらと不快に感じた。

 花岡の時と違って、別れよ、という言葉は淀みなく出た。「落ち着けって」と言われたけれど、心は至極落ち着いていた。最初は抵抗していた彼も、琴音ちゃんの話を持ち出すと、きまり悪そうに黙り込んだ。

 止まった時間がようやく動き出して、つき合った時と同じ軽さで、私たちはお互いを手放した。

 二カ月。短い方だとは思うけど、思っていたよりは続いただろうか。ほっとしているくせに、身体の真ん中がすかすかと虚しい気がしている。

 誰でもよかったんだ、お互いに。出先で雨に降られた時、とりあえず傘を買うのと同じ。

 意味もなくお酒の缶を開けた。いつものストロングゼロ。缶を持ったままベランダに出て、ラッキーストライクの煙を夜風に溶かす。

 ベランダで風に吹かれていたら、ポケットの中でスマホが震えた。一瞬ひやりとしたけれど、ケンさんではなかった。画面には「お母さん」という文字が大きく映っている。タイミングがいいのか、悪いのか。

 近況報告を聞きたがって、母はいまだに電話をかけてくる。娘がまともに就職をするはずという望みももうかけられていない。口出しをしない代わりに、母は「あんたそんなんなんだから、はやくいい人みつけなさいよ」とせっついてくる。家にいたら煩わしく思って反発していたかもしれない。私が大人になったのか、距離がなせることなのか、「そうだね」とわたしは適当に返事をする。

 母はいつまでも、私を何も知らない子どもだと思っている。昔は「ちょっとは女の子らしくしなさい」が口癖だった。「あんたは昔から色気がない子だったから」という母は、私に彼氏ができたことがないと思っている。

 ごめんね、お母さん。相槌の合間で煙を吐き出しながら、思う。私はもう、あなたが思うほど純真でも無垢でもない。薄汚い大人になってしまった。

 紫煙が斜めに流れていく。夜風が身体に冷たかった。飲み込んだお酒がますます身体を冷やした。明日の夜勤に彼はいるのだろうか。母の小言を聞き流しながら、明日どんな顔でバイトに行こうか、そんなことばかりを考えている。


「ケンさんと別れた」と有紗にLINEをしたら、すぐに電話がかかってきた。また何か言われるのではないかと身構えたら、有紗は「おかえり」と淡々と言った。

 私は小さく息を吸って、吐いた。

「ただいま」

 



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