リーガルリリー『リッケンバッカー』――4
とはいえ、最初は迷った。いくら関係が消えかかっているとはいっても、花岡と別れ話をしたわけではない。ケンさんの日ごろの評判も手伝って、私は今回ばかりは、すんなり流される気にはなれなかった。
迷っているうちに、ケンさんは家に押しかけるようになった。「好きやで」と毎日のように浴びせてくるようになった。私を抱きしめることもあれば、めいっぱい甘やかす時もあった。私は、揺れて、揺れて、結局、ぬるま湯のような心地よさに流されてしまった。
いくら評判が悪いとはいえ、ケンさんはある意味、私を瀬戸際で救ってくれた人だった。たくさん優しくしてくれるし、言うほど私はケンさんが嫌いじゃなかった。顔だって、決してタイプではないけれど、そう悪くはない。一緒にいて居心地の悪さも感じない。むしろ、同じ喫煙者なだけ、花岡と違って遠慮が要らないのは楽だ。
不誠実だってことはわかっていた。花岡と、ちゃんと話をしなくちゃ。わかってはいたけれど、なかなか踏み切れなかった。
踏み切れないうちに、初めての夜を迎えた。普段の態度とも、花岡との時とも違って、ケンさんは少し荒っぽかった。それでも、女慣れしているだけあって、無理なことや痛いことはしなかった。
これでいいのかな。ずっと罪悪感が胸にあった。答えはわかっていた。いいわけない。
罪悪感を抱えつつも、ケンさんに誘われてデートにも行った。ケンさんは私の知らない色んな場所を知っていた。馬鹿だった私は、その刺激に酔った。花岡とは毎回割り勘だったけれど、ケンさんは全部奢ってくれた。それが下心からだとわかっていても、こなれた態度は遊び慣れているせいだとわかっていても、私はどこか新鮮な楽しさを感じていた。
踏み切れないままずるずると流されているうちに、最悪の事態が起こった。
有紗から呼び出された。場所は、スタジオ近くのカフェ。前に、のんちゃんと有紗と三人で、練習終わりに行ったことがある場所だった。
有紗は最初からピリピリした雰囲気をまとっていた。私が素知らぬ顔をして世間話をふっても、生返事。「お席の長時間の利用はご遠慮願います」と書かれた席に座っても、メニューを選んでいる間も、有紗から私に話しかけてくることはなかった。
二人分のコーヒーが届いた時、有紗はやっと口を開いた。
「横川とつき合ってるって本当?」
予想していた展開だった。想像と違うのは、予想より有紗の声が尖っていたことだ。
なんで知ってるの、と私は訊いた。ケンさんとのことは誰とも話していない。
私の返事は、事実と認めたようなものだった。有紗は深く溜息をついて、スマホの画面を黙って見せた。
インスタのスクリーンショットだった。アカウントはケンさんのもの。「彼女の寝顔かわいすぎ」とハッシュタグがついて、写真には見慣れたTシャツと、半分隠された私の顔が写っていた。
血の気が引いた。いつの間に、こんなものを撮られていたのか。まったく身に覚えがなかった。
「横川は、やめとけって言ったよね」
「……有紗は、どんな選択をしても、応援するって言ったじゃん」
我ながら、子どもじみた言い訳すぎて、馬鹿みたいだった。
「それは、二人が決めた結論なら、って意味だよ。ねえ、ふみ。花岡と、ちゃんと話はしたの?」
「……してない」
「つき合うのはまあ、百歩譲っていいよ。ふみの勝手だから。でも、花岡ときちんとしないままつき合うのは、話が違うでしょ。この投稿、花岡も見ているかもしれないんだよ。花岡の気持ち考えたことあるの?」
一度言葉が出てくると、有紗は堰を切ったように私を責めた。ごもっともだったから、何も言えなかった。今回のことは、全面的に、私が悪い。自分が一番よくわかっていた。
「花岡、まだ、ふみのこと好きなんだよ」
「……そうなの?」
「そうだよ。横川とのことは知らないかもしれないけど、本人はふみと離れてから、すっごく悩んでるよ。どうしたらふみと仲直りできるかなって、何度も相談された。ついこの間も。就活のことも、うまくいってないって聞いて、すごく心配してた。だけど、ふみのために、会うのも、連絡をとるのも我慢してるの。負担になりたくないからって」
私はどんどん重力に負けてうつむいてしまう。
「せめて、ちゃんと別れて、花岡を自由にしてあげてよ。じゃないと、花岡、いつまで経っても前に進めないじゃん」
「……うん、ごめん」
これは、何に対する「ごめん」なんだろう。
「謝るのは、あたしにじゃないでしょう?」
有紗はイライラした様子で頭を掻いた。きれいにまとめられた髪が、指の先で乱暴にほぐれた。
「なんで横川なの、よりによって」
信じらんない、という言葉が、心臓に深く刺さって痛かった。
「あいつ、本当にだらしないよ。前の彼女とだって、あいつの浮気が原因で別れてる。ふみとは別の子ね。その子とまだ、続いているかもしれないんだよ。冷静になってよ」
ちっとも冷静でない様子で、有紗はまくし立てた。
「ねえ、なんであいつなの」
有紗の目は怒りの中に、どこかすがりつくような色を孕んでいた。
「あたし、ふみに不幸になってほしくない」
不幸なんかじゃないよ。そんなこと、思っていても言えない。代わりに言った。
「……なんでって、私が、ろくでもない人間だからだよ」
有紗はショックを受けたように目を見開いた。
私は一度、小さく深呼吸をした。呼吸をするたびに胸が鈍く痛んだ。
「私は、ダメ人間だから。社会にも適合できないし、いくら言われたって煙草はやめれないし、ちっとも正しく生きられない。だけど花岡はいつも正しい。ケンさんは確かにだらしないのかもしれないけど、だから、ケンさんの傍だと、ちゃんと息ができるの」
有紗は沈痛そうに黙り込んでしまう。
「花岡だって、私なんかといない方が幸せだよ、きっと」
言葉は、返ってこない。
コーヒーの湯気が知らぬ間に薄くなっていた。ぬるくなったコーヒーは、口をつけても苦みが広がるばかりだった。
「ねえ、ふみ」
わずかに声が優しくなった。それに少しだけほっとするのが情けない。同級生なのに、私は叱られて怖かったんだ。相手がまっとうなことを言っているから、なおさら。
「これは、ふみを信じてるから言うんだけどさ。きっぱり別れていないのは、少しでも、花岡に対する気持ちが残ってるからじゃないのかな」
わからない。だから、何も答えられない。
「花岡にちゃんと話をしてくれれば、あたしはふみの選択を尊重するよ。でも、一つだけお節介を言わせて」
有紗のきれいな手が、私の手を握った。有紗は泣きそうだった。人のことで泣ける有紗が眩しかった。
「悪いことは言わない。花岡にしときな。どこかで、絶対後悔する」
ごめん、と私は言った。
何に対するごめんなのかは、今回も、やっぱりわからなかった。
ケンさんの家に、初めて自分から向かった。いきなりの、アポなしの来訪だった。
ケンさんは戸惑っていたけれど、一方でどこか嬉しそうでもあった。「ふみから来るなんて、珍しいやん。何かあったん?」と。能天気な笑顔が、今は憎々しかった。
「ねえ。なんで勝手に、インスタにあげたの」
声が震えた。
八つ当たりだってことはわかってる。けれど、ぶつけずにいられなかった。
「ああ、あれ? 悪かったなあ、断りもせんで」
「そういう問題じゃない」
「そう怒らんといてや。ごめんて。……ああ、ふみは怒ったとこもかわええなあ」
ケンさんは宥めるように私の肩を抱いて、よしよしと髪の毛を撫でた。
怒りは収まるどころか、膨らんで、膨らんで、ぽん、とはじけて消えた。残ったのは虚しさだけだった。
――ああ、この人には、何を言ってもだめだ。会話が通じない。
ケンさんが少しでもまともだと期待をしていたことに、自分で少しだけ驚いた。
怒っても無駄だ。「もうしないで」と言う声に、諦めが乗った。ケンさんは「わかった、わかった」と言っていたけれど、少しだってわかってはなさそうだった。
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