第4章

リーガルリリー『リッケンバッカー』――1

 きみはおんがくを中途半端にやめた。


 バイト帰り。歌と一緒に口ずさんで、虚しさが胸に満ちる。

 黒髪になった私は、月明かりの下をとぼとぼ歩く。コートのポケットに手をつっこんで。イヤホンを耳からぶら下げて。

 季節は冬。あと数日で、年が明ける。


 新型コロナウイルスの脅威は収まることを知らなかった。残暑の季節、東京の感染者が千人を超えて、世間はあわやパニックになった。

 いいことと悪いことはひとつずつ。いいことは、無理に帰省をする必要がなくなって、憂鬱なお盆を母と一緒に過ごさなくてよくなったこと(代わりにめちゃくちゃ電話はあるけれど)。悪いことは、サークル活動のサの字もないまま毎日が過ぎていくこと。

 この調子だと、きっと文化祭も無理だろうな。「学祭でリベンジしましょうよ! あのバンドは絶対に大きいステージに立つべきです!」と、悔しそうだった志乃には申し訳ないけれど。早めに諦めることで、私はどうにか心を守ろうとした。

 案の定、秋を迎えて感染者数は下り坂になっても、大学側の判断は慎重だった。またいつ感染爆発が起こるかわからない状況で、屋台で食べ物を売ったりたくさんの人が集まったりする行事ができるわけがない。文化祭は早々に中止の判断が下され、私たちが大きな舞台に立てることは、ついぞなくなった。私たちだけじゃない。私たちより下の大学生も、高校生や中学生も、「青春」と呼ばれるもの全てが、巨人の手でぺしゃんと潰されてしまったようだった。

 そのくせ世間は「GOTOトラベル」とやらで盛り上がっていた。コロナで大打撃を受けた観光産業を活気づけるのが目的だ。最近、「経済か人命か」という二択の議論が白熱している。経済と人命を秤にかけること自体、なんだか妙な気がするけれど。でも、経済でも人は死ぬ。のんちゃんのバイト先の店の人とか、店が潰れてしまって、これからどうしていくんだろう。

 ともかく、「感染対策はしてください。一生に一度だろうがイベントは中止です。でも旅行には行って経済をまわしてください」とねじれた世相にあって、「旅行はいいのに俺たちがステージに立つのはなしってなんだよ」と、慎重派だった千葉くんもさすがに憤りを隠さなかった。

 十一月半ばには、私たちの代替わりがある予定だった。これも厳しそうなのは同じだけど、他のライブと代替わりは重みが違う。途中がいくらめちゃくちゃでも、せめて最後くらいはきれいに終わりたい。ということで、十一月の代替わりは十二月まで延期になった。幸い、この頃感染者が比較的落ち着きつつあって(実は感染者自体は年初に比べればずっと増えているのだけど、最初ほどの警戒感がなくなっていた)、十二月になればできるかもしれないという、かすかな望みがあった。サークル活動も徐々に再開が見込めつつあり、火曜と木曜の小さな活動は、人数を制限して少しずつやり始めてもいた。新一年生の新歓も、オンラインでやってみようという話になり、有紗を中心に準備を始めていた。

 三年生の私たちだってたくさん悔しい思いをしているけれど、二年生以下も不憫だ。特に一年生は、高校の卒業式も大学の入学式も中止になって、授業も最初からオンラインで、サークル活動はおろか、全ての人間関係が希薄だと聞く。「コロナ鬱」という言葉もニュースでしばしば取り上げられており、そこでも「友達を作る機会がない」「普通のキャンパスライフを送ってみたい」という大学一年生の声の悲痛な声が上がっていた。

 不幸なのは自分たちだけじゃない。そのことは救いでもあるが、一方で、いっそう感情のやり場をなくした。

 それでも、少しずつ減っていく感染者に、私たちは目に見えて浮足立った。十二月の代替わりライブの予定も決まり、久しぶりにベースを引っ張り出した。みんなで一つの目標に向かって、同じ曲を練習する。渦中にいる時は大変で、時にはうんざりすることもあったことが、ひどく懐かしかった。

 ものすごく久しぶりにスタジオにも入った。ミセスも、yonigeも、みんなちっとも変っていなかった。マスク越しでもみんなの顔が見れるのは嬉しかった。花岡は、少し痩せたかもしれない。それでも、少しのぎこちなさはあったけれど、変わらず話しかけてくれたし、目が合えば申し訳なさそうにはにかんでくれた。

「ミセス、出て大丈夫だったの? わたしは、嬉しいんだけど」

 三人でのスタジオの時。久しぶりすぎて忘れかけているアンプの操作に四苦八苦していたら、のんちゃんに訊かれた。気を遣わせているのが申し訳なかった。

「私情は持ち込まないよ。私だって出たいし。それとこれとは別」

「そっかあ。よかった」

 のんちゃんのほっとした顔を見て、私は相当心配をかけていたのだなと、なおさら申し訳ない気持ちになった。

 一人の練習も楽しかったけれど、スタジオでみんなで合わせる練習は、その何倍も楽しかった。久々の大音量に耳が痛くなることすら嬉しかった。みんな卒研や研究室が少しずつ始まってきていて、忙しい合間を縫っての練習だったけれど、その忙しさすら充実感につながった。

 だが、そうはうまくいかないのが人生だ。

 いよいよ明日をライブ本番に控えた日。ミセスの最後の練習を終え、「頑張ろう!」と五人で円陣を組んだとき、有紗のスマホが鳴った。メールの通知だった。

「大学からだ」

 有紗が言った途端、みんなの表情が凍った。

 固唾をのんで見守る。しばらく険しい顔でメールを読んでいた有紗は、あるところまで読んで、「はあ⁉」と大きな声を上げた。

「どうしたの?」

「とにかく見て。今役職者LINEに転送する」

 各々がスマホを取り出し、画面を睨む。スマホを握る手が震えそうだった。心臓がいやにどきどきしていた。

『活動自粛のお願い』

 自粛のお願い、と言ってはいるけれど、実質は命令に近い。すべてのサークル活動を中止すること。違反した場合は、万が一の責任を当局は負わないこと。全文を読み切るより前に、嫌でもわかってしまった。

 代替わりライブは中止。

「なんだよこれ!」

 千葉くんが声を荒げる。「急すぎるだろ、いくらなんでも!」

「もう明日なのに」

 のんちゃんは泣きそうだ。

「金曜日の夜に発表、大学に問い合わせられないようにするためだよね、これ」

 花岡だけが妙に冷静だった。

「なにそれ、信じらんない。こんなのあり?」

 有紗の声は、まるで悲鳴みたいだった。

 私は何も言えずに、白く光る画面を見ていた。

 巨人の手は、容赦がなかった。少しの希望を与えて、それを目の前で奪い去る。


 代替わりライブができない代わりに、後日、後輩たちが小さな「送る会」を開いてくれた。みんながマスクと消毒をして、寒いけれど教室も換気をして、極力少人数での開催だ。毎年恒例の色紙と花束を、ほとんど先輩として導く機会もなかったのに、後輩たちはきちんと用意してくれていた。

 代表として有紗に花束を渡したのは、志乃だった。志乃は泣いていた。悔しさ、悲しさ、寂しさ。涙の中に色んな感情が見えた。

「みなさんのライブが好きでした。もっともっと見たかった。こんな形になってしまったのは本当に悔しいです。大好きな先輩たちでした。本当にありがとうございました」

 ありがとう、と花束を受け取る有紗の声は、涙で少し掠れていた。

「あたしたちは何もできない、何もさせてあげられない先輩で本当にごめん」

「先輩たちのせいじゃないですよ!」

「ありがとう。……あたしたちの分まで、精一杯サークル楽しんで。イレギュラーなことばかりだし、みんなを引っ張ってくのは大変だけど、志乃たちなら、きっとできるよ」

 有紗の言葉を聞いた志乃は、ますます大粒の涙を流し、しゃくりあげた。

 みんなが色紙を受け取って、写真を一枚だけ取って、解散になった。

 この場を用意してくれた後輩たちには感謝しかないし、気持ちはものすごく嬉しい。色紙の文字だって、思い出が少ない中でみんなが一生懸命書いてくれていて、特に志乃は誰よりも長くメッセージをくれて、本当に、泣きそうなほど嬉しかった。この子たちが後輩でよかった、このサークルに入ってよかったと、心から思った。

 だけどどこかで、割り切れない感情がある。私たちより上の先輩たちが当たり前に経験してきたこと、得られるはずだったものを得られなかった喪失感と、悔しさ。

 考えても仕方のないことだ。誰も悪くないんだから。みんなは大学を悪者にするけれど、大学側だって、やらせてあげられるならやらせてあげたいのが本音だろう。

 それでもやっぱり、悲しいし、やりきれない。

 神様はどうして世界をこんな風にしたんだろう。神も仏もないとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。

 こうして、私たちの最後の一年が、幕を閉じる。

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