チャットモンチー『世界が終わる夜に』――4
二月の半ばから三月にかけて、雲行きが少しずつ怪しくなってきた。
「新型コロナウイルスによる感染症」が指定感染症となり、お隣の中国だけじゃなく、日本にも感染者が出始めた。毎日のようにクルーズ船のニュースがトップに上がった。イベントが縮小され始め、「緊急事態宣言」なんてたいそうな宣告が、北海道でされた。そのうち、東京も。そのあおりを受けて、サークル活動も休止になった。三月末には弾き語り限定のライブがあって、四月には新歓もあるのに、全く先が見通せなくなった。
コンビニには連日マスクを買う人が来て、しかもみんな大量に買っていくから、すぐに棚がからっぽになった。店長がレジによくわからないプラスチックの幕をかけた。
こんなことは、バイトを始めてから初めてのことだった。従業員特権で早めに確保しておいたマスクを、花岡と二人で分け合った。
花岡は神経質なのか、おおざっぱなのか、よくわからなかった。「ふみが罹ってたらどのみちおれも罹ってるでしょ」と家には相変わらず来るのに、私がいつも通り煙草を吸って帰った日には、「喫煙者は肺炎リスクが高いんだよ」と、花岡にしては珍しく直接的な言葉で諫めた。
私たちだけじゃなく、みんな、徐々に余裕がなくなり始めていた。
不安は病よりも早く伝染した。都知事によって「三密」なんて言葉も流行った。なぜかトイレットペーパーが品薄になった。オイルショックかよ。「これは社会の教科書に載るかもねー」なんて花岡に冗談を言っていたら、WHOがパンデミックを宣言した。
パンデミック。一度サークルでインフルエンザが流行ったとき、誰もが冗談めかして口にした言葉が、洒落にならないものとして迫ってきている。
そんな中、緊急で役職者のミーティングが開かれた。慣れないZOOMを使いながら、オンラインでの打ち合わせだ。
議題は「三月のライブをどうするか」。
「どうもこうも、サークル活動休止しろって言われてるから、無理なんじゃね」
悔しそうに言ったのは、千葉くん。
「でも、『不要不急の活動の自粛』でしょ? 自己責任で開催する分にはいいんじゃない?」
楽観的な意見を言いつつ、有紗も難しい顔をしていた。
大学から来たメールは、役職者のLINEグループにも転送されていた。確かに『不要不急の活動を自粛してください』としか書かれていない。まだ本部も混乱の中にいるのか、言葉が曖昧で、どこからどこまでがアリなのか、釈然としない。とにかく迷惑をかけてくれるな、という意図だけは伝わる。
「『自粛してください』って、変な日本語だよねえ」
のんちゃんは、珍しく不機嫌そうだ。
「『不要不急』って言葉もよくわからないし。ライブあることはずっと前から決まってたけど、それでも『不要不急』なのかなあ。会場だってふた月前から抑えちゃってるよ」
できることなら、やりたい。その気持ちは、みんな同じだ。
だけど、もし感染者が出たら。そのリスクを考えると、強気に出るのは怖い。
「サークルどころか、何万人と集まるプロのライブだってやってるじゃん? うちらはせいぜい数十人だよ」
「でも、どっかのライブで感染者出てるわけだろ。なんかあったらつるし上げられるのは俺らだぜ」
「オリンピックも延期してるしね」
「マスクと消毒徹底して、換気してやるのは?」
「まだ寒いし、それはそれで体調崩しそうだねえ」
かくて会議は踊る。
終了予定の時間を三十分過ぎても、結論はまとまらなかった。続きはまた後日、となりそうになったところで、先輩たちからLINEが来た。後輩に迷惑をかけたくないから、三月末の追いコンは中止にすると。
「これは……先輩が気遣ってくれてるのに、うちらだけできないよなあ」
有紗が苦虫を噛み潰したような顔で言った。反対する人はいなかった。
そうは言っても、すぐに状況はよくなるんじゃないか。またいつも通りの平穏が戻って来るんじゃないか。どこかでみんな、そんな期待を捨てきれずにいた。不安と楽観の葛藤の中、かすかな希望は打ち砕かれ、状況だけがどんどん悪くなった。
別の軽音サークルはライブを強行したけれど、そこで感染者が出たらしい。バイトでケンさんが教えてくれた。裏はすぐに取れた。ネットニュースで記事になっていたのだ。『馬鹿な大学生のせいで』『迷惑だ』と、コメント欄は荒れに荒れていた。感染による健康被害より、感染したことによる社会的非難のほうが凄まじい。あの時慎重になっておいてよかったと、みんなが胸を撫でおろした。
三月が終わっても、状況はよくなるどころか、日増しに悪くなるばかりだった。国内の感染者が三百人を超えた。学校が一斉休校になり、大学の始まりも五月に延期された。先生たちは今頃、オンライン授業の準備に追われているのだろう。大学の発表は相変わらずわかりづらくて、新歓は延期になったのか中止になったのか、よくわからなかった。
空っぽの四月。アルバイト先の人と花岡としか話さない日々の中、花岡との距離の近さが、ますます苦しかった。意味もなくヒリつくことばかり増えた。花岡が引き出しの煙草を見つけた時、花岡は今までで一番強い口調で訊いた。
「ふみはおれのこと好きなんだよね?」
花岡は、怒っているような悲しんでいるような顔をしていた。
「おれがこんなに頼んでいるのに、なんで煙草やめてくれないの?」
「持ってるだけで、吸ってないってば」
「じゃあ捨てていい?」
私はその時、きっとすごい顔をしたのだろう。
花岡はみるみる泣きそうになった。その姿が、うるさく干渉をしては、拒絶されると被害者ぶる母と重なった。このごろ母も頻繁に電話をしてくる。私はそのこともあって、いつも以上に気持ちがトゲトゲしていた。
「あんたさあ、千葉くんにも同じこと言うの?」
「千葉とふみは違うよ。おれはふみの彼氏なんだよ」
「へえ、彼氏の言うことならなんでも聞いて当然なんだ」
花岡は口ごもってしまう。言い過ぎたかな、と少し後悔するけれど、もっともっとひどい言葉をぶつけてやりたい衝動も、胸の内にくすぶっている。
なんでそんな、自分が被害者みたいな顔をできるの。私が悪いみたいじゃん。
いや、私も悪いのかもしれない。花岡の理想通りになれない私も。
ぐるぐる、ぐるぐる、言葉が渦巻く。
「おれはふみが心配なんだよ」
花岡の言葉がますます母そっくりで。
必死に言葉を抑えていた理性の蓋が、ぽん、と外れた。
「そんなに私が心配なら、頻繁に部屋来るのもべたべたするのもやめたら?」
花岡は怯えた目でこちらを見ている。
瞼が熱かった。傷つけているのは私のくせに。
重い重い沈黙が降りた。時計の秒針の音だけが、場違いに大きく響いていた。
「……私、少し、花岡と距離を置きたい」
「別れたいってこと?」
花岡が目ですがってくる。お願いだから、そんなこと言わないで。口にしなくても、何が言いたいのかは、なんとなくわかる。
「ごめん、おれがわがままだったよね」
声が震えている。
「おれのこと嫌いになった?」
「違う。そうじゃないよ。好きだけど、私は、近すぎると苦しくなるの。たまには一人になりたいし、関係性を理由に、うるさく何か言われるのも、それが当然っていうのも嫌なの。――今の花岡、お母さんみたい」
母と折り合いがよくないことは、それとなく、花岡に話してはいた。「親だからって、何もかも踏み込まれるのはつらいよね」と、花岡は私に寄り添ってくれた。なのにどうして、恋人だと、その感覚がなくなるのか。理解できなかった。
「同じだよ。恋人も親子も。近ければいいってものじゃないんだよ。ちょうどいい距離があるの。違う人間同士なんだから」
ソーシャルディスタンス。この頃よく聞く言葉が、脳裏をよぎる。
言うだけ言ったあとは、取り返しのつかないところまで来てしまったような気がして、恐ろしかった。一人にしてほしいのに、離れていかないでほしい。見捨てないでほしい。そんな矛盾した欲求が胸の内で暴れた。
子どもみたいに駄々をこねる自分が、情けなかった。
「別れるわけじゃない。……ちょっとの間、休憩しよう。疲れたの、私。少しでいいから自由になりたい」
「休憩って、いつまで?」
そういう必死なところが、ますます神経を逆撫でる。
私は何も答えなかった。いつまで休めば気が済むのかなんて、自分が一番わからない。
「……わかった」
黙りこんでいる私に、花岡は静かに言った。もう、声は震えてはいなかった。
「でもおれは、ふみを待っててもいいのかな」
「任せるよ」と私は言った。
「花岡だって自由になればいい。待ちたければ待てばいいし、もし嫌いになって離れるならそれでもいいし、別に、他の人のところに行きたくなったら、行ってもいいと思う」
「行かないよ」
「だから、もしもの話だって」
花岡は何か言いたげな目で、じっとこちらを見ていた。気弱そうでいて、思っていたより頑固なところがある。花岡の、そういう芯があるところ、嫌いじゃなかったな。そう思って、自分の中ですでに過去形が使われていることに、驚く。
「……ごめんね」
花岡は静かに謝った。「ううん。私も、ごめん」と言う時、私は花岡の目を見れなかった。
「だけどおれは、今も、これからも、ふみが好きだよ」
それだけを言い残して、花岡はそっと部屋を出た。ドアを閉める前、一度だけこちらを振り返ったけれど、そのあとはもう振り返らなかった。
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