チャットモンチー『世界が終わる夜に』――3

 十二月のライブに続いて、毎年インフルエンザが流行る季節の一月ライブも、パンデミックを起こすこともなく無事に終わった。私が一年生の時は半数以上がインフルエンザで出演できなくなる大惨事だったから、その時の反省が生きていたのだろう。

 役職者たちも少しずつ仕事に慣れてきて、全体にもどことなくまとまりが出てきた。

「そういえば、中国で新種のウイルスが出たってね」

「あらー、日本にこないといいね」

 そんなことを言いつつも、あくまで他人事だった。自分の身に火の粉がかかるなんて、誰ひとり、思っていなかった。

 平穏に日々は過ぎる。

 一月のライブを過ぎれば、二月のサークル活動はぽっかりと予定が空く。代わりにテスト期間があって、テストや期末レポートに追われる。楽器に触らない分、レポートを書くために、図書館から借りてきた全集や、パソコンに触れる機会が増える。

 そんな時期も、花岡は毎日のようにうちにやってきた。花岡は寂しがり屋なところがあって、できる限りの時間を私と過ごそうとする。学期末は花岡もそれなりに忙しいと思うのだけれど、うちに教科書やパソコンをもってきては、狭い折り畳みテーブルで二人で作業をしたがる。

 バイトはだいたい一時過ぎまであるのに、「一緒に寝たいから」と一生懸命起きている時もある。夜に弱い花岡は、たまに睡魔に負けて机上に撃沈している。

「たまに、これがちょっとめんどくさいんですよね。せめて、先に寝とけばいいのに」

 店の前の喫煙所で、白い息と一緒に呟いた。気温は氷点下ギリギリ。身体が冷えるのはわかっているけど、バイト終わりの煙草はなんだかルーティーンになってしまった。凍てつく街の中、燃える煙草の色だけが、ほんのりと温かい。

「ええやん、彼氏。かわいいやん」

 ケンさんは唇に煙草を挟んだまま、へらへら笑っている。

 ケンさんは自他ともに認めるどうしようもない人だけど、好感度を気にしなくていい分、あんまり気を遣わなくていいのは楽だ。

「でもたまに、ちょっと重いっていうか。嫌いなわけじゃないけど」

「ふみちゃんはドライやなあ。男は寂しがり屋なんよ。わかってやり」

「そんなもんですかねえ」

「愛されてるってことやん?」

「はあ……」

 そうなのかな。

 愛と依存の境界線って、どこにあるんだろう。花岡を見ていると、たまにそう思う。

「はよ帰ってやり。彼氏待っとるんやろ」

「これ吸い終わったら帰りますよ」

 深く吸って、夜空に向かって煙を吐いた。看板の明かりに照らされて、もくもくと白い煙が流れる。そろそろ寒さで耳が痛い。

 しばらく中身のない会話をして、「送ってこか」という申し出を断り、一人で帰路についた。耳にイヤホンを押し込み、小さく歌いながら歩く。練習のためでなく、ただ好きで曲を聞けるありがたみというものが、ライブのあとにはことさら身に沁みる。それでも耳は勝手にベースラインを拾う。

 ポケットに手を入れ、歩くこと五分足らず。ちょうど一曲聞き終わったところで、家に着いた。電気がまだついている。鍵を開け、ゆっくりと扉を開ける。

 狭い玄関で靴を脱ぎ、六畳の部屋への扉を開けると、花岡は教科書とにらめっこをしているところだった。何かの数式が書いてあるのが見える。

「あ、おかえり」

「ただいま。寝てなかったんだ」

 壁際に鞄とコートを置く。パーカーはそのままに、スキニージーンズを脱いで、寝巻のジャージに履き替える。花岡は律義に目をそらす。何を今更、と思うけれど。

「これ、明後日テストなんだよね」

「そっか。まだやる?」

「んーん、もう寝る」

 ぱたん、と分厚い教科書が閉じられる。応用数学。文系脳の私には、見ただけでくらっとくるような文字の羅列だ。数学、苦手だったなあ。

「すごいねえ」

「ふみだって古くて分厚い本読んでてすごいよ。森鴎外? とかさ。あれ、高校の時ちょっとやったけど、ほぼ古文じゃん」

 その認識は、正直間違っていない。

「読まされてるだけっすよ」

「充分すごいよ」

 ひとしきり褒められたと思ったら、花岡が急に抱き着いてきた。「なにー、もー」といなしながら、肩にぐりぐり押し付けられた頭を撫でる。

「おかえり」

 一度聞いたセリフ。だけど、こっちの方が言い方が甘かった。

「ん。ただいま」

 眠いのか、花岡の体温が高い。

 花岡が小さく咳をした。まだ煙草の匂いが残っていたのかもしれない。

「ごめん、ファブリーズしようか」

「ううん。大丈夫」

 やせ我慢だ、とすぐにわかる言い方だった。

 花岡はぎゅうっとしがみついたまま動かない。思いがけない力の強さと、小柄に見える花岡も私より体格がいいんだなってことを感じて、やっぱり花岡も男なんだなって思う。

「何、今日は甘えん坊なの?」

「ちょっと」

 薄っぺらな意味で、人肌恋しいのだろう。今日はひときわ冷えるし。最近忙しくて、ろくにできてないし。なんとなく、甘え方に湿度がある。

 案の定、花岡は首筋にキスをしてきた。そのまま唇を合わせてくるのを、私は黙って受け入れる。何度か触れて離したあと、今度は舌が唇に割り込んでくる。身体の真ん中がぞわぞわする。

「……まだ、あれ、あるんだっけ」

「一個だけ」

 きちんと覚えているのが、花岡のちゃっかりしているところで、ちょっと可愛いところだ。

 今日はもう歯を磨いて寝たいんだけどなあ、と思いながら、私は花岡の体温に抱かれたままでいる。


 次の日、花岡はテストを翌日に控えていたので、珍しく家に来なかった。久々のひとり。ベッドにもたれかかって、薄茶色に変色したページをめくる。古い本のにおいがする。

 黙々と課題を消化して、疲れで頭が回らなくなってきた頃、引き出しに隠しておいた煙草を取り出した。二十歳を過ぎて初めて買った煙草は、ラッキーストライク。好きなバンドの歌詞に出てきた銘柄だ。

 千葉くんにもらったメンソールが好みだったから、メンソールのやつを買った。五ミリ。普段ケンさんからもらっているのが九ミリだから、それに比べたら少し軽め。

 窓を開け、狭いベランダに出る。幅は立つのがやっとで、本当に小さなスペースだ。

 花岡がいる時は、ベランダで煙草を吸えない。花岡がにおいを気にするからだ。一本口にくわえて、ライターをかちりと押す。風が強くてなかなか火が点かない。

 紫煙が曇り空に薄黒く溶ける。外の風はきりきりと冷たい。北風とメンソールで眠気が冷めていく。

 こうして一人でいると、露骨にほっとしている自分に気が付く。いくら気心知れた相手とはいえ、四六時中一緒にいるのは疲れる。

 私と花岡では、たぶん求める距離感が違う。

 それに気がついたのは、いつだったっけ。できれば気づきたくなかった。

 花岡が嫌いなわけじゃない。だけど時々は、一人になりたい。それを言うと花岡が悲しむのがわかるから、言えない。胸の中に溜まった澱は、煙と一緒になら吐き出せる。

 一人暮らしを始めたばかりの時みたいな、穏やかな静けさが、あたりを満たしていた。

 明日にはまた、花岡がうちに来る。

 カレカノごっこ。いつか、のんちゃんが口にしていた言葉は、本当にいい得て妙だ、と思った。ステレオタイプなつき合いを求めるのは、花岡だって例外じゃない。のんちゃんとは違って、私はそれをそこそこは楽しめる。一緒にこっそりデートに行くのも、人気のないところでだけ手をつなぐのも、悪くないと思っている。

 花岡に抱かれるのも嫌いじゃない。花岡は、壊れ物にさわるみたいに、優しく優しく私に触れる。余裕のない顔をするくせに、「痛くない?」「大丈夫?」と二分に一回は訊いてくる。眉を寄せた苦しそうな表情をしながら。背中に触れると、肌は汗でしっとりと温かい。乱暴なことは絶対にしない。呼気を間近に感じながら、腕や身体に包みこまれている時、あったかくて幸せだな、と思う。

 花岡のことは、好き。でもそれが、友情と地続きなものなのか、それとも全く別の感情なのかは、私にはよくわからない。有紗は全く別物だという。のんちゃんは恋情そのものを抱かない。私は、定義のできない言葉の隙間にいる。人よりも、その手の感情の昂ぶりが控えめなことだけはなんとなくわかるけれど、ないわけじゃないとも思う。

 私は、どこまでも中途半端だ。

 その点、花岡はきれいに定義に収まる。身体も心も近づけば近づくほど親密になれると思っているから、貪欲に私を求める。ステレオタイプな恋愛への憧れもあるようで、「ふみの作った料理が食べてみたい」と言われたこともある。私は料理をほとんどしないから、返答に困った。女の子が彼氏に料理を作る。典型的な「カレカノごっこ」の一幕。女の子が料理をするのは当たり前だと信じて疑わない花岡は、ただ無垢なだけで、悪意なんてない。だけど少し、もやっとした。言うほどではないか、と私は言葉をのみこんだ。

 その、「言うほどではないか」が、のみこんでも消えることなく、少しずつ少しずつ溜まっていっている気がする。たまには一人になりたい、というのもそう。断りなく身体に触れることも、愚痴を吐いた時に正しいことしか言わないことも。

 真綿で首を絞められるって、きっとこんな感じだろうな、と思う。

 でも、私には音楽という逃げ場がある。愚痴をこぼす相手もいる。だから、大丈夫。そう、自分に言い聞かせる。花岡を嫌いにならないように。

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