Hump Back『僕らは今日も車の中』――8
「愛とか恋とか、わたしにはちょっと難しいんだ」
のんちゃんは、慎重に、慎重に、言葉を選ぶ。
「恋人同士って意味で人と『つき合う』とか、友情と違う『好き』とか、ドキドキしたりときめいたりする気持ちとか、好きな人と心や身体でふれあいたいとか。どうしても、そういうことが、自分の感覚としてわかんないっていうか。そういう感情があるらしいっていうのは分かるし、恋愛小説とか、恋バナとか、嫌いではないんだけどね。どこまでもわたしには他人事なの。――ねえ、二人は、アセクシャルとか、アロマンティックって聞いたことある?」
大学のジェンダーの授業で、少しやっただろうか。釈然としない私たちに、のんちゃんは丁寧に教えてくれる。他人に性的感情を抱かないのがアセクシャルで、恋愛感情を抱かないのがアロマンティック。
「わたしもまだ勉強中で、そうなのかなって思ってるだけで、よくわからないんだけどね」
保険をかけたくなるのは、不安だからなのだろう。遠くを眺めるのんちゃんのまつ毛が、ふるり、と揺れた。
「みんなのことは好きだよ。千葉くんもだし、有紗も、ふみも、花ちゃんも、みんなのことが好き。でもそれはたぶん、みんなの言う、友達としての『好き』で。それ以上には、私はなれない。手を繋ぐくらいならいいんだけど、キスをしたり、その先も、どうしてもしたいかって聞かれるとね。わたしが我慢すればいいだけかもしれないけど」
そうか。大学生のつき合いってなると、よっぽどのプラトニックでないかぎり、どうしても、身体的な部分のふれあいは出てくる。花岡だってべたべた甘えてくるし。
仮に、もし究極のプラトニックだったとしても、お互いを特別な意味で「好き」だというのが前提になる。
「試しにつき合ってみるのは?」
有紗がずばりと訊くので、私はひやひやした。
「それで、一人、傷つけちゃったことがあるから。もうしたくないんだ。ごめん」
のんちゃんは案の定、叱られた子供みたいな顔をした。のんちゃんがずっと申し訳なさそうな顔をしているのが、私には気がかりだった。
のんちゃんはそれから、ぽつりぽつりと、自分の昔話を始めた。
のんちゃんが、恋愛や性的なものへの欲求がないと気づいたのは、中学生の時。修学旅行の夜、「初恋っていつだった?」「好きな人いる?」という話題で、初恋の人も好きな人もいないと言うと、みんなに驚いた顔をされた。それから少しずつ、自分がどうしても「恋したい」って気持ちもそれ以上の欲求も持てないことに気が付いた。誰かに人として惹かれることはあっても、恋愛対象や性的対象にはならない。そういうものへの憧れも、ない。恋愛小説や恋バナも、あくまでフィクションとして楽しむだけで、友達みたいに感情移入をすることができない。
そういう話をすると、友達には「まだいい人にあってないだけ」とか、「のんちゃんはちょっと子供っぽいから」と言われ、裏では「かっこつけてる」「中二病」と陰口を言われた。果てには「あの子はうちらをバカにしてる」と、無視や嫌がらせにまで発展した。のんちゃんはそれから、学校に行けなくなった。カウンセラーの先生と会ったのは、この時だったそうだ。
このことがあったから、高校生になってからは、みんなに合わせて、恋愛や性愛に興味のあるふりをした。
高校生の時、仲のいい友達だと思っていた男の子から、のんちゃんは告白された。好意を無下にするのが申し訳ないからと、のんちゃんはつき合ってみることにした。つき合ってみたら、何かが変わるかもしれない。みんなが言うように食わず嫌いなだけかもしれない。そう思ったから。
「好き?」と訊かれれば「好き」と言った。放課後にデートをした。手をつないだ。キスもした。けれど、周りの言うような高揚感や感動はなかった。ただ、相手の望むものに応えて、期待されるようにふるまうだけ。その時のことを、のんちゃんは「カレカノごっこ」と言った。
「カレカノごっこ」の距離は日に日に近くなった。キスやハグ以上のことを男の子はそれとなく求めたけれど、どうしても受け付けず、曖昧にかわし続けた。相手が嫌いなわけじゃなかった。気持ちは変わらず、友達としての『好き』。のんちゃんは、相手を裏切っているような感覚が、日に日に強くなった。
ある時、のんちゃんは、男の子に全部を打ち明けた。恋愛感情や性的欲求を持てないこと。どんな人でも、恋愛的に特別な存在にはなれないこと。あなたのことが嫌いなわけじゃない。だけど、あなたのしたい『男女のつき合い』は、わたしには難しい。
男の子は、それを聞いてひどく怒った。今まで俺のことを騙していたのかと。好きでもないのに、好きなふりをして一緒にいたのかと。男の子は、のんちゃんのことを怒って、怒鳴って、しまいには泣き崩れてしまった。
「俺はのどかが本気で好きだった。だから、のどかが同じ気持ちだって聞いて、本当に嬉しかったのに。――その子はそう言って、その日に、自分の手首を切って、救急車で搬送された」
「え」
突然出てきた重い言葉に、固まってしまった。
「何その男、だっさ」
有紗が怒りをあらわに吐き捨てた。
「そんなの、のんちゃんへの嫌がらせじゃん。パフォーマンスでしょ。自分はこんなに傷ついてるんだぞっていう。当てつけだよ。気にする必要なんかない」
有紗が強い口調でまくしたてる。のんちゃんは「ありがとう」と力なく笑った。
「でも、わたしが本当のことを言わなくて、傷つけたのは本当だから」
だから千葉くんには、同じ思いをしてほしくなかったんだ。のんちゃんはそう言って、そこで、言葉を止めた。
私は「そっか」と言うことしかできなかった。
性的マイノリティ。LGBTQ。授業やテレビでしか見たことのなかった存在が、自分の身近にいることに、少しだけ驚いている。驚いている自分が、嫌だった。
なんとなくでも知識だけはあったくせに。私、のんちゃんがそうかもしれないなんて、少しも考えたことなかった。
「……千葉には言ったの?」
有紗の声は、優しいものに変わっている。子供を慰めるお母さんみたいな、慈しみを帯びた声。
「うん。全部説明したよ。つき合った人がいて、うまくいかなかったことも含めて」
「どうだった?」
「千葉くん、謝ったんだよね。迷惑なこと言ってごめんって。俺はのどかを無意識に傷つけてなかったかって。涙目だった。そんなことない、わたしこそ応えられなくてごめん、だけどこれからも仲良くしてほしいって、自分で言ってるうちに泣けてきちゃって。そうしたら千葉くん、わたしが落ち着くまで背中叩いてくれたり、水買ってきたりしてくれた。――あの子、本当に優しいね」
途中からのんちゃんの声は、涙で輪郭が崩れ始めた。有紗の手がのんちゃんの背中をそっと撫でる。私も、のんちゃんの肩に手を伸ばす。肌寒い海風に、のんちゃんの体温があたたかかった。
のんちゃんは嗚咽を押し殺す。そのたびに、のんちゃんの背中が震える。
「ごめんね。あたし、さっき、すごい無神経なこと言った」
有紗は本気で悔いているようだった。のんちゃんはぶんぶんと首を横に振った。
「違うの、わたしが、人と同じになれないから」
「のどかは悪くない」
悪くないよ、ともう一度言う有紗の声も、少し涙を帯びていた。
「のんちゃんは、のんちゃんだよ。私たちは、今言ってくれたことも含めて、のんちゃんの全部が好きなんだよ。だから、自分を責めないで」
私がそう言うと、のんちゃんは、子供みたいな大きな声でしゃくりあげた。
「わたし、千葉くんにも、二人にも、嫌われるんじゃないかって、思って」
「そうだよね。怖かったよね」
「よくがんばった。えらい」
私と有紗は、交互にのんちゃんを励ました。のんちゃんはもう声を押し殺すことなく泣いていた。人気のない海辺。憚るような人目もない。泣き声だって、波の音が全部消してくれる。
誰のためでもない。自分の人生は、自分だけのものだ。誰かと同じになれなくても、誰かを幸せにできなくても、自分を責めることなんかない。
自分には向けられない言葉を、のんちゃんになら素直に向けられる。
僕らの幸せは僕らだけのものだ。 そんな風に歌った曲を思い出す。
のんちゃんが幸せになれますように。のんちゃんだけじゃない。有紗も、千葉くんも、花岡も、私の好きなみんなが、幸せになれますように。私は今度こそ、心の底から祈った。
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