Hump Back『僕らは今日も車の中』――7

 夢も見ず爆睡していたらしい。

「ついたよ」とのんちゃんに揺り起こされて、目が覚めた。

 気づくと駐車場に車が止まっていて、有紗ものんちゃんも、後部座席の私を見ていた。

「見て、月、きれいだよ」

「ほんとだ」

 海岸線に月が浮かぶ。闇の中にぽっかり空いた、光の穴みたいな、まんまるな月。今日の月は大きくて、模様までよく見える。

 波の音と、潮のにおい。波打ち際では、青白いラメみたいなのがきらきら光っている。あれが夜光虫だろうか。初めて見た。

「いい景色だ」

 思わず、そう呟いてしまう。

「ほんとにねえ。晴れててよかったあ」

 横でのんちゃんがうっとりしている。

「これは、有紗に感謝だな。運転おつかれ」

「いいのよー。あたしがつき合ってもらってるだけですから」

 そのまま砂まみれの階段を下って、ちょっとした岩場に腰を下ろした。

「ちょっと夜光虫の季節には遅かったから、見ごろの時に見れたら、もっときれいだったんだけどね」

 今は九月半ば。有紗によれば、見ごろは五月から八月までの、海水温が上がる時期らしい。

 三人、並んで、しばらくじっと海を見ていた。波の爆ぜる音のおかげで、沈黙が穏やかで心地よかった。

「わたし、さっきひとつ嘘ついた」

 唐突にのんちゃんが言った。

「嘘?」

 有紗と私が、同時にのんちゃんの方を見る。

「千葉くんにね、告白されたんだ」

「おお」

 二人ぶんの、小さな拍手。「あんまり驚かないんだね」と、のんちゃんは少し悲しげに笑う。

「そりゃ、見てればわかるし。千葉がのんちゃん好きなの」と言ったのは、有紗。

「実は私、相談うけてた」と打ち明けたのは、私。さっき口にしそこねた話だ。

「なにそれ、初耳なんだけど」

「言ってなかったもん」

「ふみってしっかり口固いよね」

「秘密の話をわざわざ言わないよ」

 ざぶん、と打ち寄せる波を見ながら、あの時もこんな風に海を見ていたな、と思った。


 千葉くんから相談があったのは、夏合宿の時だった。あのお盆の花火から、二週間くらい後。今年は海岸近くのコテージに泊まった。うちのサークルの夏合宿では、スタジオ付きの宿に泊まって、最終日に小さなライブをやる。

 深夜のスタジオが終わって、部屋に戻る前にジュースを買おうとしたら、建物の外で黄昏ている千葉くんを見つけた。いつも賑やかな千葉くんが、なんだか妙に真剣な顔をしていたから、ちょっと声をかけてみたくなった。

「何してんの?」

「ん? ヤニ」

 見ると、千葉くんの指先には、白い煙草が挟んであった。

「一本ちょうだい」

「ふみ、煙草吸うの?」

「たまにね。ほら、ケンさんが吸うから。つき合いで」

「ああ、なるほど」

 嫌な客が来たときの休憩時間とか、バイト終わりとか。時々、ケンさんから煙草をもらうことがある。

「花岡は嫌がるけどね」

「花らしいな」

 千葉くんは肩をすくませて笑った。

 花岡は善良で、真面目で、良くも悪くも「ふつう」。軽音に染まり切らない彼は、髪も染めなければ、ピアスも開けない。馬鹿みたいな飲み会も、軽音サークル特有の高い喫煙率も、本当はそんなに好きじゃない。

 花岡が嫌がるのは、煙草だけじゃない。深夜のバイトも、そこでケンさんと二人になるのも、よく思っていないらしいことを、遠回しに言ってくる。

 心配しているんだと思う。悪意はないんだと思う。だけどちょっと面倒で、知っていて、知らないふりをしている。

 千葉くんは渋い顔ひとつせず、箱から一本引き抜いてくれた。ありがたくそれをちょうだいしたら、ん、とライターの火を差し出してきた。人に火をつけてもらうのは初めてで、なんだか悪いことをしている気分だった。

 浅く吸って、ふー、と白い息を吐く。遠くに波の音がしていた。波打ち際は見えないけれど、景色の隙間から、かすかに光る水面と、水平線が見えた。

 少しの距離を開けて、二人で壁にもたれて、煙草を吸う。じりじりと、煙草の燃える音が聞こえる。

「ふみに相談なんだけどさ」

「うん」

 目を合わせないまま、私たちは会話をする。

「俺、のどかのこと好きなんだけど」

 平然を装った声音。だけど、声は緊張で張りつめている。

「知ってる」と言ったら、唇の隙間から煙が漏れた。

「マジ?」

「うん。顔に出てる」

「どんくらい?」

「花岡くらいかなあ」

「やば、相当だぞそれ」

「嘘。冗談」

 千葉くんが露骨にほっとするから面白い。

「ふみは真顔で冗談言うからわかんねーんだよ」

 嘘。半分くらいは本当だけどね。これは、口には出さない。

 ふー、と千葉くんが長く煙を吐く。吸いきってしまったみたいで、携帯灰皿に煙草をぐりぐり押し付ける。こちらに灰皿を向けてくれたので、私もそこに灰を落とした。

「それで?」

 水をむけると、千葉くんは顔をしかめる。自分で言い出したくせに。

 二本目を取り出して、ゆっくりと煙を吸ってから、千葉くんは尋ねた。

「のどかってどんな男がタイプとかわかる?」

「さあ」

 のんちゃんはあまりそういう話をしない。「知らないか」と、千葉くんは露骨に肩を落とす。

「まあ、どうせ、好みの男になろうって無理に取り繕ったって、のんちゃんにはバレるよ。素でいいんじゃない?」

 言いながら、似たようなアドバイスを花岡にされたことを、なんとなく思い出す。

 紫煙が二本、風に揺れて流れていく。

「そっか。さんきゅ」

 煙草を咥えたまま、千葉くんは言った。小さな声だった。

 はっきりした顔立ちの横顔に、煙草がなんだか様になっていた。

「がんばれ」と私が言うと、彼は「おう」と、妙にふてぶてしい声で応えた。照れ隠しだったのかもしれない。

 初めて吸ったメンソールの煙草は、口がすうっと冷たかったことを、なんとなく覚えている。


 ざぶん、と飛沫が上がる。

「よかったじゃん。おめでとう」

 素直にそう口にした。背の高い千葉くんと、小柄なのんちゃん。けっこう絵になる二人なんじゃないかな、って感じがするし、友達が幸せになってくれるのは、それだけで嬉しい。

 けれど、のんちゃんは「それが、めでたくないんだなあ」と、膝を寄せてしまった。月光に照らされたのんちゃんの表情は、心なしか、いつもより暗い。

「えー、千葉、悪くないと思うけどな」

 有紗が残念そうに言う。

「嫌いなわけじゃないよ。ちゃんと好き。だからこそ、つき合えないの」

 有紗は怪訝そうな顔をする。

 なんとなく、深刻な話をしようとしているのだろう、という気配がした。のんちゃんは小さな肩をさらにぎゅっと丸めた。

「……それ、私たちに話せる?」

 私が訊くと、のんちゃんは少し逡巡した後、うん、と小さく頷いた。

「……引かない?」

 怯えて、心細そうな顔。のんちゃんのこんな顔は、初めて見た。私と有紗は顔を見合わせて、「もちろん」としっかり頷いた。

 のんちゃんはそれでも、少し迷っていたようだった。しばらくは言葉を探すみたいに海を見ていた。やがて、手にぎゅっと力をこめて、話し始める。

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