Hump Back『僕らは今日も車の中』――4

 お盆休み。みんなが実家に帰る時期。私もみんなと同様に、実家に帰省する。

 正直なところ、億劫だった。お盆はとりわけ。だって、「死者が帰ってくる」なんて、嫌でも父のことを思い出す。母もなんだかセンチメンタルになっている。

 父の仏壇はリビングの目立つ位置にあって、母は毎日きれいに掃除をしたり、手を合わせたりしている。なのに父が帰って来るってどういうことだろう、と昔は不思議だった。今はとりあえず、考え込んでいても仕方がないので、「そういうものだ」と思うことにしている。

「ただいま」

 おかえりの声はしなかった。とりあえず自室に荷物を置いて、今度はリビングで、顔の見える位置で「ただいま」と言った。母はしばらく仏壇に見入っていたが、ようやくこちらに気付き、「ああ、おかえり」と気のない声で言った。過干渉なのか無関心なのか、この人はよくわからない、と時々思う。

 仏壇の前には、父の好きだったお菓子と、精霊馬。毎年のことだけど、なんか、重い。

「お父さんに挨拶しなさいよ」

 はあい、と間延びした返事をして、私も仏壇に手を合わせた。こおん、とお鈴を鳴らして、残響の中で静かに掌をくっつける。

 とはいえ、父の位牌を前に、私は何を語り掛けていいのかわからない。ただ何秒か、黙って両目を閉じて、やりすごす。

「あんた、まだ髪その色なの?」

 目を開けた途端に、母は開口一番に小言。

「いつ戻すのよ、そんな色」

「就活までには戻すよ」

「バイトで何も言われないの?」

「大丈夫だってば」

 思わず声が尖ってしまう。ひやりとしながら母を見ると、母はいきり立つ代わりに、はあーーと重い溜息をついた。本当にこの子はしょうがないわね、という顔。

 昔は私が口答えをするたびに衝突になった。いつからか、それがなくなって、代わりに失望を含んだ溜息をつかれることになった。母はたぶん、私に期待をしなくなったのだろう。自分が余計に傷つかないように。私がそうしているみたいに。

 私は母のこの顔も、溜息も嫌いだ。

 極めつけに、とどめの一言。

「そんなんじゃ、お父さんが泣くわよ」

 母はこれを、伝家の宝刀みたいにふりかざす。

 昔から、母といる時間はなんとなく気詰まりだった。母は私が思春期を迎えても、私がいくら嫌だと言っても、口うるさく干渉することをやめなかった。私が強く拒絶すると「だって、お母さんは心配なんだもの」と、まるで被害者みたいに泣く。時には癇癪を起してヒステリックに喚きたてる。父を盾にすると私が反論しないと学んでからは、すぐに父のことを持ち出してくるようになった。

 母が私を心配しているのはわかる。道を踏み外すことがないようにって親心があるのも、わかる。けど、いくらなんでも距離が近すぎるし、私と母には根本的に合わない部分が多すぎる。

 いくら親子でも相性がある。うちの相性はたぶん最悪に近い。母だってきっと、それがわかっているのだろう。でも母は、私が思い通りにならないことに苛立つ。そのくせ、会えばうんざりするとわかっているのに、私のことを執拗に呼び寄せ、繋ぎとめようとする。

 今回もそうだ。それで結局、お互いに消耗する。

 不毛だ。すごく。

 もっとひどい、あからさまな虐待をするような親だったら、すっぱり縁を切れたのかもしれない。だけど母は中途半端だ。人並みに常識も情もある。だから、私も私で、嫌だ嫌だと言いながらこの人を断ち切れない。

 憂鬱な気持ちで部屋にこもり、高校時代に好きだったCDを聞いていたら、母に呼ばれた。夕飯の支度をしているから、お風呂を洗ってきなさい。女の子なんだから手伝いの一つくらいしなさい。いつもの口上。いちいち立てつくほどもう子供ではないから、はあい、と私は風呂場に向かう。

 泡を撒いて、スポンジをなすりつける。

 私も母も、これでもちょっとは大人になった。私が多少の譲歩はしているように、母もそれなりに我慢をしているのだろう、と感じることはある。

 去年の帰省はもっとひどかった。私の好きになったものを否定するのは母の十八番だけれど、去年はそれがすごく露骨だった。私の髪色や化粧を否定して、「また女の子がそんな服着て」とTシャツとジーンズだけの格好をなじる。軽音サークルに入ったと言ったら、「そんなお金のかかる趣味、やる余裕あるの?」「優先順位を考えなさいよ」「ちゃんと勉強はしてるの?」。「遊んでばかりじゃだめなんだからね、せっかく大学行かせてあげてるんだから」と言った口で、「あんたはまだ彼氏もできないの?」。

 それに比べたら、今年はまだマシな方、かもしれない。

 それでも、二人で黙々とご飯を食べる頃には、心が悲鳴を上げ始めていた。夕飯は私の好物ばかりなのが、いっそう感情のやり場がなかった。

 母は食事中のテレビを嫌うから、リビングは静かだ。密度の濃い、嫌な沈黙の中に、咀嚼音と食器の合わさる音だけが響く。母の小言がなければ、私たちには話題もない。

「野菜、もっと食べなさいよ」

 ほら、また小言。

 反論をするのも面倒で、大人しく漬物に手を付ける。きゅうりを無心で噛み砕く、ぼりぼりという音が、やけに大きく聞こえる。

 だれか、助けて。

 なんて言うにはあまりにもぬるい温度。

 どうして高校まで、毎日この人と生活ができていたのだろう。自分が楽に呼吸をできる場所を見つけたら、家にいるのがなおさらしんどくなった。

 心は細い悲鳴を上げつづけ、誰かにすがりたくてたまらなくて、LINEを送ってみようかなんて思って画面を開いては、閉じる。

「食事中にスマホ見ないの」

 母の声がして、黙ってスマホを置く。

 早く席を立ちたくて、ごはんをひたすら味噌汁と一緒に呑み込んだ。それにすら、母は「もっとよく噛んで食べなさいよ」と小さく溜息をついた。

「ごちそうさま」

 返事をしないまま、茶碗を重ねて席を立つ。母に気を遣うようで癪だが、何か言われる前に、自分の分だけでも茶碗を洗ってしまおうと思った時。

 急にスマホが鳴った。

 電話だ。誰からだろう。

「何、電話? こんな時間に?」と、母は案の定眉をひそめる。

 有紗からだった。

「もしもし、ふみー? 今からのんちゃんちの近くで花火するんだけど来ない?」

「行く」と私は即答する。

「あれ、ふみ今実家じゃなかったっけ?」と、少し遠くからのんちゃんの声。

「そうなの?」有紗が尋ねる。

「大丈夫。電車で三十分くらいだから。今から行く」

「オッケー。待ってるね」

 うん、と頷いて切ろうとすると、「あ、そうだ」と有紗が続ける。

「花岡もいるよーん」

 これには、どんな反応をすればいいのだろう。とりあえず「わかった」と言って、今度こそ電話を切った。

「なんだったの?」

 スマホをポケットに入れるなり、母が棘のある声で尋ねた。

「大学の友達に花火呼ばれた。今から行ってくる」

「こんな時間に? やめなさいよ、女の子がこんな夜に」

「もう行くって言っちゃったから。今日は泊まらないでそのままアパート帰るね。行ってきます」

 口を挟ませないよう、矢継ぎ早にいい、荷物を取りに階段を駆け上がった。「気を付けなさいよー」という母の声を背に、逃げるように実家を出た。



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