Hump Back『僕らは今日も車の中』――3

 五月、六月、七月と季節は過ぎた。新歓が終わると、授業はぐっと本格的になる。一年生の時の概説とは違って、ぼーっと聞いているだけじゃだめな、専門的な授業も増えてくる。初めての演習授業。減らない課題。期末テストや期末レポート。文章を書くのは苦手じゃないけど、そんなに好きでもない。そもそも普段からそんなに本を読むわけじゃない。課題の本を大量に読まないといけないのに、そんな時期に限ってサークルが忙しくなる。バイトは週に四回、午後九時から午前一時まである。サークルもバイトもないのは一日だけ。その日には、母から必ず電話がある。

 目が回る。大学生は暇だって、本当、どこの世界の話なんだ。

 七月末のテストが終わった直後が、八月頭の定例ライブだ。ってことは、テスト期間から練習をしなきゃいけない。授業とテスト勉強と期末レポートと、練習はバンドとユニットと。さすがに体を壊すと思ってバイトは少し減らした。

 そんな調子だったから、花岡とのユニットの練習のたびに、「ふみ、疲れてる?」と心配された。「大丈夫」と言いつつ、花岡の隣なら、私はそれほど虚勢を張らずに済んだ。

 だから一度だけ、弱音を吐いた。二回目の練習の日。ちょうどテストが半分終わった日で、気晴らしのために一緒にご飯を食べた。バンドの練習で何度も行ったファミレスだった。

「決して嫌いなわけじゃないんだけどね。あの二人といると、時々、すごく緊張する」

 トマトソースのパスタをつつきながら、私は言った。花岡はハンバーグを細かく切りながら、「そうなんだ」と意外そうにこちらを見上げた。猫背のせいで、花岡は、私と話す時いつも、ちょっぴり上目遣いだった。

「……ちょっと、わかるかも。がんばらなきゃってプレッシャー」

 少しの間の後、花岡がそう呟いた。

 二人と同じバンドの私。有紗と同じパートで、同じ初心者の花岡。花岡が共感してくれたのは、比べられる、という点で、どこか似通っていたからかもしれない。

 有紗ものんちゃんも私よりずっと努力家で、真面目だった。私だって演奏を褒められることはあるけれど、二人の技術が図抜けていることは、バンドを組み始めてすぐにわかった。センスだけじゃない。二人ともすごく練習している。私なんか比べ物にならないくらいに。

 だけど、演奏にすべてをかけすぎて留年した誰かさんみたいに、二人が成績を落とすようなことは絶対になかった。私の成績だってそこまで悪いわけではない。けど、二人に比べたら見劣りする。二人の成績は私よりGPAが一近く高かった。有紗に至ってはBより下の評価が一つもなかった。

 生活のことだけじゃない。二人とも、大きな目標を持っていた。

 去年の夏合宿、有紗は「海外にインターンに行きたいから、来年は合宿出れないかも」と言った。あたしは、自立した女性になりたいんだ。本気で就活がんばらなきゃ。有紗はまっすぐな瞳で言った。

 いつかのスタジオの帰り道、のんちゃんは「大学院に進んで公認心理士になりたい」と語った。のんちゃんは中学校の頃いじめに遭って、一時不登校になっていたらしい。その時に力になってくれて、大学受験まで身内のように世話を焼いてくれたカウンセラーさんがいるのだという。わたしもそんな風に誰かの力になりたいんだ。のんちゃんは優しい瞳で言った。

 二人のことは尊敬している。演奏家として、人として、友達として。だからこそ、だろうか。二人のようになれない自分が惨めな気がした。私だけが二人に追いつけない。私には目標も夢も意志もない。二人はとっくに大人になっているのに、自分だけが子供のままのように思えた。

 私がそんな自虐をすると、二人は「ふみはバイトがんばってるじゃん」「そうだよ、生活費ぜんぶ自分で稼いでるなんてすごいよ」と励ましてくれた。

 けど、二人の前にいると、自分の拙さが浮き彫りになる。

 だから私は、二人といると、いつもよりも少し背伸びをした。そのままの自分でいることが怖かった。

 それで、少しずつ少しずつ消耗していった。誰に頼まれたわけでもないのに。

 私は本当に馬鹿だ、と思う。

 パスタを啄みながら、そんなことを、ぽつぽつと吐き出した。

「ふみは、あの二人が本当に好きなんだね」

 思いもよらない言葉だった。手が止まって、フォークの先に丸めていたパスタが皿に落ちた。

「うん」

 私は無理に笑おうとした。きっと花岡と同じくらい下手くそな笑顔なんだろうなと思った。

「そうかもしれない」

 二人の横で堂々と胸を張れる自分でいたかった。あのバンドが、二人が好きだったから、私だけが足を引っ張りたくなかった。私も二人と対等になりたかった。

 でもさ、と花岡。私が話している間に、花岡は料理のほとんどを食べ終わってしまっていた。ブロッコリーだけが、苦手なのか、隅によせられて残っていた。

「ふみの好きな二人は、素のふみのことも、ちゃんと受け入れてくれるんじゃないかな」

 そう言って、花岡は目を伏せ、照れ隠しみたいにジュースを飲んだ。

 目からウロコが落ちた気分だった。

「だといいな」

 もう一度作った笑顔は、今度はうまくできている気がした。


 花岡に打ち明け話をしてから、単純なもので、心がすっと軽くなった。二人との練習の時に気負うことも少なくなった。毎日はやっぱり目まぐるしく大変だったけれど、前よりも呼吸がしやすくなった。

「ふみ、少し顔明るくなったね」

 いつだったか、スタジオの時に、のんちゃんに言われた。この子はやっぱり目ざといな、と思った。


 本番当日。ステージの上。

 薄闇の客席から、せーの、と小さな声。

「花さあん」と後輩たちの声が揃った。

 ステージで隣に座る花岡は、ひどく居心地悪そうな顔をして、黙々とアコギのチューニングをしていた。私が実家から持ってきたやつだ。

 花岡は、やたら後輩の女子に人気がある。小柄で、柔和な雰囲気と、シャイな性格によるものらしい。後輩の女子はやたら「かわいい」「かわいい」と囃し立て、「花さん」「花さん」と花岡の周りをついてまわった。

「花岡にも春が来たねえ」

 嫌がるとわかっていて、私はわざと花岡をからかう。花岡は案の定真っ赤になって、「やめてよ」と苦々しい顔をした。

 チューニングが終わり、やがて本番が始まった。しん、とまわりが静かになる。視線がステージ上に集まるのがわかる。私はひとつ深呼吸をして、花岡の伴奏を待つ。


 パフォーマンスは、たぶん、うまくいった。大きなミスもなかったし、練習の成果は十分に出せた。けど、二人して口下手なせいで、MCがとにかくひどかった。

「初々しかったよー」

 有紗がにやにやしながらつついてくる。「やめてよ」と言った私は、きっと、からかわれた花岡と同じような顔をしているのだろう。

「次はMCの練習もしなきゃね」

 のんちゃんまでそんなことを言ってくる。

「うるひゃい」

「いやあ、かわいい組み合わせだね。ふみと花岡」

「花ちゃんもふみもタジタジだったねえ」

 有紗とのんちゃんが、そろってけらけら笑った。

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