第2章

Hump Back『僕らは今日も車の中』――1


 十一月に三年生が引退し、執行代が交代した。偉大過ぎて遠い存在だった先輩たちの引退は、私たちにとって大きな衝撃だった。先輩たちの引退ライブは、普段のライブとは別次元に見えた。演奏の質だけでなく、魅せ方やパフォーマンスも、熱の入れ方も、何もかも違った。

 何年も出ていたバンドの終わり。青春の、ひとつの時代の終わり。燃え尽きる前の線香花火みたいな、最後の輝きは、ひどく眩しかった。

 これから先輩たちは、就活や卒研にいそしみ、一年と少し後には卒業していく。

 今までの全部と、今出せる全部を振り絞って演奏する人。MCで真面目に、真剣に、私たちに語り掛けてくれる人。涙に声を震わせながらも、一生懸命歌う人。それぞれのかける思いの強さを、現役として最後の光を、目に焼き付けるようにしてライブを見た。

 会長は最後まで涙を我慢していたようだったけれど、最後に大きな花束を渡された時、ついに限界が来て目元を拭った。サークル生活。大学時代の少なからぬ部分を占めた、大きな存在が、ここで一度幕を閉じる。

 有紗も、のんちゃんも、先輩とかかわりの深かった人たちは、みんな泣いていた。私は涙こそ出なかったけれど、最初にバンドに誘ってくれた先輩に「お世話になりました」という時、少しだけ声が震えた。

「文緒ちゃん、本当に上手くなったよ。これからも頑張ってね。後輩に優しくね」

 はい、と言いながら、差し出された手を強く握った。

 一つの時代の終わりを目にして、始まったばかりに思えたこの生活に終わりがあることを、少しだけ考えてしまった。

 有終の美というやつか。終わりがあるから、美しいのかもしれない。

 そんなことを悠長に考えられる程度には、私たち一年生も美しい終わりを迎えられると、信じ込んでいた。


 三人で組んだバンドの最初の出演は、冬のライブだった。初めてのベースコーラスはうまくいくか心配だったし、MCで謎のハウリングが連発するトラブルもあったけど、演奏自体はうまくいったようだ。「コーラス上手だったよ」「ふみはやっぱり運指がきれいだね」と同期や先輩がほめてくれた。のんちゃんと有紗の完成度の高さは、いわずもがな。

 ライブも楽しかったけれど、その前の練習だって楽しかった。三人で入ったスタジオは、みんなにとって初めての、同期だけのスタジオだった。先輩がいる時は、どうしても生まれてしまう緊張感が、ない。気兼ねはないぶん、みんな、意見をちゃんと言う。「間奏のところ、ベースとドラムが合ってない気がする」とか、「ここはもっとハイハット開いてもいいかも」とか、「サビ前はもっとリズム合わせたいね、もう一回やろう」とか。一回一回が、今までとは比べ物にならないくらい濃かった。

 スタジオが終わった後は、時間があれば、みんなでご飯やお茶にいった。できたら新歓も出たいねとか、いつかこの曲をやりたいとか、あとは、サークルのみんなとあったことの話とか。色んな話をした。有紗から、高倉さんの愚痴を聞くこともあった。

 有紗が教えてくれたお洒落なカフェ。のんちゃんがバイトしている、学生御用達の安くて量の多いお店。ドリンクバーで閉店時間ぎりぎりまで粘ったファミレス。全部、楽しい時間だった。

 そして、出演。それから、出演後の打ち上げ。みんなにいい反応をもらえて、私たちの士気はうんと高まった。先輩や同期からは、「新歓ライブに出てほしい」と言われた。

「みんな、今のパートは大学生からっていうのも、うちのサークルらしくていいじゃん?」

 新歓のミニライブは、来年の新歓本祭の大ステージの布石にもなる。全てがそうというわけではないけれど、ミニライブを経由して新歓本祭に立つケースは多い、らしい。

 新歓本祭。文化祭のステージと並ぶ、三年生の大舞台。

 漠然と憧れはあったけれど、はっきりと意識したのはこれが初めてだった。

 やがてエントリーが始まり、私たちの出演が正式に決まった。私が飲み込むよりも早く、私たちのバンドが大きい存在になっていくのは、嬉しいけれど、少し怖かった。

 期待をしてはいけない。いつもの癖で、そう言い聞かせる。

「せっかくだから、新歓本祭目標にしよ!」

 ミニライブのためのスタジオの後、先陣を切ってそう言ったのは、有紗だった。

 有紗も私と同じことを考えていたのか。私だけじゃなかったんだ。驚き半分と、安堵が半分。

「先輩や同期からの評判もいい。いけるよ、あたしたちなら」

 有紗の言葉に、のんちゃんが力強く頷いた。

「あのステージ、みんなで立ちたいよね。衣装とかもお揃いにしてさ」

 のんちゃんの手を、有紗がとる。

「いいね! 超いい! みんなでバンドT着ようよ」

「四月だと寒いから、パーカーでもいいかもね」

「うわ、想像膨らむねー! 今から楽しみになってきた!」

「セトリも考えとかないとね」

「やっぱあれでしょ、『アボカド』は入れたい」

「盛り上がる曲入れたいよね!」

 手を取り合いながら、二人がぴょんぴょん飛び跳ねた。二人が跳ねるたびに、のんちゃんのさらさらのショートカットや、有紗の背中のギターケースが、楽しげに揺れた。

 ふみ? と怪訝そうに訊かれて、我に返る。

 自分が呆気にとられていたことに、その時気がつく。

 私がそんな夢を見ていいなんて、思ってもみなかった。それだけじゃない。二人が、これほどこのバンドを大切にしてくれているということが、意外で。

 素直に喜びを感じられるまでに、少し時間がかかった。

「うん。出たい。新歓本祭」

 一言、一言と、噛みしめるように口にした。

 二人の顔がぱあっと明るくなった。


 新歓前の最後のスタジオ。土曜日の夕方。有紗はすぐ後に塾のバイトがあり、パンツスーツ姿だった。異様なまでに様になっている。

「有紗、かっこいいー‼」

 のんちゃんもきらきらと目を輝かせていた。

 有紗は少しだけ恥ずかしそうに、「そう?」と言った。有紗が照れくさそうにするのは珍しかった。

 一緒にバンドを組むようになって、練習をするようになって、少しずつ知ったことがある。

 のんちゃんのドラムは意外とお転婆で、楽しいと走りがちになること。すぐスティックを飛ばすこと。周りをものすごくよく見ていて、些細なことでもよく気が付くこと。スタジオに備えて小銭を用意するしっかり者なこと。

 有紗は音を外さない分、歌詞を覚えるのが苦手だってこと。歌詞を間違えた時は、いつもクールな有紗が「あちゃー」って感じのお茶目な顔をすること。それでもやっぱり、音をとるのが抜群にうまいこと。爪はいつも色とりどりできれいなのに、指先はギターの練習のせいでぼろぼろなこと。

 私のベースは自信のあるところだけ音が大きくなるらしいこと。ただ演奏するだけじゃなく、リズムと呼吸を揃えるのが、案外難しいこと。

 何度やっても、みんなが心の底から納得のいく演奏になることは、ほとんどなかった。誰かが「うまくいったね」と言っても、誰かは悔しそうな顔をして、「もう一回」と言う。それをしているうちに、いつの間にか練習の終わりの時間が来る。

 一時間があっという間だった。最後の最後だけ、ようやく全員の納得いく演奏ができて、終わった瞬間、みんなで目を合わせた。言わなくても、何を言いたいかが手に取るようにわかった。

 その時、スタジオの入り口の時計が、残り五分を知らせた。「やばっ、撤収!」と有紗が言って、みんなで大慌てで片づけを始めた。急ぎつつ、焦りつつ、どこかおかしくて、誰からともなく笑いだした。



 ミニライブの直前、新歓本祭。サークルのみんなで、先輩たちの立つ大ステージを見に行った。出られるバンドは二つで、両方が去年のミニライブに出ていたものだった。

 難しいベースを涼しい顔で弾きこなす高倉さんはかっこよかった。有紗が惚れてしまうのもわかる。初々しい一年生たちが、友達と顔を見合わせながら、興奮気味にステージを見ていた。

 一年前、何も知らない新入生だった頃。このステージを見て、このサークルに入ろうとしたのを思い出す。変な気分だった。あれから、もう、一年も経つのか。自分の中身は、一年で何も変わっている気がしない。ほんの少し、ベースは弾けるようになったけれど。

 来年は、私たちもあそこに立てるのだろうか。今の高倉さんみたいに、堂々と演奏ができるのだろうか。

 自分の身長より高いステージを前に、そんなことを考えていた。

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