第1章

SHISYAMO『春に迷い込んで』――1

 大学入学。すなわち、青春の終わりの始まり。

 モラトリアムにやりたいことも、未来のビジョンもなくて、私はぼうっと生きていた。

 入学二日目で、私はすでに食傷気味だった。周りの学生は私にはない熱意で満ちていた。「好きな文豪は誰?」という話題で隣の女の子たちが盛り上がっている。誰が推しで、だから誰の研究をやりたくて。そんな、受験勉強以上の知識と熱量を、みんなが当然に持っている。

 私が文学部に入ったのは、私の偏差値で行けそうな大学で、行けそうな学部だったからだ。それ以上の理由はない。大学に行くのが当たり前って感じの学校だったから、とりあえず受験をした。文系の学部なら本当になんでもよくて、色んな学部をごちゃまぜに受けた。受かった学校のうち、学費が安いという母の押しと、学校の実績になるという先生の押しで、とりあえず国立大学に進んだ。

 私はいつもそんな風だった。守れと言われたから校則を守り、やれと言われたから課題や勉強をした。そうしていれば、特別優等生というわけではなくても、とりあえず目をつけられない、くらいの位置で、うまい具合に生きていられた。

 流されて、流されて、流されるままに生きている。

 そうじゃない人もたくさんいることに、そろそろ気づき始めているけれど。それ以外の生き方を、私は知らない。

 一人暮らしを始めて、自由が増えたぶん、寂しいと感じることも増えた。母の小言が少し懐かしいなんて、嘘みたいだった。

 自由は、孤独。

 私は何をするにも自由。どんな勉強をしてもいいし、どんなサークルに入ってもいいし、何を食べても、何時に寝てもいい。何にも縛られない生活は、ふわふわとして地に足がつかない。



 秋田文緒、という自分の名前が、私は嫌いだ。

 ふみお、って響きがまず男っぽくて、しかも古臭い感じがする。何をするにもすぐに熱が冷めてしまうのも、「あきた」って苗字の呪いみたいで、なんか嫌だ。

 出席番号が決まって早くて、そうすると授業ではいつも早く指名される。自己紹介だっていつも早い。あ行の宿命だ。

 クラスでの自己紹介は、言えることがなかった。秋田文緒です。好きな作家は特にいません。音楽が好きです。以上。好きなアーティストを言っても、どうせ知らない。高校生の時、カラオケで私が曲を入れるたび、「ふみはマイナーなのばっかり」と苦笑された。

 だから、「どんなアーティストが好きなの?」と訊かれた時、適当にみんなが知っている人を挙げた。そうしたら返ってきたのは、「けっこうメジャーなの好きなんだ」と、どこか嘲笑を含んだ反応だった。ミーハーなのね、と言われてる気分だ。

 ああ、仲良くなれない、と思う。

 いいんだ、別に。私は一人でだって生きていけるもの。

 そうやって強がっても、授業終わりに高校の同級生が見えると、悔しいぐらいにほっとしてしまう。

「文緒ちゃあん」

 嬉しそうに手を振る女の子。里ちゃん。高校同期。別に仲良くはなかったけど、話すことはできる、程度の仲だ。その証拠に、私を「文緒ちゃん」と呼ぶ。仲良くなった子には、「文緒は嫌だから『ふみ』にして」と私は必ず言うのだ。

 だけど、この大学の同じ学部になったのは二人だけだし、お互いまだ友達もいないから、なんとなく一緒にいる。

 控えめなこげ茶に髪を染めた里ちゃんは、いかにも大学デビューに踏み切れなかったって感じ。里ちゃんは里ちゃんで、私の金髪を「思い切ったね」と言って笑った。

「文緒ちゃん、大人しいタイプだと思ってたから、ちょっと意外」

「そう? だって、今しかできないじゃん。就活の時にはどうせ黒髪なんだよ」

「そうだけどね。ほら、わたし、バイトが塾講師だから、あんまり派手にできないんだ」

 ふうん、と返事をする。我ながら返事に温度がなくて、興味がないことがバレそうで、ひやりとする。

「そうだ。文緒ちゃん、一緒に新歓まわらない?」

 待ち望んでいた言葉を、「そうだね」とわざとそっけなく受け流す。

 一年生には、新歓でご飯代を節約する、という処世術があるらしい。私の見に行きたいサークルは、今日は新歓の日じゃなかったから、里ちゃんの行きたい雅楽サークルにつき合った。興味のないサークルの新歓にわざわざ行くくらいなら、一人でご飯を食べた方が気楽でいい気がするけど。里ちゃんがいるから、とりあえず乗り切れるだろう。

 今日は楽器体験、らしい。いかにもお琴やら尺八やらに興味のあるふりをして、里ちゃんと二人で「新入生」を演じるところまではよかった。そのままなんとなく、夕飯に連れて行かれる流れになって、店に入った途端、先輩と新入生が交互に座ることになった。里ちゃんと離れた私は、突如として拠り所を失った。どんな会話をしてその場をしのいだのか、よく覚えていない。途中から、なんとなく、私が雅楽なんてこれっぽっちも興味がないことは、ゆうに見透かされていた気がする。

 帰ってくると、どっと疲れて、化粧も落とさずベッドに倒れ込んだ。

 次の日は、「バイトがある」と里ちゃんに嘘をついて、新歓に行くのを休んだ。

 たまにはこんな日があってもいいだろう。ただでさえ、一年生は授業数が多くて、思っていたより自由な時間もなくて、疲れる。大学生が暇だって言ったのは誰だ。

 今日はカップ麺でいいや、と立ち上がった時、電話があった。母だった。

「学校、どうだった? お友達できた?」と開口一番に母は言った。

「小学生じゃないんだから」

 めんどくさ。と思いながら、ケトルに水を入れる。

「ちゃんと自炊しなさいよ。レトルトばっかだと体に悪いんだから。野菜も食べなさいね」

「はいはい、わかってます」

 おざなりな返事をしながら、カップ麺の蓋をべりべりと開ける。

 大学に入ってから、嘘をつくことばかりうまくなっている。

「本当にわかっているのかしらねこの子は」

 電話越しでも、溜息ははっきりと聞こえる。

 小言が懐かしいなんて、前言撤回。やっぱり、こんなのない方がいい。


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