ひとりの執念

「お達者で」

 

 軽く耳元でささやき、カルタはたなごころでミーアの背中を叩き、眠気を催させる。

 この頃は、可愛い可愛い小娘の思想は、すでに星の満ちた夜空でるんるんと跳ね飛んでいたのだろう。

 

「いまよりは大人の時間やね…あ!」

 

 幸せそうに眠るミーアを見て、フーレアはふと話し始める。

 始めた途端に失言を察した彼女は、頭を右へ傾け、謝りの言葉をする。

 

「ごめんあそばせ」

 

 カルタは、ミーアの背中を叩きながら、夜空を凝視して、応える。

 

「この月を見てごらん。 黄色なるこの月は、私が見慣れた故郷の月と同じだ。 見惚れては、どこか物侘しくて、哀しいかな」

 

 そして続く

 

精霊エルフは、長命な種族。 きっと私より、多く、物たくさん、更に深くこの月を見てきたのだろう。 満月であれ、残月であれ、上弦であれ、下弦であれ、この時空すら超えるほど、そなたはうつくしい。 必ずしも漂泊たるこの身のわがままに従い、ついには居続ける切要は…… 縁? あの頃の邂逅に、縁が付けられたのか?」

 

 瞼をとじ、空を見上げて、精霊エルフは応える

 

「ぬしさま、こなたの見るに、美しくもいましが側なり。」

 

「されば、物侘しくも、いましが側なり。」

 

「もし、月が哀傷あいしょう、秋が憂愁ゆうしゅうなれば、こが身は星と、風と、ひとえなる心を癒し繕いなむ森林なる。」

 

たんだぬしさまが往来ゆく場所をか、月のついえるるまで照らさむ。」

 

 一種の温もりが、言葉の中から聞こえとれる。

 言葉は時に、石が水面に投げられた時ひろがる波紋のよう、順次に大きく、遠く伝えられる。

 月下の水面は、波紋によって一種の趣きが添えた。

 

 しばらくがすぎて、カルタから、波紋を紡いでゆく。

 

「晩風雲墨入(よかぜくもにぼつにゅう)

 宵江懐水流(よいこうかいすいがながれる)

 望携紅檀袖(こうだんのそでをたずさえることをのぞんで)

 中秋月同求(ちゅうしゅうのつきいっしょにもとめるを)

 わたくしは、あの時確かに破戒をした。 ミーアに祝福の言葉…願いの言葉をした時、そなたからも問いかけたが、答えられなかった。」

 

 こうべを垂れて、一度目を半ば閉じ、言葉を続く

 

方士ほうじ、いわば道士にとって、発願ほつがん戒令かいれいのなかに、忌避されてるひとつのこと。 それこそ執念の強い輩のごうではあるが、普通の道士たる人間にとっては欲深いの象徴。 軽々しく言ってはならないもの。」

 

「どんなに美しかろうと、所詮は欲求。 強い念であるほど、修行が乱れてしまう。 菩薩や如来たちの念願は別として、この身がしたこと、それは破戒にすぎない、バチさえ当たり得る。 バチ、滑稽な言葉でね…しかしこれにすぎない、雑音にすぎない。」

 

 側に、フーレアはなにも言い出さず、しずしずと待っている。

 

「大した慈悲もないこんなちっぽけな我に、こんなことしたって、なんの意義がある」

 

「そして、なぜ我は、彼女から目が離せなくて、あの場でパパになると言い出したのだろう。 まるっきり、謎だった」

 

「ただ、ミーアが水の話をした時…」

 

 カルタは、ふと立ち上がり、視線先にある大河に向かって、歩き出す。

 フーレアの何歩先で止まり、続く

 

「ミーアの水の話を耳にした時、この大河を目のあたりにした時、やっと、我はやっと、わかり知った。」

 

「我の想いに、この言葉が答えてくれた」

 

「上善、水のごとし。 水は萬物に利をして生かせる、しかもいずなることにも争わない。 あらゆる人が嫌悪するものを処理し、故にどうのみちに近い。 住居は地利を重んじて、心はふかさを重んずる。 友は仁義が大事で、言葉は誠実さを重視する。 まつりごとは治め方が重要で、事柄の進み方は順調さが一番。 最後として、いずれの行動は時期と縁があったこそ成る。 それは、不争ふそう、争ぜずることだから、咎も、病も、あらゆる円満でないことも、そしてすべての紛争も、これが故無くなる。 古代の賢人、老子のおしえだ。」

 

 ふたたび、カルタは座る。

 

「ミーアのおかげで、我は、わたくしは自らくうへの執念から一歩出した。」

 

「それぞ、本当のくうなのかもしれない。 空を追求しなくなる時こそが、真なる空であろう。」

 

 いささかの笑みが顔に現われ、フーレアは、ちょっとだけの言葉を発した。

 

しき、是れ即ちくう。」

 

「ぁあ。」

 

 応えたのち、カルタはこう述べた

 

「いま思えば、生まれたばかりの生物は皆、思いのまま、意思のままに動く。 それを理解して、自らこの意思を悪、罪と捉えたのは、知的生命しかない。 これは果たして傲慢か、謙虚か、意思付けられた思いのなかに善悪はあるのか。 天の人々はそれを肯定せず、されども否定せずに、衆生しゅじょうをありのまま活かせた。 衆生は、時に自らを苛まれ、時に自らを悔める。 ついには、欲を一種なる悪念と捉え、苦行のみちで自分を咎めた。」

 

「それが最後か、古代随一の賢人は皆、苦行をやめ、普通の修行を続けた。 いいえ、こう言った方が、より彼らに相応しいでしょう」

 

自然しぜんと生き続け、自在じざいに居続けた。」

 

愚鈍ぐどんな我も、今にして、同じ選択をする。 惜しむらくは自然とらん」

 

 カルタはこうして、深く息をする。

 また、フーレアに顔を向ける。

 

「フーレア、これがいまのところ、石泉カルタという人の、その全部である。 愚鈍で、不器用な人間である。 そなたとは、到底釣り合わない。 ひどく矮小わいしょうなこの身は、明け星のようなそなたとは、違いが多すぎるかもしれない」

 

 聴いて、フーレアも深く、息をした。

 また、カルタに顔を向ける。

 

いわの上に旅寝をすればいと寒し 苔の衣を我に貸さなむ」

 

 聴いて、カルタは…

 

「世を背くいわの衣はただひとへ かさねばうとしいざ二人寝む」

 

 

 *

 三人の熟睡の顔は、しばらくの間には、月神が照らされ、そして見守られるのでしょう。

 そして、もうすぐ来る輝かしい太陽に、その太陽が殞没いんぼつになるまで、道を導かれるのでしょう。

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