人生とは何だろう、生命とはなんだろう。
(長い間更新できなくて申し訳ありません。)
一晩が過ぎて、空は日光によって照らされた。
カルタは、最後に寝て、そして最後に起きた。
三人は野営気味で、テントも用意された。カルタが目を覚ますと、すでに二人が朝ご飯を準備するところだった。
野宿なので、一種のピクニックかもしれない。
「いい朝だ。」
晴れ渡る万里の空、ツルの行列が連なり、風を催す。
緩やかな風は草木をなびき、カルタの頬を掠める。
「気分が
あけぼのと言いつつ、実は早朝かもしれない。
まずは、河辺に顔洗いと歯磨きをする。
そして、食卓(仮)に近寄り、炊き終わった朝ご飯を、三人で享用する。
野宿なので、ご飯と言って実はパンとジャム、あとは旅のために準備した大豆と、新鮮な魚。
和洋折衷の料理か。
朝ご飯の時間は、実に大事。
家族ならなおさら。
一緒にいる時間は、あんなにも平和で、団欒に見える。
そして、ご飯をするとき、定番の交流会が始まった。
「ねぇパパ、さっき姉さんと進んだ話題が一つ、パパに聞きたいのがある」
すっかり呼び馴染んだミーア。
「気軽に言って」
「うん。ミーアは自分の人生を振り返って、結局自分はなんだったのがわからない」
小さく一口パンを噛んで、食べながら話を続く
「わからないのは、すべてだった。」
「ミーア、友達と遊んだことある。姉さんと遊んだこともある。 部屋に篭って考え事する時もある。 楽しい時がある、そして辛い時もある。でも、それがわからないのだ。」
パンとお水を口に、ごっくんと。
「たとえ遊んでも、たとえ走っても、たとえ争いをしても、喧嘩をしても、その中からなんの意味も感じない。 生きることって、こんなに無意味なの?」
カルタは聴いて、思わず目を見開く。
この年で早々、生きるに対しての、生への虚無感が、小娘の心に芽生えた。
「そうね。これはまさしく難問だ。 生命の常情、いのちにとって常に変わらないものの一つは、生きることへの熱情だ。 だけど、知的能力の高い生命は、自らその熱情を掻き崩し、本当の意味を探し求めたいのさ。 ミーア、あなたに聞きたい。 あなたにとって、人生の意味は、なんだろう。」
「うん…わからないかも」
「フーレアは?」
「言われてみると、明確な事柄はなきや。 されば目的も。」
「なるほど。
一杯の水を飲み終わり、海潮のような息を整え、カルタである。
話が、続けられた。
「まずは、この言葉に着目しよう。 人生は、どんな概念か。」
「私たちが生きてるこのダイメンション、即ちこの次元で、物事を表すには、三つの方角が必要。 それは実体のあるものも、抽象的なものも同じ。」
「次元って…魔法の話?」
「似ているかもね。 そして、人生というのは、一種の概念。時間概念に属する。 三つもある概念の方角は、残りは空間概念と、物の実(真実)。」
「空間概念と、物の真実には、どんなものがあるの?」
「空間概念には、カベ、トビラ、マド。 若しくはカワ、タイヨウなど。私たちがこれら実体のあるものを語る時、物の形を想像する時、使われた概念が空間概念という。 反対側には虚無、真空など。」
「なるほど! では、物の真実というのは?」
「前の二種類に属しないものが、凡そこの部類に準ずる。 例えば、人の意思、物の用途、ある物の硬さ、それの美しさなど、もう一方角でものたらしめる概念は、その物の実である。 それは時間の角度であることを表すでも、空間の角度でことを表すでもない。 そのこと本来の属性若しくは意思のようなものは、物の実と呼ぶ。」
「なるほど。 でもそれ、人生となんの関係があるの?」
「人生とは、その人が生きてた時間、そして生きようとする時間で過ぎない、時間的な概念に過ぎないということさ。 人を表すには、またあと二つの角度が必要さ。 空間概念と、人の真実とが。 他の角度か手を掛けた方が、より理解しやすいかもしれない。」
「空間上はすぐ思いついたけど、人の真実はなんだろう」
「人生の空間上の関連語は、事業。 そして、真実上の関連語は、心。」
「言わば、同位語である事業を理解すれば、人生を理解できる。 若しくは、心のありかたを見つけば、人生を理解できる。」
「なら、どこから入ればいい?」
「ミーアの場合は、やはり心のありかたか。 これからちょっと話が長くなるけど、聴きたい?」
「聴きたい!!」
残ったパンを全部口に詰め込み、フーレアに誇示する。
そしてフーレアは優しくミーアの頭を撫で、魚のお腹の部分を切り裂く。
一番美味しいかつ骨のない部分を、ミーアの皿に詰め込む。
「いいか? 魚を食べるときは、決して声をしない。 では、今から話しましょう。」
*
人間の心は、果たしてどこにある。
身体の内側にあるのか?
身体の外側にあるのか?
それとも中間?
若しくはもともと実在ではなく、考えや思考自身であり、外部の物事や各種刺激によって生まれたりまたは消えたりするのか?
それとも一種の空である思想の映写、固定なる付くところがない?
やはり、まずはこの「心」であるものを感じで捉えた方が、説明が始められる。
太陽を想像してください。
空には月もある。
それらを自らの一つ若しくは二つである思惑(念)として、比喩する。
空にある無数の星々は、これまで考えたこと、そしてこれから考えようとすること。
そこから視界を延ばし、銀河系統を想像する。
無数の銀河系統が相重なり、相絡まる。人の頭脳のようなものとなった。
宇宙一つが、人の脳で、もう一つは眼、次は耳、鼻、舌。無数にある平行宇宙(パラレルユニバース)が、やがて身体と成り人と成り、私達となった。
その人、無数なる宇宙が形成した人の、中枢、枢機となるもの、若しくは一種の力、物質なり非物質なり、粒子なりエネルギーなり、とにかく本当の真髄となるもの、身体が組み立てられる、最初に誕生して最も重要なもの。
それを「心」と呼ぶ。
言い換えると妙明無上菩提浄圓真心。
その心を身体の内側にあるとしよう。
心はもとより万能であるから、見ることも聴くことも、考えることも分析することも、感じることも反応することもできるはず。
もし内側にあるなら、ひとりが部屋の中で胡座をかいて、その人が最初に見えるものは必ず室内のものであり、それからが外のもの。
でも人間は直接身体の中にあるものを観ることもできないし、知識がないと位置すら把握できない。
では外側にあるのか?
ここで言う外側は、身体の一部でないこと。そうすると心を感じることすらできないから、外側にも心はない。
なら身体の周縁にあるのか。
だとしたらまた臓腑若しくはいずれの身体器官が見えるはず。内部にあるとは一緒。
一つ有名な思想から見ると、「我思う、ゆえに我あり」。考えや思考自体が心なのでは?
実は、一般人の場合、そうではない。
感じることによって現した考えや思考自体は、外界の刺激によって反応し、刺激がなければゼロに帰る。
そこには自体がない、いわば独自で反応することができない。
ゼロの境界にあるから、「有る」の範疇内で何もない。事象がなければ死んだと同然。
修行がなければ、一般人の思考内に、心は存在しない。
なら、付くところがないのが、心の居場所かな。
これは実は詭弁で、本当の空の思想ではない。付くところのないものは、存在しないと同然。もし付くところのないところが存在したら、それも真の付く所がないではない、必ず「何処」である。
心は以上語ったいろんなところには無い。ではどこにあるのか。
それを言語で表すことは、今のところ不可能。
観られることはない、聴かれることもない、感じられることすら、普通はない。だからこそ、普通の人々にとって、本性を捉えることはできない。
しかし、無上の智慧から窺える心の真のすがた、言うなれば宇宙の真理でもあるこの思想。
心は、無であり、空である。
そんなものは果たして存在するのか。
心は、何処にもない。けれどもあらゆる場所にある。心にとって空間の概念はないから。
心は、一瞬しか存在しなかったけど、常に存在する。心にとって時間の概念はないから。
心は、何もできない。しかれども何もかも成し得る。心にとって真実の概念はないから。
そんなものは果たして存在するのか。
それは、修行者の初心と、自らの信念を問うしかない。
信ぜばあり、信ぜずんばなし。
ここで唯一言えるのが、かの思想は確実に、虚無感という心の疾患を治せる。
蛇足ながら、真空の見せ方をここで書き記そう。
本物の空は、空であるゆえ、言葉で表せないもの。
最後にある般若の真実は、ただそこにあり、表そうとすると無数な否定で枠を縮めるしかない。
そこまでには、色んな
でも、それもカルタ一行の進む道となるだろう。
顛倒想の要旨
不浄は観れど、法身の浄は観ず。
世苦は観れど、寂滅の楽は観ず。
無我は観れど、自在の我は観ず。
無常は観れど、仏性の常は観ず。
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