第2話 オリバー
オリバーは穏やかな生活にそこそこ満足していた。
4年前に婚約話が上がった時には絶望に打ちのめされていたけれど、今の生活があるのはオリバーとグレイスが強い愛で乗り越えたからこそだと信じている。
事の発端は、成り上がりの平民如きがオリバーとの結婚を望んだことだった。
女は結婚しないのならば親の商会で取り扱う商品は売らないと脅迫してきたのだと、母親が涙交じりで言った時には怒りのあまりに商会へと押しかけようかとも思ったが、父親や兄達に諭されたため仕方なく婚約を受け入れたのだ。
長兄は男爵家を継ぎ、もう一人ですら他の貴族に婿入りするというのに、自分は平民に売られてしまう。貴族としての誇りを持って生きてきたつもりのオリバーには屈辱的な話でしかなかった。
なによりオリバーには想う相手がいた。
隣に住んでいたグレイス・ハーバリー子爵令嬢である。
幼い頃から一緒に育ったグレイスは、年の離れた兄達よりも一緒にいる相手だった。
年を重ねれば妹のようであった可憐な少女が、恋の対象へと変わるのは時間の問題で。
互いの気持ちを確かめ合った時にオリバーの婚約が持ち上がったせいで、グレイスは涙ながらに身を引こうとしたのだ。
ハーバリー家にお金がないから裕福な貴族か平民の後添えになるのだと声を震わせて笑ったグレイスに、彼女は自分と同じなのだと強く胸を痛めたのは今でも覚えている。
こうなると仕方なく受け入れていたはずの婚約に憎しみすら湧いてくるのは、オリバーの中ではごく当然のことだ。
どうなっても構わないと、婚約者になった平民の女に対して強く意思表示をしたところ、トントン拍子にことが運び、結果として今は愛するグレイスと一緒に暮らせている。
グレイスに愛人という立場しか許さず、オリバー達が貴族で無くなった屈辱は許せないままだが、一切の仕事をする必要が無く一日の大半を過ごし、多少なりの金も渡されることから以前と同じ生活水準は保て、愛する人に贈り物をしてやれる。
貴族としての務めだった夜会も茶会も必要なくなったのは少しばかり寂しいが、その分二人で仲睦まじくいられるのだと思えば我慢も出来た。
代わりに公園への散歩やピクニック、街での買い物は以前より気楽である。
ピクニックともなれば料理人がサンドイッチや季節の果物を籠一杯に詰めてくれ、使用人が馬車で美しい景色の先へと運んでくれた。
人目を気にしないでいい街での買い物の帰りには、カフェに寄って甘いケーキを食べる。
すごく贅沢だと笑うグレイスが何より愛おしく、自分の瞳の色をしたリボンやブローチなどを贈れば、グレイスに用意された部屋にあった宝石箱へと丁寧にしまわれる生活。
あの平民が雇用しているが使用人たちは反抗的ではなく、どうやら貴族であった自分達に対して敬意を払っているのだと受け止めている。
後は子どもなのだが、グレイスと暮らし始めて3年経った今も妊娠の兆しを見せていない。
グレイスは気にしていたが、こればかりは授かりものであるため慰めているものの、いつか自分のものとなる商会の跡取り息子は必要である。
彼女と自分の子であれば賢く、跡継ぎとして申し分ないだろうと思う中、ふと婚姻していた女を思い出した。
形ばかりの式を挙げて2年程経った頃から時折手紙が届くようになり、昨年の暮れにも手紙が送られてきたが、オリバーに色目を使った内容なのだろうと悍ましさから封を切ってもいない。
結婚したのに妻として扱われず、きっと商会では肩身の狭い思いをしているだろう。
顔を出してやってもいいかもしれない。
初めて会ったときも、そして一年後に再会した時も黒髪を一つに束ねて化粧っ気のない素顔を晒していた女は、オリバーの興味を何一つ引かなかった。
きっちりと首まで詰めた服は紺地で地味でしかなく、所作は貴族であるオリバーから見て及第点だったものの、装飾品すら飾らないでいる女にオリバーと釣り合うだけの華やかさは皆無だ。
緩やかに波打つ赤毛と若草の瞳を持つグレイスの可憐さに比べれば、無機質で女らしさがなかったという印象しか残していない。
よくもまあ、あんな姿でオリバーとの子どもを求めたものだと、そう思ったところでオリバーはさらに閃く。
「そんな女、もう必要ないよな」
オリバーが相手をしてやらない以上、跡取りを産めないのは確実なのだ。
ならばオリバーとグレイスが商会の跡取りを産むのだと宣言し、将来の跡取りの親として商会を取り仕切ったほうがいいに決まっている。
そうだ、最初からそうすれば良かったのだ。
商会を自由にできるようになれば、グレイスにもっと高価なものを贈れるし、貴族に縁のある自分がいるだけで商会は大きくなるだろうし、どうやってかは算段をつけていないが新しい爵位だって得られる可能性は高い。
とにかく商会に顔を出そうと、オリバーは先触れを出して準備を始めた。
ー*ー*ー
時折見かけることはあれど、実際に訪れることのなかったバーラント商会の建物は大きかった。
平民の中流家庭から下位貴族の買い物に向いた店舗ばかりが並ぶ、そんな通りの一角に商会はある。
賃貸ではなく土地を買い取っているというのだから、一流とは言えずとも繁盛しているのが窺えると同時に、これから自分が経営していくのだと思えば自然と背筋が伸びた。
不安そうにオリバーの名前を呼ぶグレイスに大丈夫だと笑いかけ、貴族らしく泰然とした仕草を思い出しながら商会へと足を踏み入れる。
足を踏み入れた入口に、美しい女性が立っていた。
よく手入れされた艶やかな黒髪を複雑に編み込んだハーフアップにして、残りは後ろに流している。
理知的で深みのある青の瞳がオリバーがオリバーを捉え、控えめな化粧の中で鮮やかな発色の口紅で彩られた唇は、蠱惑な笑みを形作っていた。
華奢さが売りの貴族令嬢では見られないだろう、豊満な体つきはメリハリがあって、けれど決していやらしさなどない。
品のいい紺のドレスを纏い、驚きで口に当てられた指先すら美しい所作は、平民であるはずなのにまるで貴族のようだった。
横にいるグレイスが急に色褪せて見え、彼女の腰に回していた手を慌てて離す。
そうしてからバーラント商会の贔屓客だろうと判断したオリバーは笑顔を作った。
「ええと、どちらのご婦人、いやご令嬢でしょうか」
そう声を掛ければ今度は訝し気な視線を向けてくる。
「失礼、オリバー・バーラントと申します。
ここの本来の主でして、ずっとアシュリーという女に邪魔されて来ることができなかったのですよ」
オリバーが言えば今度は目を細め、近くの従業員らしき人間に視線を送れば、頷き返されると笑顔になった。
どうやら正しくオリバーが商会の主であるとわかっていたらしいと考え、思わず出そうになる口笛をなんとか抑え込んだ。
これから楽しい生活になる。
グレイスは貴族令嬢らしくて庇護欲をそそるが、目の前にいる女は理知的で健康的な魅力に満ちていた。
商会の主としてオリバー自ら接待し、なんなら夜だって付き合ってやってもいい。貴族の出自であるオリバーが相手をしてやるのだ。泣いて喜ぶだろう。
そんな考えが次々と浮かぶ。
すぐに消え去る砂上の楼閣だと知らずに。
唐突に目の前の女に、「アシュリー」と声がかかる。
彼女の視線が外れると、途端、営業用ではない自然な笑みへと変わった。
「ノーマン」
彼女の言葉にオリバーも視線を向ければ、一人の男が笑みを浮かべて歩いてきた。
愛想の良い笑みを浮かべている男は、身長は高いが痩躯で、オリバーと比べると冴えない風貌だといえるだろう。
目の前の女の腰に手を回して親密そうだが、オリバーの気になるところはそこではなかった。
「アシュリー……?」
バーラント商会にいる、身なりのいい女。
そういえば二度だけ会った女も黒髪だったはず。
声にも聞き覚えが僅かにだけある。
「御機嫌よう、バックリース男爵令息。
商会には出禁扱いにしたはずですのに、何故こちらに?」
オリバーはようやく気づく。
目の前の女がアシュリー・バーラントであることに。
同時に激しい怒りがオリバーの中で燃え上がる。
「私が相手をしないからといって、そこらの男に手を出して子を孕めばいいと思ったか!
いくら結婚しても相手にされないからといって、貴族であった私に対して平民のお前ごときが不貞を働こうなどと失礼だぞ!」
不貞を追求しようとオリバーが声を荒げれば、不思議そうな顔で首を傾げた。
「バックリース男爵令息は、何か勘違いしていませんか?
貴方と結婚なんてしていませんけど」
あまつさえ飛び出してくるのは、現実逃避をしたとしか思えない回答だ。
「そんなはずがない!
私は確かに3年前、ホテルの部屋で署名をしている!」
「ええ、署名は確かに頂いていますね。
けれど、貴方がサインしたのは婚約を解消する書類と、私の所持する物件を借りる賃貸契約書ですわ。
婚姻を結ぶものなど一枚もありません」
「解、消?賃貸……?」
これは写しだと渡された紙にはオリバーの署名と、さほど大きくはない文字だが確かに「賃貸契約書」と書かれていた。
慌てて目を通すと、家具付き賃貸で契約期間は3年で、期間が終われば速やかに退去し、賃貸料は契約終了時に一括後払いである旨が箇条書きで記載されている。
他は実家との契約書類控えとなっていて、男爵家への援助金はオリバーが商会に対して不利益なことをすれば終了し、半分は男爵家で残りの半分はオリバーが支払うことと記載されていた。
愕然とするオリバーを見るアシュリーの笑顔は作り物に戻っていた。
「良かったですね。結婚もしてないですから、バックリース男爵令息は貴族のまま。
そちらのご令嬢と愛人ごっこなどせずとも、ご結婚頂くことも可能ですわ」
そんなの無理に決まっている。
グレイスの家には持参金すらないだろうし、オリバーはただ婿入りして商会の主になるだけで従業員が稼いでくるものだと考えていたから、働くための何かを身に付けてもこなかった。
未だ貴族であっても後々に得られる爵位などなく、二人揃って平民になるのも時間の問題でしかない。
今までは与えられていた金で生きてきたが、どうやって金を得ればいいのかわからない。
オリバーが選べる選択肢はほとんどない。実際には一つもないのだが、愚かなオリバーはまだ気づかないまま。
深く息を吐く。
先程は怒鳴ってしまったが、こんな冴えない男で満足するような女なのだ。
オリバーが譲歩してやれば、喜んで金と体を差し出すだろう。
「仕方ない、契約し直そう」
アシュリーの横に立つ男を睨みつけた後、彼女に笑いかける。
「そんな男が相手では、大した子どもは生まれないだろう。
私を望むのならば、互いに似た美しい子どもが手に入ると思わないか?
君が謝罪して私に尽くすのならば、今までのことは水に流して、グレイスよりも先に子どもを与えてやってもいい」
瞬間、アシュリーの横に立つ男が纏う空気が変わった。
怒りではない。蔑みを含んだ目でオリバーを見て、嗤っている。
そう、嗤っているのだ。
「残念ですけど、役に立たない種馬は必要としていないので」
そうしてアシュリーが浮かべた笑みも、男と同じものだった。
「顔だけしか取り柄が無いと声高に喋る無能な男と、有能で私を愛してくれる男。
外見なんて年を取れば衰えて価値が下がってしまうのだから、どちらを選ぶかなんて決まっていると思うのだけど」
周囲で微かな笑い声が、さざ波のように広がっていく。
我に返って周囲を見渡せば、周りにいた客らしい人々がオリバーをチラチラと見ては唇の端を歪めていた。
その中には下位ながらも貴族が混じっていて、恥辱から唇を噛む。
「そういえばバックリース男爵令息は真実の愛のお相手との子を、バーラント商会の跡継ぎに据えたいと仰っていましたね。
いくら貴族の方だからといって、縁もゆかりもないお相手のご子息かご息女を迎え入れろとは横暴なこと。そのようなこと、受け入れるはずがありませんわ」
再び湧いた笑い声は先程よりも大きく、遠慮のないものへと変わる。
誰もがオリバーを馬鹿にしている。貴族も、平民ですらも。
恐らくは明日にでも噂が回り始めるだろう。人々の口は止めることなどできず、恐ろしいほどに早いのだ。
取り戻さなければいけない、醜聞を塗り替えるだけの結果を。
思い知らせなければいけない、自分の立場の方が上であることを。
何かないかと焦る心のままに思考し、昨年から届いていた手紙のことを思い出す。
「けれど、お前は私に手紙を送り続けていたじゃないか。
どうせ私に未練があるくせに、相手にされなくて嫌がらせに走ったのだろう。
素直に認めて謝罪でもすれば、温情をかけてやろうと思ったのに」
オリバーがそう言えば、アシュリーの笑みが苦笑へと変わる。
「勘違い甚だしいとはこのことですね。
賃貸契約の期限が近くなったので、支払いをしたうえで継続されるのか、それとも退去するのか手紙を送ったのに返事がないでしょう?
仕方なく督促を送っているだけなのに、一体どうしたらそんな考えに至るのかしら」
「アシュリー、止めてあげなさい。
バックリース男爵令息は非常に前向きな思考の持ち主で、君の美しさに少々惑わされただけだよ。
そうでなければ隣に真実の愛がいるのに、君に粉をかけるはずがない」
そうでしょう、と問いかける男の言葉に隣を慌てて見れば、驚きと傷心の隠れぬ顔でグレイスがオリバーを見ていた。
3年経っても可憐で可愛らしい女性。真実の愛の相手。
そんな彼女の眼差しの縁から不審という感情が垂れ流されている。
何か言わなければと思うのに、もう何も言葉が出てこない。
「もう一度手紙を送らなければと思ったけど、でも来てくれたからもう結構です」
アシュリーが嘲笑う。
「貸し出している家ですが、とても良い条件で希望される方がいらっしゃるから売ってしまいましたの。
退去しないなら実力行使も辞さない方々だから、近々お伺いに行くかもしれませんって手紙を書くつもりだったけど、ちょうど良かったですわ。
据え付けの家具も一緒に売り払ったから、間違ってお二人の物まで持ち運ばれる前に、早く帰って荷物をまとめたほうがいいですよ」
パン、と手を打つ音が響いた。
「さて、バックリース男爵令息と恋人の方がお帰りになるわ。
お見送りして差し上げて」
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