第3話 アシュリー

オリバー・バックリースと初めてお茶をした応接室で、アシュリーは夫と穏やかなお茶の時間を過ごしていた。

あの時と違うのは、向かい合ってではなく横に並んで座っていることだろうか。

「そういえば、君がご執心だったオリバー・バックリースだけど、」

「とても嫌味な言い方をするのね」

アシュリーが言えば、ノーマンは肩をすくめてみせる。

「そりゃ大事な奥さんの気持ちを4年奪っていたと思えば当然かと。

僕だって思うところがないわけじゃないし、上手いこと言えば傷ついた僕の気持ちを君が癒してくれるかもしれない。

何だって言うだけはタダだよ」

「そういう事じゃないのは知っているくせに」

軽く睨みつければ、ごめんごめんと謝りながら頬に少し温度の低い唇が触れた。


「オリバー・バックリースは兄が当主となった男爵家に泣きついたみたいだね。

今まで何の仕事もしていなかったから仕事を探すのは難しいだろうし、そもそも種馬として婿入りさせる予定だったから男爵家も何もさせてこなかった。

そのくせ貴族としてのプライドばかりは高いから、平民が主である仕事先は選べないだろうし、雇用主側だって無能な人間を雇うのはお断り。

君が狙っていた通り、結局外で働く先も見つからずに、家で使用人として働かされているよ」

3年も働かない堕落した生活を送っていた彼が、外で普通に働けないのは当然の結果だ。

男爵家の援助は婚約期間も含めて4年、オリバーが大人しく家を出ていくまで銅貨1枚も違えることなく行ってきた。

返済額の半分を役立たずな三男に押し付けられたと思ったら、経済力のない本人が戻ってきてしまって負債金額は変わらない。

そんな負債は少し商談に時間をかけてしまったが、家と売り飛ばした相手に買い取ってもらっている。

今までは泳がせておくため何もしなかったが、売却先はきっちり取り立てを行う、少しばかり薄ら暗い噂を纏わせている人物だ。

返済を怠るのであれば、容赦なく男爵家の小さな屋敷も爵位も差し押さえてくるだろう。


援助を受けている間に家を盛り返すだけの手腕がなかった嫡男と、婿入り先から援助金を引き出せなかった次男、家族に売られて多額の借金を背負っただけの三男。

そして援助金の返済を先延ばしにできるよう、三男にバーラント家との新しい契約など一切語らなかった両親。

さぞや男爵家の空気は荒んだものになっているに違いない。

「最近じゃあ夕食の品数が減ったらしいよ」

「そんな内情、一体どこで聞いてくるのかしら?」

さあ、とだけ曖昧な笑みで返す夫を眺め、アシュリーに内緒で男爵家に使用人を送り込んでいるのか確認しようと心の中で留めておく。

別に咎めたいわけではない。そんな楽しいことをしているのならば分かち合いたいだけだ。

こういったところは夫婦でよく似ている。


アシュリーが選んだ夫はとても優秀だが、同時にとてつもなく嫉妬深い。

オリバー・バックリースがあまりに愚かだったことからアシュリーの両親は考えを改め、貴族関係なく優秀で娘を愛してくれる婿を迎え入れる気になった。

貴族という枠を外せば、選択肢は一気に広がる。

王家御用達に加わった商会の三男や、法務官として王宮に出仕する法律家の卵、確かな目利きで新しい画家を見つけ出してくる若き画商。

その中でアシュリーが選んだのは、取引先の一つであるワイナリーの次男坊だった。

愛想の良い笑みを浮かべた痩躯の彼はアシュリーより8歳上で、家族営業のワイナリーの経理を一手に担っており、オリバーとの婚約前まではアシュリーの誕生日に花やカードの贈り物を欠かさなかった人物である。それがノーマンだ。

別にオリバーとの婚約が結ばれたら、控えるようになったという話ではない。

どこで噂を聞きつけたのか、バックリース男爵との契約を変更した数日後、花束とアシュリーが生まれた年のワインを持ってバーラント商会へとやって来たのだ。

まだ何も検討していない状態であるから一旦断ろうとするも、手土産としてワイナリーの人気商品をバーラント商会に5年間優先して卸すという契約書を懐から出してくる。

もともと商談のためにワイナリーへはよく訪れていたし、アシュリーも彼と話すことは多く、その金勘定の確かさに感心していた。

そんな彼が経理としての正確さだけではなく、商売人として大事な『情報』を集めることも得意ならばいうことはない。

まあ、どこから情報を得たのかを確認してからの話だったが。


そんなノーマンだがアシュリーのことは一目惚れだったらしい。

話し合いの場で少し恥ずかしそうに語った彼に、本気で申し訳なさそうにアシュリーへと謝る彼の両親と、初対面時の二人の年齢を思い出して引き気味でいるアシュリーの両親。

初めて会ったのは12歳と20歳。

政略結婚としてならあり得る年齢差であるが、12歳の少女を見て恋に落ちたと言われると、彼に向ける周囲の視線の温度が下がるのも無理はない。

ロリコンではなくアシュリーだからなのだという説得と、商会の為ならば人を陥れることさえ辞さない仕事ぶり、異様なまでの執着ぶりが証明され、早々に婿として適当であると認められた。

実際、何をしていても優先されるのはアシュリーのことばかりで、最終的に花嫁のドレスに使うレースや刺繍を購入するのではなく、製作する側になれないか悩んでいる姿を見た時には、アシュリーの友人が「愛が重くて、かなり引くわ」と評する始末。

挙式の際には死が別つまでの誓いに納得せず、アシュリーが死ぬときは一緒に死ぬと誓って、参列者全員をドン引きさせたのは今なお語り草となっている。

とにもかくにも重たい男。それがアシュリーの夫だ。


そんなノーマンのことだから、どんな感情であってもアシュリーが感情を傾けた男は気に食わないだろう。

結婚してから一度だけ、もしアシュリーがオリバー・バックリースと結婚したらどうしていたかを聞いたことがある。

新郎は式の当日に不幸な事故で亡くなっていたかもしれないと事も無げに言われ、本気でやりかねないと思ったことは喉の奥に押し込んでおいた。


「その様子ならオリバー・バックリースのお相手がどうしているかも知っているのよね?」

躊躇いなく頷いた目の前の夫に呆れつつ、チョコレートチップを混ぜ込んだクッキーへと手を伸ばす。

「グレイス・ハーバリーは子爵家に戻されたよ。

愛人として囲われていたなんて事実が出回っている以上、普通の結婚はもう無理だからと豪商との後添えの話が出てたけど、」

そこでノーマンが小さく笑う。

「オリバー・バックリースが責任を取って結婚するべきだと言って、嫁入り当日に男爵家へと押しかけていったからご破算になった。

で、先に貰っていた援助金を返す羽目になった両親によって、即日で娼館に売り飛ばされておしまい」

「即日で売れるなんて。

まさか娼館のオーナーが知り合いだった、なんてことはないわよね?」

「どうだろうね」

アシュリーに対して片目を瞑って見せたが、残念ながら両目とも閉じた状態になっている。

何でも器用にこなすノーマンだが、意外なことにウィンクだけはどうにもヘタクソだ。

年上の彼に対して抱く感情として正しいかは知らないが、可愛いと思ってしまうので本人が気づくまで指摘するつもりはない。


仕事に戻ろうと立ち上がったノーマンの顔は、窓から差し込む陽射しのせいで逆光になってよく見えず、唯一口元だけが三日月型の笑みを作っているのだけが確認できた。

「アシュリーの大きな物件を買い取ってくれたお客様、どうやら爵位を早く手に入れたいらしくてね」

「そうでしょうね。もう随分と待たせているもの」

アシュリーの頬に振れる指先は、いつだって少し冷たい。

「少しばかり協力を頼まれたんだ。

どうせ期日までの返済は無理だろうから爵位を売り飛ばすよう、早めのご提案に行ってくるよ」

こめかみに触れた柔らかい感触も。

「もう少ししたら、路頭に迷う彼らを見ることができるんじゃないかな。

今の君は一人の体じゃないんだし、ちゃんと一番いいところは残してあげるから、店で大人しく待っていてくれるかい?」


アシュリーにはオリバーの言っていた真実の愛が、一体どんなものだったかはわからない。

けれど、せめてオリバーが周囲に対して誠実であれば、多少話は違っただろう。

真実の愛を取るなら婚約解消するか、家のお金を持って逃げるなりすればよかったのだ。

自分の欲しいものは子どものように手放さず、そのくせ当たり前に享受できたものが失われることを嫌がって、どうにかする気もないまま全てが手に入ると思っていた。

グレイス・ハーバリーと一緒にいたい、でも不自由な生活は嫌だから愛人という立場を与えることを厭わない。

並べられたカードが少なかったとしても自分で選んだくせに、思い通りにいかないことは他人のせいにして責めてくる。

全てが中途半端で、誰に対しても不誠実だった男がどうなるのか。今から楽しみでしかない。

ノーマンならば最高のショーを見せてくれるだろう。

細く節だった手に自分の手を重ねて、アシュリーも同じ笑みを浮かべた。


「ええ、勿論。素敵なお土産話を待っているわ」


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