第4話 やりすぎ

 長治は、何か一つの宗教を信じているというわけではないが、それなりに、宗教的なことを勉強はしていた。

 心の中で、

「宗教というのは、ロクなものではない」

 という思いがあるのも事実であるが、それ以上に、

「この世の方が、本当は地獄なのかも知れない」

 とも思っていたのだ。

 今の時代において、どうしても宗教というと、昭和から続く詐欺であったり、人を間違った道に誘導するための道具、さらには、自分たちの目的を達するための、奴隷のようなものとして、信者を扱っているところが多かっただけに、その信憑性は、地に落ちているといってもいいだろう。

 だが、一つ一つ勉強してみると、それなりに辻褄が合っているところ、

「目からうろこが落ちた」

 というような、自分で納得がいくところがちゃんとある宗教もあるのだ。

 逆に言われているわけではない自分なりの理屈を、自分なりの解釈として考えるようにもなってきた。

 ただ、それを他人に話そうとは思わない。もし話したとすると、

「お前は何か、変な宗教にかぶれたのかあ? 俺を変な道に誘い込んだりしないでくれ」

 とばかりに、煙たがられるに違いない。

 ただ、少しでも勉強し、納得が行った人間からすれば、

「何も理解しようともせず、頭ごなしに否定する人間が、一番罪深い」

 と、さすがに面と向かっては言わないが、そんな目で見てしまうのだ。

 完全に上から目線で、見下したような目をしていることだろう。

「徳を積んだ人であれば、そんな素振りを表に出さずに、相手を納得させることができるのだろうな? きっと、菩薩様のような神様に違いない」

 と感じるのだった。

 宗教とは少し違うが、外国の寓話なども、長治は少し気になってみていた。

 特に気になっていたのが、イソップ寓話の中にある、

「卑怯なコウモリ」

 という話であった。

 コウモリという動物に対して、子供の頃から、何か気になっていた長治だったが、どこに気になっているのかが、自分でもよく分からなかった。ただ、

「何か気持ち悪い」

 というイメージだけは大きくて、

「ジメジメした薄暗い洞窟に、集団で暮らしていて、目が見えない動物である」

 ということは、漠然と子供の頃から知っていた。

 目が見えない代わりに、超音波を使って、障害物を認識することで、

「危ないのかどうなのか?」

 ということを認識するという。

「視力がない代わりに、聴覚が発達していて、それは、他の動物には聞こえない周波数の音を認識できる」

 ということなのだろう。

 その感覚があるからか、長治は、

「音というものに対して、興味を持つ」

 というようになったのだが、コウモリの特徴として、超音波を発して、障害物に当たって戻ってくることで、障害物までの距離を測ることができる。それが、潜水艦のソナーであったり、レーダーに役立っているのだろう。

 音というものは、空気を始めとした、何かに伝わるということで、認識されるものである。

「耳を通して、脳が感じる聴覚というのは、動物にある独特の作用なのではないだろうか?」

 と考えられる。

「この音の反射によって、音として認識するものを、声なのか、物音なのか、それとも、超音波なのかということを、普通に認識しているが、これこそ、一種の超能力なのかも知れない」

 と思っている。

 人間は、音を聞き分けることができるが、果たして他の動物はどうなのだろう?

 少なくとも、人間のように、会話ができているのかどうか分からないだけに何とも言えないが、人間は、声で相手が何を言っているのかということが分かる。しかも、声と文字との両方を理解し、人と会話をすることができるのだ。

 動物が会話できるかどうかは別にして、少なくとも、文字を書くことができないので、文字というもので、仲間に伝達することはできない。

 一つ気になるのが、習性というのか、動物には、敵が迫ってきたりした時に、逃げる習性がある。何が敵なのか分かっていて、それは、親からの遺伝子によるものなのか、それとも、生きていくうえで、自分が身につける感性が、そのまま生きるための教養として身についていくものなのかも知れない。

 それが、危機的なことに陥った時だけのことなのか、それとも、人間が知らないだけで、人間以上の頭脳を持っていて、ずっと、人間を欺いているのかも知れない。

 人間だけが、会話もできて、文字も掛けて、しかも、思考能力があるというのは、この世に無数の動物がいて、奇跡的なことではないだろうか?

 だから、

「この世は人間が中心で、動植物は、人間の餌として生きるしかないのだ」

 という考えになるのだろう。

 その考えが、キリスト教の中で、神という存在を生み、人間をいさめるようにしないと、暴走するとでも考えたのだろうか?

 やたらと、聖書の中では、

「一度人間を滅ぼす」

 という、

「ノアの箱舟伝説」

 であったり、

 言葉を通じなくして、世界中に、人類をバラまくという発想の、

「バベルの塔」

 という話ができあがったりしている。

 この話は、

「本当に、結果から、物語を考えたのだとすれば、すごいことだ」

 といえるのではないだろうか?

 確かに、バベルの塔の話のように、

「人類は、世界各国に散らばっていて、いろいろな言語を喋っている」

 という結果から、その原因は、

「神の怒り」

 であり、その怒りの元は、

「天に唾を吐くと、自分に振ってくる」

 ということわざの元になった、

「神に近づくための塔の建設」

 という発想だった。

 だか、この発想は、

「神に近づく」

 という発想以外でもありえることではないか?

 有力説として、

「宇宙人が地球に滞在している時、宇宙船が壊れて、自分がここにいるのを、宇宙を回っている同胞に見つけてほしいというための建物だった」

 という説がある。

 SF小説としては、ありえない発想ではないが、そう考えると、大きな建物を作ろうとしたことには違いないだろう。古代の日本にだって、ピラミッドと同じ発想の古墳群がある。それは、権威を示すためのものだということであるが、聖書のバベルの塔の伝説と似たようなものではないか?

 別に、宇宙人説があってもいいはずなのに、なぜ、日本ではそのことが言われない。宇宙に、自分がここにいるということを示すのであれば、高い塔よりも、古墳のように、空から見れば、しっかりとした形に見える方が、よほど信憑性があるというものだ。

 それなのに、なぜか誰も言わない。

「ナスカの地上絵」

 に関しては、宇宙人説があるにも関わらずである。

 それだけ、日本は、独特の考えが古代からあったということなのか? それとも、

「地球以外に、生物がいる」

 という発想がなかったのか、さらには、

「宇宙という発想自体がなかったというのだろうか?」

 ということであった。

 しかし、日本の古墳も、ナスカの地上絵もそうだが、

「誰が何の目的で?」

 というのは分かっていないだろう。

 確かに、自分の権勢を表すためにということになるのだろうは、かといって、本当に、上から見ないと分からないような正確性が、あの時代にあったというのは、すごいことだと言えるだろう。

 だが、本当にそれだけのために、あれだけの人員を動員して作らせたのだろうか? 本当は他に目的があったのではないかと思うと、古代へのロマンが頭をもたげてきたりするのである。

 歴史に興味を持ち始めたというのは、そういう古代史の謎が最初だったのだが、次第に、実際の事件や人物、それが時系列で重なっていくのが、面白くて仕方がなかった。

「原因があって、結果がある。つまり、結果を見れば、原因も想像がつくだろう。そのためには、同じ時代の、まわりとの関係が大いなるヒントになる。歴史とは、そういう学問なのだろう」

 と思うと、本を読むのが楽しみになったのだった。

 本を読んでいると、確かに分からないことが多かったりする。何しろ、出てくる名前が、皆似ていたりして、誰が誰か分からなくなってくる。授業などでは、あたかも暗記物のように、覚えるところがたくさんあり、試験は完全に、年代であったり、人名や事件の名前だったりするではないか。

 歴史の勉強をするようになると、他の勉強にも興味を持つようになった。

「宗教に興味を持つのは危険だ」

 ということは分かっていたが、それも、変に洗脳されなければいいことであり、

「人に迷惑をかけなければいい」

 と思うようになると、気楽に研究できるようになった。

 しかし、そのうちに、親が、

「お前、宗教なんかに凝ってるのか?」

 といってくるようになった。

 父親は、昔気質の昭和のようなところがあり、

「自分が信じないものは、まわりも信じてはいけない」

 という、高圧的な発想の持ち主だったのだ。

「いや、別に宗教に嵌っているわけじゃなくて、純粋に勉強しているだけだよ。歴史の勉強と同じだと思えばいいんだよ」

 と言ったが、通用するわけもなかった。

「そんなことを言っていると、そのうちにm宗教にかぶれてきて、あの連中に金をむしり取られることになるんだ。そんなことも分からないのか?」

 と、完全に頭ごなしで、話も聞いてくれない。

 ただ、自分が逆の立場であれば、ここまで言い方がひどくないにしろ、少なくとも、反対はしたはずだ。しかし、言い方がカチンときてしまうと、どうすることもできない。

「売り言葉に買い言葉」

 とはよく言ったもので、相手の態度が、

「露骨にこちらを毛嫌いしている」

 あるいは、

「汚いものでも見ているような言い方だ」

 と感じると、こっちも、いつまでも下手に出る気もない。

「宗教を信じて何が悪い」

 とばかりに、本心でもないことをいい、

「こんな家、誰が帰るか」

 といって、飛び出してしまった。

 数週間ほど、友達の家を彷徨っていたが、さすがに疲れてきて、頭を下げる覚悟で帰ってみると、親はキョトンとしていた。

「わざとかな?」

 と思ったが、実際に、怒りはないようだ。

 最初は怒りが強く、心配よりもそちらが大きかったようだ。しかし、怒りが収まってくると、心配もしなくなり、

「そのうちに、帰ってくるだろう。心配ない」

 とばかりに、タカをくくっていたという。

 こっちは拍子抜けし、

「親なんて、皆こんなものなのか?」

 と、感じたほどだったのだ。

 たぶん、あの時は、怒りに任せて、自分の理屈を自分で理解もせずに、ただ、胡散臭いというだけで文句を言ってしまったが、時間が経てば次第に、怒りも収まってきて、

「自分が怒りが収まってきているのだから、子供だって、そんなにいつまでも、怒っているわけでもあるまい」

 と思っていたに違いない。

 父親は、子供のことになると、急に、

「分からず屋」

 になってしまうのではないかと思った。

 一番の理由とすれば、自分が子供の頃に父親から、言われて腹が立ったことがあったとすれば、自分なら、

「大人になったら、子供には同じ思いをさせたくない」

 と思うことだろう。

 ただ、それは、あくまでも、

「自分の子供が自分に似ていれば」

 の話であり、少しでも違えば、自分の息子と思っている分だけ、余計に、距離を遠く感じてしまう。

 子供の頃に感じた思いとは裏腹に、

「自分の息子のくせに、自分に似ていないどことか、さらに逆らってくるなんて、一体どういう了見だ」

 ということで、怒りに任せてしまうと、もう、理屈では通用しない世界に入ってしまうのだった。

 それを思うと、

「大人になると、自分が理不尽であることに気づかないんだな。大人になんかなりたくないや」

 と思ったものだった。

 確かみ、長治は、自分が大人になってから、父親のようにはならなかった。

 というのは、結婚をしていないからということである。

 今まで45年間生きてきたが、好きになった女性がいなかったわけでもない。

 普通に思春期もあり、他の生徒と同じように、

「性欲の塊なんじゃないか?」

 と思うようなこともあった。

 だが、別に性欲を持つことを恥ずかしいとも思わなかった。

「性欲があっての、思春期だ」

 と思っていたからだ。

「父親が思春期の頃は、きっと恥ずかしがっていたに違いない」

 と思ったのは、自分が大人になって、明らかに父親とは違う大人になったことを自覚したからだ。

 長治は、羞恥心がないわけではない。恥ずかしいという気持ちが、なぜかそんなに表に出てこないのだ。

 だが、性欲は普通にあるつもりだ。だから、

「他の人が感じる性欲を、俺は感じることができていないのかも知れない」

 と思うと、他の人たちと自分との違いが分かった気がした。

 それは、

「ずっと同じ人が相手だと、すぐに飽きてしまう」

 ということだった。

 これが結婚をしたくなかった一番の理由でもあるのだが、

「同じ女と、数回、セックスをすれば、その女に飽きてしまう」

 と、セックスに飽きるだけではなく、その女に対しても、興味を失うということを自覚したからだった。

 他の人に比べて、惚れっぽいところがあった。

「この女だと思うと、他の女が眼に入らなくなるのだが、手に入れてしまうと、急に冷めた気分になるのが、自覚できる。だから、すぐに飽きてしまうのだろうと思う。こんな俺が、結婚なんかできるはずがない。成田離婚などとはわけが違う」

 と感じていた。

 結婚しない人が最近増えてきているが、どんな気持ちなのだろうか?

 長治と同じような気持ちの人も結構いるような気がするが、そんな人はそれを必死で秘密にして、決して誰にも話そうとはしないだろうと思う。

「俺が変わっているのだろうか?」

 と、長治は考えるようになっていた。

 子供の頃は、そこまで、

「飽きっぽい」

 という意識はなかった。

 ただ、一度、毎日同じことをしていて、急に嫌になったことがあった。それが何だったのか、そしてそれがいつだったのかということも、正直ハッキリと覚えているわけでもない。

 ただ、間違いないのは、小学生の頃だったことである。なぜなら、その頃くらいから、毎日食べている朝食が、嫌で嫌でたまらなくなったからだ。

 毎日のように、判で押したように、ごはんとみそ汁、そして、ちょっとした漬物のようなもの。

 何が嫌といって、

「米の飯」

 が嫌だったのだ。

 朝起きてまだ、目が覚めていないような状態で、ねばねばした飯を食わされるのだから、溜まったものではない。口の中がべたべたしてきて、それでも食べなければいけない苦痛。今から思えば、

「よくあれを10年以上も我慢して食べ続けたものだ」

 と思うのだった。

 だから、高校生になってからは、朝食を食べなくなった。食べるとすれば、早朝にやっている喫茶店で、モーニングサービスを食べるくらいだった。

 トーストに、ベーコンエッグに、サラダ、さらにコーヒーがついている。

「これだよ、これ。探し求めていたものを見つけた気がした」

 正直、あの時にこれでもかと言わんばかりに、無理やりにでも食わされた食事がトラウマとなって、それ以降、家で親が作った食事を食べることができなくなった。

 同じメニューでも、表や他の家で食べると、

「えっ? こんなにおいしいものなの?」

 と、なぜ、こんなに表の食事がおいしいのか、正直わけがわからなかった。

 だが、考えてみると、

「そりゃあ、あれだけ嫌というほど毎日食わされたら、溜まったものではない。よく吐き出さずに我慢して食べたものだ」

 と思ったほどだ。

 親は昔かたぎなので、

「お百姓さんが、汗水流して作ってくれたコメが食べられるだけありがたいと思え」

 と、まるで、戦時中のようではないか。

 もちろん、作った人のことを考えると、気の毒には思うが、

「まずいものはまずい」

 のだ。

 それなら、作った百姓も、

「まずいと思って我慢して食べられるよりも、無理なくメニューを変えて作れば、少しは延命になるのではないか? 少しでも、長く、まずいと思わず食べてもらえれば、それでいいはずではないか?」

 と考えたのだ。

 どうして、親世代の昭和の堅物には、そういう柔軟な考えがないのだろうか?」

 やはり、自分たちが、食料のない時代に育った親に育てられたことで、とにかく、

「食事ができるだけでも、ありがたいと思え」

 という、人間の身体を度返しした考えなのが、信じられないのだ。

 親も親である。

「いくらみそ汁の具を毎日変えたところで、みそ汁の原点の味や、コメの堅さ加減に変わりはないのだ。そんな食事、今だったら、一週間で皆飽きるレベルではないか?」

 と思われる。

 そういえば、昭和の頃に言われていた定説が、今の時代であれば、そのほとんどが、

「迷信だった」

 と言われているではないか。

 もちろん、自然環境や、世の中の変化というものがあるが、昔の定説が全部正しいというわけではないということだ。

 例えば、

「スポーツをする時に、水を飲んではいけない」

 と言われていた。理由は、

「バテるから」

 と言われてきたが、今では、

「脱水症状になったり、熱中症になる」

 といって、必ず適度な水分を摂るようにと言われているではないか。

 実際に定説だと思われていたことが違ったとすると、下手をすると、今、

「これが定説だ」

 と言われていることが、数十年経つと、

「いやいや、あれは、令和の迷信だったんだ」

 ということになりかねないことだってたくさんあるかも知れない。

 ひょっとすると、昭和の伝説を覆した、

「水分は、運動中、摂らなければいけない」

 と言われていることも、今から数十年後には、

「やっぱり、水分を摂ってはいけない」

 となるかも知れない。

 それは、気象などの自然環境であったり、科学の発達によって、身体が変化してくることであったりするからではないだろうか?

 だから、長治が、

「朝食を毎日同じものだと耐えられない」

 と思ったのも、昭和に育った親たちとは、身体の作りが違うのかも知れない。

 もちろん、精神面であっても、肉体面であっても、親と子で同じだという考えこそ、堅物の考えであろう。

 確かに遺伝子で受け継がれているものではあるだろうが、まったく同じなどという考えはナンセンスだ。

 逆に、

「相手の気持ちが分かるだけに、余計に同調したくない」

 と考える人もいるだろう。

 それは子供の側からだけではなく、親からの側に立ってみても、同じことが言えるのかも知れない。

 そんなことを考えてみると、

「今の世の中のように、他人に押しつけをやめさせるような、コンプライアンスという考え方が生まれてきたのは、タイムリーなことではないだろうか?」

 ともいえるだろう。

 ただ、問題は、

「やりすぎ」

 というのは、どの世界であっても、考えなければいけないことで、急にそれまでの習慣や考え方を変えるということは、それまで、肩身の狭かった人たちが、大手を振って歩けるということであり、一歩間違えると、立場が逆転するだけで、勢力図が分かるだけであれば、何の問題の解決にもなっていないと言えるだろう。

 男女平等などと言われていて、それまで、男尊女卑だったのが、変わっていくのはいいのだが、だからといって、

「女性だから」

 と今までは、ダメだったものが、今度は、

「女性なんだから許させる」

 ということになってしまうと、行き過ぎとなってしまい、下手をすると、女性なら大丈夫ということで、別の犯罪を生み出してしまうことになりかねない。

 そのあたりのストッパーを考えておかないと、歯止めが利かなくなり、今度は女性中心の世の中になってしまう。

 そういえば、以前、オリンピック委員の元ソーリの男性が、

「女性が、話が長いから、会議がまとまらない」

 と発言したことで、社会問題となり、辞職に追い込まれた。

「女性差別だ」

 というのだが、どこが女性差別だというのだろう?

 統計的な話をしただけではないか?

 確かに、元ソーリで、会長という立場の人が話したのだから、それがまずいというのであれば、百歩譲って、理屈としては分からなくもないが、だからと言って辞職に追い込むというのは、何か違うと思うのは、長治だけであろうか?

 要するに、過敏に反応しすぎるような気がする。それこそ、慣れが進んでくると、人を攻撃することに慣れ切ってしまい、騒ぐほどのことでもないことを、過敏に反応してしまうことで、集団意識というものも手伝って、一人の人間が、

「それくらいいいじゃないか」

 と言えない状況になるのも問題ではないか?

 それが、

「やりすぎ」

 という考え方である。

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