第3話 神仏道
長治を、知っている人間だけではなく、今まで話をしたことなどないと言っている人まで、このあたりの人は、決して、まわりに干渉しようとはしない。その気持ちの根底には、
「自分がされると、嫌だと思っていることを、いちいちしたくない」
という思いがあるからだった。
確かに、集団があれば、その中に一人くらいは、
「人にかまわれたりすることが嫌だ」
と思っている人も少なくない。
本当であれば、
「心配だから」
という人もいるが、それはあくまでも、
「その人の自己満足を満たしたいだけのことではないか?」
と感じるだけで、やっていることは、
「余計なお世話」
なのである。
されている本人は、
「なんで、そいつの自己満足のために、俺が黙ってしたくもないことをしてやらないといけないんだ?」
と感じることだった。
本当は、
「余計なこと、すんじゃない」
と言えればいいのだろうが、そういう余計なことをしてくる連中に対して、基本的に強く言えない立場の人間が、ターゲットになるのだ。
きっと、無意識に、直感からなのか、自己満足ができる相手というものを、本能のようなもので感じることができるからではないか。それを超能力と呼ぶのであれば、長治も、十分に超能力者と言えるのかも知れない。
ただ、それは、予知能力や、見たこともないところをズバリ言い当てるというようなそんなものではなく、人間を操るという、洗脳のようなものを持っているといってもいいのかも知れない。
それを、長治は意識しているのか、彼が気になっている、大野治長にも、
「似たような性格というか、習性が、潜んでいたのかも知れない」
と感じるのだった。
どうやら、そのあたりに、何かの、
「魔力」
のようなものがあるのではないかと思われた。
長治は、子供の頃に、
「親のいうことは絶対」
という形で育ってきた。
そもそも、親は長治のことを、まるで奴隷のようにしか思っていなかったふしがある。
長治もそのことはよく分かっていて、
「俺って、どうして、親から虐げられているんだろう?」
と思ってはいたが、逆らうことはできなかった。
時々飛んでくるげんこつも、
「なぜ自分が殴られないといけないものなのか?」
ということもさっぱり分からない。
理屈が分かっていれば、対処のしようもないのだが、しかも、そのげんこつがいつ飛んでくるのか、その態度の共通性も発見できなかった。
「俺の一体、どこがそんなに気に食わないというのか?」
と考えていたが、まったく分からない。
完全に、自分のストレス発散のためだけに、自分が使われているのだと思うと、これ以上の屈辱などあったものではない。
親というものが、ありがたく、自分を産んでくれたのだから、敬わなければいけないということは分かっていたつもりだったが、そんなものは、虚栄でしかない。
考えてみれば、
「誰が、お前たちの子供として、生まれてきたいと言ったんだ」
と言いたいのだ。
「人間は、生まれながらに平等だ」
「人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
などという言葉を残した連中を呪ってやりたいくらいだった。
そもそも、人間は、生まれながらにして不平等ではないか?
誰から生まれてくるのかということを選べないではないか。気が付けば生まれてきていて、親が存在している。
親だってそうだ。ひょっとしたら、子供なんかほしくないと思っているのに、できてしまった子供もたくさんいるだろう。
できてしまった子供を、中絶手術を行うなど、日常茶飯事ではないか? さらに、昔流行ったと言われる、
「コインロッカーベビー」
生まれた子供を育てる自信がなく、子供を見たとたん、怖くなって捨ててしまった。
あるいは、殺して捨てた。
などという悲惨な事件も流行ったりした。
しかも、そういう事件は連鎖するのか、それだけ、生まれた子供を持て余している人が多かったということか、それとも、
「子供が生まれても、コインロッカーに捨てればいい」
と思っている人もいたかも知れない。
その代償が、今の、
「少子高齢化」
なのかも知れない。
確かに、子供を産んでしまって、始末に困るのであれば、最初から子供を産まなければいい。
昔のコインロッカーベビーが流行った時、事件を嘆いて、
「育てられないのに、子供を作ったりなんかするからだ」
と、親になる覚悟もなく、ただ快楽に身を任せ、さらには、避妊すらしなかった代償がこれだったのだ。
それに比べれば、育てられない親が子供を作らないという考えは間違っていない。ただいいのだろうが、時代としては、本当にいいのだろうか?
そもそも、時代が悪いのかも知れない。
昔のように、
「子供ができれば、その子が家を存続していってくれる」
ということで、手放しで喜んでいたはずなのに、今の時代はどうなのだろう?
「子供ができれば、ロクなことはない」
と言われている。
まず、夫婦間がギクシャクしてくる。
新婚で、あまあまだった生活の中に、子供ができて、母親が子供べったりになってしまい、疲れ果てると、旦那の方は、夜の営みをしようにも、それどころではない奥さんから拒否をされたりするだろう。
しかも、あたかも、面倒臭そうな拒否の仕方をする。
奥さんからすれば、
「私がこんなに忙しくて、へとへとになっているのが分からないの?」
と思うことだろう。
そこからすれ違いで、夫は浮気に走るか、どちらかが、離婚を言い出すか、それとも、ここから仮面夫婦が始まるかというところである。
何しろ、子供は昼夜関係なく、2時間おきのミルクなのだ。夫も昼は仕事があるのに、たまったものではない。ミルクの間隔など知らない旦那は、その恨みを奥さんにぶつけるに違いない。
さらに、子供が成長してくると、旦那の稼ぎだけではやっていけないということで、奥さんもパートくらいはしないといけなくなる。
そうなると、保育園に預けることになるが、その保育園がいっぱいでどうしようもない。保育園を増やそうにも、保母さんの絶対数が足りないのだ。
だから、どうしても、子育てが滞ってしまい、旦那とも、決定的に仲が悪くなると、もう、離婚しかなくなってくる。
そんな状態になることが分かっていると、今度は、
「子供なんかいらない」
と思うようになる。
昔のように、子供に、家を継いでもらうなどというのは、すでに時代遅れであり、さらに、
「自分の老後を子供に見てもらう」
という意味で、
「今の養育費を老後のための投資だ」
というくらいに思っていても、現在の自分たちでさえ、親の面倒など見ることができないほど、自分のことで精いっぱいなのだ。
そうなると。
「子供なんかいらない」
と思うどころか、
「結婚しても意味がない」
と思うようになる。
「そもそも、なぜ結婚しないといけない? 女がほしければ、風俗にいけばいいじゃないか?」
と、女をセックスの対象、ストレス解消の相手だと思っていた男が多かったということなのだろうか?
確かに、結婚していなければ、不倫ではない。何人と付き合っていようが、バレなければ、問題はない。
もし、それでお金が溜まるのであれば、そのお金で、風俗に行ったり、今流行りの、
「パパ活」
だっていいではないか?
「癒しと安らぎの時間を、お金で買っている」
と思えば、女の子も喜ぶし、何が悪いというのか?
どちらもウインウインではないかと思うのは、おかしなことなのだろうか?
そうやって、考えると、人と群れることも、
「どこに意味があるのか?」
と、思う。
「寂しくはないか?」
という人もいるだろうが、一人でいて、人に迷惑を掛けない趣味さえ持っていれば、それでいいのではないか?
昔は、
「人は一人では生きていけない。一人で育ってきたと思うんじゃない」
と言われたものだが、だったら、自分が、今度は育てる側にならなければ、それでいいんじゃないか?
という考えが、横行しているのかも知れない。
ただ、それが本当に悪いことなのだろうか?
子供が生まれて、捨てたり、殺したりするよりも、結婚して、離婚という無駄な時間を過ごすよりも、
「人生は限られた寿命の中にいるんだ」
ということで、自分が何をしたいのかということさえ見つけて、迷惑を掛けずにやっていれば、それでいいのではないか?
孤独というものだって、寂しいと思うから孤独なのであって、寂しさを忘れるくらいの感情を持っていれば、別にそれでいいのではないか。
趣味がクリエイティブなものであれば、世の中の役に立つかも知れない。
役に立たなくても、迷惑をかけず、密かに生活していれば、それの何が悪いというのだろう?
よく、
「近所に、一人孤独な老人がいて、毎日、何をしているのか分からないが、あんな風にはなりたくない」
と言っている人もいるが、それの何が悪いというのだろう。
その人が、ただ、
「俺の目の前をウロウロされると目障りだ」
といっているだけではないか。
それを思うと、何が嫌なのか分からない。
「自分は、友達もたくさんいて、そんな孤独な老人とは違うんだ」
と言わんばかりで、まさに、
「反面教師」
としての存在を、自分の中での、まるで必要悪として認識しているのかも知れない。
そういう
「仮想敵」
を作っておくことで、自分が生きている証を求めているのだとすれば、一体どっちが、この世に存在していて意味があると言えるのだろうか?
そもそも、そんな考え方をすること自体がナンセンスなのであって、究極、
「楽しければそれでいいのだ」
自分のまわりに友達がたくさんいて、楽しければそれでいい。ただ、それだけでは満足できないのか、仮想敵を作るようになると、その人は自分がどれだけ満足しても、さらに満足度を求めようとするから、まるで、
「血を吐きながら続けるマラソン」
をしているように思えるだろう。
昔あった子供向けの特撮番組で、
「東西冷戦における核開発競争」
を皮肉った言葉として、この、
「血を吐きながら続けるマラソン」
という言葉があった。
まさにその通りで、一つに満足をすれば、さらにまだ満足を求めるという、それこそ、いわゆる、
「欲」
というものである。
欲には限りがないと言われる。ただし、欲というのは、元来悪いものではないはずだ。
「欲があるから、頑張れる」
という言葉だってあるくらいで、だからこそ、頑張ることにも限りがないのだ。
「性欲、物欲、征服欲」
絶対になければいけないものでもないが、なければ、日常生活に支障をきたすこともある。
さすがに、食欲などのように、一定期間以上が我慢の限界があるものもある。こちらは、絶対に不変のものであり、抑えが利くというものでもないだろう。
満足という欲は、その中間に位置しているものなのかも知れない。普段は、隠れていて、普通に生活をしていると、満たされるものであるが、一つの欲が芽生えると、この満足感を味わいたいという思いがどれほどのものかということで、自分の人生にどれほどの影響で関わってくるか、大きな問題となるのかも知れない。
ただ、この満足感というものを持っていないと、人間は、抜け殻も同然であり、生きているという感覚ではなくなってしまうだろう。
たまに、
「理由もないのに、自殺をしてみたくなって、自殺をした」
という人がいる。
意外とそういう人は、死を目の前にして躊躇うことはなく、一思いに自分を殺めることができる。そういう感情が、一番臆病とは無縁の感情なのではないかと思うのだった。
「世の中って、そういうものなのだろうな?」
と、いって、死んでいったのかも知れない。
自殺というものを、どう考えるかであるが、宗教では、
「死後の世界には、この世でよい行いをすれば、天国に行けて、悪い行いをすれば、地獄に堕ちる」
と、いうざっくりとした言い方をすれば、そういうことのようだ。
だから、今、
「この世で、これから行くあの世で天国に行けるように、よい行いをしておくべきだ」
ということなのだという教えである。
そのために、神や仏に、祈りを捧げ、読経することで、天国にいざなってもらおうということなのか、とにかく、宗教においては、
「この世での救いを求めているわけではない」
ということである。
だから、仏教などでは、寺院を作り、仏像を治め、仏像を崇拝する。それが、すべてだとは言わないが、表に出ているところで普通ピンとくる宗教活動というと、そういうところである。
そもそも、仏像には種類があり、
「如来、菩薩、明王、天部」
と4階層になっていて、ピラミッド型になっているのであった。
如来というのは、悟りを開いた仏のことで、菩薩は、ただいま修行中の僧である。明王というのは、
「仏の教えに背くものを懲らしめる」
という役目があり、天部というのは、
「仏や、その教えを守るための、兵隊のようなものだ」
と考えられている。
だから、釈迦、薬師、阿弥陀などの如来様には、単独というよりも、まわりに兵を従えていることが多い。それが、天部というわけである。
菩薩というと、観世音などが有名で、明王になると、不動明王などが有名だ。
天部になると、恵比寿や毘沙門、大黒のような、いわゆる、
「七福神」
もそこに入るという。
天部の世界では、六道と呼ばれる世界があり、そこは、
「人が死んだら、生まれ変わる世界」
と言われている、
先ほどの、天国と地獄以外にも、もう一度、人間に生まれ変わったり、修羅同、畜生道、餓鬼道、地獄道と別れている。もちろん、天国というのは、天道というわけだ。
つまり、人間道でなければ、人としては生まれ変われない。
「人間道というのは、苦しみや辛さもあるが、楽しみや希望もあるということで、いくらでもどうにでもなることができる」
ともいえるだろう、
天道のように、神様となる場合はいいのだが、それ以外、人間道以外に、楽しみはないのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「せめて、次はまた、人間に生まれ変わりたい」
と感じるか、歴史上、ほとんどが、殺し合いの時代で、自分の意思ではどうすることもできなかった歴史があるだけに、普通なら、
「天界に行きたい」
と思うことだろう。
それを叶えてくれるのが、宗教だということだ。
ただ、いくら宗教でも、この世界にいる人間を救うことはできない。
それぞれの世界は不変なものであり、今その人が人間界にいられるのは、前世で、人間界に選ばれるだけのことをしたからであろう。ただ、その元が何であったのかは分からない。よい行動をして、下の道から、人間に生まれ変わることができたのか、それとも、天から落ちてきたのかである?
ただ、宗教によって、その教えの中で、
「地獄に堕ちると、二度と人間に生まれ変わることはできない」
というものもあることから、それを信じるのであれば、自分の前世は、
「神だったか、人間だったかのどちらかでしかない」
といえるだろう。
つまり、それぞれの世界は、確立されていて、人間あるいは神一人だけでは、どうなるものでもないということである。
現世の歴史を一人のために変えることはできないので、その人が次に進む世界をこの世の行動で決めるしかないということになるのだろう。
そう考えれば、理屈としては合うのだ。
いくら、坊主や僧といえども、彼は人間なのだ。神のようなことができるわけもない。
「じゃあ、今死ねば、あの世で天国に行けるのではないか?」
と考えるかも知れない。
しかし、それは、ある意味、その人にとってだけの都合であり、一緒に生きてきたまわりのことを考えていないということでもあるので、そんな考えを宗教が許すわけがない。だから、
「自殺は自分を殺すということであり、許されないことだ」
として、戒めているのではないだろうか?
これも、そう考えれば理屈に合うというもので、宗教というものは、
「突き詰めれば突き詰めるほど、よくできているのかも知れない」
と思える気がする。
ただ、改めて考えれば。それも、この世のりくつが噛み合っているから、そういう考え方になるわけで、本当に神や宗教が絡んでいるのかというと、これも疑問だ。
やはり、
「天界は人間界に近いところにあり、背中合わせなのではないか?」
という、
「六道」
の考え方に似ているのではないかと思えるのだった。
正直、今の世の中で、宗教というと、普通の人たちにとっては。
「ロクなものではない」
と考えることだろう。
確かに、詐欺や犯罪などが後を絶たないというのも事実であり、特に怪しげな新興宗教は、明らかに詐欺であったり、クーデターを仕掛ける隠れ蓑であったりする団体が多かったことで、実際に、犯罪集団と紙一重であり、背中合わせだったりもする。
では、そんな宗教団体を、
「必要悪だ」
といえるだろうか?
新興宗教などにおいて、
「必ず、神は救ってくださる」
といって、本当に救われた試しがあるのだろうか?
そもそも、救いというものが何なのかということを、救われる人は分かっているのだろうか?
もっと言えば、
「救われるというが、では、それは一体いつのことなのか?」
今すでに救われているというのか、それとも、これから救われるというのか、それには、
「何をもって救いというのか?」
ということが分からなければ、証明はできない。
もっといえば、いつ救われるかということが分かっていれば、
「今救われたということは、あの瞬間が救いだったのだ」
と自覚できて、納得もできることだろう。
本人が納得もできていないのに、
「あなたは救われました」
と言われて信じるであろうか?
救われたのであれば、どうなれば救われたことになるのかを理解し、どうすれば、救われるかということを、今度は後進に伝授していかなければいけないだろう。
自分がそうやって導いていってもらったようにである。
いつ救われたのか。自分が本当に救われたのかということも分からず。
「救われた」
というのであれば、それはいい加減でしかなく、信用しろという方が無理だというものだ。
そんな連中は、
「悪」
なのだろうが、果たしてその上に、
「必要」
という言葉はないだろう。
つまり、他の宗教からすれば、邪魔者であり、いい迷惑でしかないということだ。
それに、
「そんな連中がいるから。宗教が白い目で見られ、純粋に人を救おうとしている自分たちまで、ロクなものではないと言われるのは心外だ」
と思っているに違いない。
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