三章

翌朝、いつもの朝が訪れる。

今日はカーテンを開けてみる。

目に朝日が眩しい。

私の中で眠っている間に記憶と感情の整理が出来たのだろう。

少しすっきりした。



私は、本格的に過去に向かい合う覚悟が出来た。

そして、昂と弥香に対しても。

過去から現在、未来に時間は繋がっているのだろうか。

昔、自分が作った詩が頭の中を占領している。





自分の心の奥底を見てきた

そこにあったのは過去の檻から抜けた私


鳥籠から羽ばたけたのだから

さぁ自由を与えられたのだから

これからは前をみて歩んで行く

でも、どこへいこう

与えられた自由は果てし無い


ある魔女が言っていた

くるくる回って立ち位置を見失うと

全てが足元から崩れると


きっと今の私は

長いスカートとブーツをはいて

くるくるまわっている

足を引っ掻けて転ばないように

気を付けながら、目が回っている


どうせなら春めく人生をと希求する

ただ、私は私の未来を安全なものに

導いていかねばならない

それが私のミッション

ただそこにある幸せを


ただ、そう感じる

ただ、それだけを


女神が導く春めく世界へ


そろそろ進まなければ

心と現実の歯車が絡み合う場所へ


春めく世界へ

女神が組み立ててくれた

幻想の世界なのか

それとも精巧に組み上げられた

緻密な世界なのか


どちらにしろ私はゆくのだ

前に向かって進まなければ

遠くへ





これは、私の中のイメージ。


時間を操る女神様の世界の中で生かされている私達。

かの女神さまの仕事は、時間の安全な運航、その安全な時間に人間や生き物を生かす事。



何かを心の中で引きずり後悔すると、時間の檻に閉じ込められる。

成長するまでは、ずっと同じ思考と同じ現実を繰り返してしまう。

これが時間の檻。

この檻から抜けるには必死に自分の心に向き合うしかない。

心をのぞき込み足掻いてひたすらもがく。

私だって何度この檻から抜けようとしたかわからない。

抜け出られたと思った、この謎の現象から。

その時の気分を詩にしたもの。



けれど、昨日のような出来事があると、結局、また引き戻さたように感じる。

抜け出せてさえいなかったのだと怖くなる。

そして一晩眠ると、また新たな気分になる。

自分の中が少し整理されると少し抜け出せた気になる。

その繰り返し。



けれど、今度はこの檻から抜け出して見せる。

春めく世界へと行く。

過去は私を繋いで来た、現在は私を生かしている、そして未来は私を安全に導く。

その時は心から安心していたい。



そんなことを考えていたら、いつの間にか職場についていた。

「おはようございます」

小島 菜緒に挨拶されることで急に現実に引き戻される。


茶色の髪をしていて、とにかく細い。

顔は十人並みだけど、しぐさの所々がまだあどけなさを残し可愛くもある。

今どきの柔らかく自分を表現しない女の子。

現代的で狡賢く、良くも悪くも幸せに貪欲なタイプ。

私が彼女に持っている印象。

彼女もまた私のことがあまり好きではないのだろうと感じる。

だから適度な距離を保ち、それ以上のテリトリーには入らない無言の約束事がそこにはある気がする。

少人数の職場の目に見えない鉄の掟。

「おはよう」とかえす。


そこに、もう一人の同僚、山口が現れる。

なんだろう、一瞬にして空気が寒くなった。

いつもの二人から漂っていた、空気感が消えている。

例えるなら、二人が出すピンクのハート形の好き好きという光線がそこかしこから漏れ出していたのに。



喧嘩でもしたのか、いや別れたなこの空気。

それもこの山口にかなりの痛手を残すやり方で。

けれど、この小島はけろっとしているようだ。

なんだか面倒くさいことになりそうだ。

そう思った。



「山口君、おはよう」

「おはようございます」

誰とも目も合わず、そそくさと自分の机に機嫌悪そうに荷物をおろす。

予感的中。

仕事は仕事、なるべく平和にやっていきたい。


そして、館長が入ってくる。

相変わらずのギンガムチェック柄のズボンを履いている。

「おはよう」

皆に一瞥すると、さっさと珈琲メーカーにいきさっそく淹れた珈琲に口をつけている。

山口の強張った顔に気づいたようだ。

重い空気を察したのだろう、私を見つめてくる。

何とかしろよこの空気、仕事に持ち込ませるなと。

なにせ、今日から絵の展示会の準備が始まるのだから。



こういう時は、体を動かすのが一番だろう。

古典的だが一番良い方法だ。

こうやって空気感や館長からの無言の指示を受け取るのも年齢的に私の仕事。

「山口君、前に私が作ったコンパネの配置設計図あるから、ファイルから印刷して小ホールで組み立てようか」

「山口、私も手伝おう、佐枝、小島は大ホールで明日のための照明と音響の点検をしてくれ」

「はい」


指示のもと分業が決まるともう動くしかない。

この広い広い3階建ての大小ホールを有する会館にはスタッフは4人しかいないのだ。

問題は昼休みだ。


小島 菜緒とともに大ホールへ移動する。


彼女は、私達が察したことに気づいたはずなのに大した反応もない。

まぁ、謝るのも不自然ではあるが全くの無視なのだ。

心臓が強いのか、ここまでくると羨ましい気もする。


後日開かれる地域のカラオケコンサートのための準備を黙々と進める。

大体の準備は終わっていたので、今日はバミリという立ち位置に照明が当たるようにチェックしたり、預かった音源の確認をしたり、マイクのテストや音量を調整したりと出場順の細かい注意書きを頭に入れていく。


全てを終えるころ、昼休みとなり館長と山口も戻っていた。

山口のほぐれた表情が小島を見たことでまた強張る。

山口と小島のデスクが私を挟んで離れていたのが救いのようだ。

変に気を使う方が逆効果なのだろう。

それぞれがいつも通り、好きにしていく事にした。


私は、お弁当を食べながら携帯をチェックする。

そうだ、弥香に何かメッセージを書いて送ろう。


「弥香、私は落ち着いたよ。

昨日はありがとう、嬉しかったよ。

弥香は、大丈夫?」


15分後に返信があった。

「ありがとう、私も取り乱しちゃったけど、なんかだか歌奈に対しては

すごくすっきりした。

恋は大丈夫じゃない、今日も浮気相手と会う予定」



私は、何を書いていいかわからなかった。

もちろん、当り前に考えて不倫はいけない。


「弥香、弥香が傷つない最低限度にとどめるって約束して。

けど、これ以上心と体を渡して苦しんでほしくない。

そんなことは不可能なのはわかってる。

でも、これは本心。

孤独を埋めるために孤独が広がったら採算悪いよ。

そしてこれは注意書き」

軽めのスタンプを送った。


  

少しして返信が返る。

「ははは、確かに採算取れるどころか傷物返品でマイナスがオチだよね。

わかってるの。

でも、どうして人は衝動を抑えきれないのだろう。

愛してないの、この男。

でも情がどんどんわく事が怖い」


急に鳩尾あたりにパンチを食らったような気分だった。

早く逃げて、食い尽くされないうちに早く。

けれど、一方で弥香の精神が保てなくなることも怖い。


「弥香、いったん止まれないかな。

やっぱり私と会おうよ、今日も。

私も聞いてもらいたいことがあるの」




恋の華には、様々な形がある。

色んな気持ちがあり、そこには相反する気持ちが必ず潜んでいる。

弥香が心配だ。

偽りのない本心。



午後より絵の搬入が行われた。

そこには青い静寂を行く世界

静寂の中をひたすら歩む

悠久の時間の中で

多くの殉教者に見守られながら

そんな印象だった


これは心の旅でもある

そこにあるのは真実への祈り

同時に、真実への遠さ



出来る事なら、平山郁夫という人間と話してみたかった。

この人生の先頭や、暗闇のなかの灯台のように見えたから。

彼と心の中で話すと、何か答えをくれるようなきがした。



どうして青とオレンジをずっと選んだの?

どうして青とオレンジに惹かれたの?

どうして青とオレンジに惹かれ続けたの?

まずはそこから聞いてみたい。

答えはないけれど、彼と対話を続けると何かが見えてくる気がした。

まず、平山さんと話すにあたり失礼のないように彼の絵をよく見たくなった。

彼についての本や彼自身が語った話もたくさんあると思う。

けれど、調べるよりも今は自分が何を感じるか冷静に見つめたい。



彼の作品に私の意識ごと入り込んでみようと思う。

正式な題名というよりは、今の私の感性で名付けさせてもらう。


「静かなる巡礼」だろうか。


目の前にあるのは、砂漠

広い広い荒野

古びた過去の栄華を誇った遺跡

そしてその代わりに立つ少し新しい建物

ここは、静寂が支配する暗闇

けれど、道標のように照らす月と星々

その細い光だけが頼りに導かれながら進む道



まずこの光景に入り込んで綺麗だと思うこと私にはない。

あるのは飲み込まれそうだと感じる恐怖だと思うだろう。



そして、その明かりを頼りにしずしずとやってくるキャラバン

ワイワイと話す空気でもなく、ただ黙々と通り過ぎていく

砂が口に入らないためかもしれない

たんに体力消耗を防ぐためかもしれない

もしくは、祈りの旅におしゃべりは不要で、心の中で一人一人神と対話しているのか

もしくは自分の心と対話しているのか



きっと、祈りの巡礼者の亡霊か実物の人間かわからなくなり、ますます怖くなるかもしれない。

この絵が綺麗だと思うのは、一歩外で客観的に眺めているからかもしれない。




そして、次の絵

自分の感性で名付けていくなら、


「月明かりのモスク」


この圧倒的に大きいモスクを目の前にしたら、やはり動けなくなりそうだな

この中にいる王を想像するかもしれない

この圧倒的な権力を持ち統治する砂漠の猛者

その力と孤独を

その彼の心を見つめて心を照らしているのは空からの光のみ

孤独と孤高とはどんな世界なのだろう

だれか彼の心を温める人が側にいるのだろうか

彼にも空からの光が届くといい



何となくそんなイメージがわく。

そうして気づいた。


青から緑へと色の層が変わってゆく。

そして、うっすらモスクは緑のベールで被われているようにも見える。

何を表しているの?


 平山さんの絵にたいして何となく共通項が浮き上がってきた。

彼は孤独や静寂を愛する人ではないだろうか。

だから、深い青をこよなく愛し使ったのではないか。

一人の時間を愛し、自分の孤独を空から降りてくる光で照らしだし、

自分を見つめて癒してもらいたかったのではないか。


そして、その作業に疲れたら、

つまり内省に疲れたら、その反動で補色のオレンジを求めたのではないか。

オレンジには光という力が宿っているように感じる。

どんなに孤独や夕日が描かれていようと、色の持つ鮮やかな力は存在し力を与えてくれる。


きっと、そんな世界を求めたことが、ここに結実したのではないか。

そんな気がした。



平山さんからの答えは勿論ない。

けれど、想像の余地を残しておくのはとても贅沢な気持ちがしてしまう。


真実は、彼の心にのみ秘められている。

それをつまびらかにした解説書も世の中には沢山あるとは思う。

けれど、仕事までのこの時間は私はひそかに彼の心を想像する道を選ぶ。

そして、仕事が近づけば解説も調べる予定だ。



携帯をチェックする。

「まだ迷ってる。

私は、歌奈と会いたい。

これを断れば、私を愚かな女と思ってあきれる? 」

今まで彼女との間に溝があったとして、どうして私はこんなにも無防備な彼女の心に気付いてあげられなかったのだろう。

それさえも気づけなくて、親友だと思っていたなんて。



「弥香、安心して。

今は心に従って。

でも、私に約束してくれたように何があって、どう感じたか、後日、私に正直に話して?

私はずっと弥香の側にいる。

バカで心配だから」

そう送信した。



彼女から短いスタンプがあった。

ウサギが泣いている。

照れ隠しなのか?

相変わらず不器用な二人がそこにいる。



いつか、この恋を後悔するかもしれない。

贖いきれない罪となるかもしれないのに。

私に至っては、そう、私に至っては……

今は分からない曖昧なもの。



けれど、もう走り出している。

走り出した気持ちが止まることはない。

現実がついてくるのはその後。

そして、人にどう判断されるかはそのさらに後。

帰ろう、家へと。



今日は料理をしよう。

いつもより張り切って。

パスタかな?ラザニアもいいな。

なんとなくスタミナのある肉料理が良いかもしれない。

力をためないといけないと思う。


ステーキにしよう、それとポテトサラダ。

ジャガイモと人参の皮をむぎ湯がく、そして次にタマゴを。

その間に肉をたたく、塩コショウをすりこむ。

このザラザラした調味料を指ですりこむ感覚もなぜか好きだ。

湯気がもうもうと鍋より上がっている。

湯切りをするこの瞬間は、いつも顔に湯気がかかり熱い。

マッシャーでジャガイモをつぶし、タマゴをつぶす。

キュウリの輪切りと人参を加える。

その間に、肉を焼く。

ジュージューと言う小気味よい音と共に油が跳ねてくる。

あぁ、汚れをふくの大変だなと頭の端で思う。

サラダに塩コショウと、少しのシークワーサーの果汁を加える、そしてマヨネーズをどっさり入れて混ぜ合わせているところに、肉の焼けた良い香りが漂ってきた。

慌てて裏返えす。

そしてバルサミコ酢を少し煮詰める。

完成だ。


料理の瞬間は現実を考えなくて済む。

こういう日はわざと手間のかかるサラダを作るのはいいものだな。

一つ発見した気分。



さっそく食べる、結構おいしい。

肉汁が口いっぱいに溢れて、バルサミコ酢の少し酸っぱいソースに合う。

このソースは初めて作ったけれど、さっぱりとしているし煮詰めるだけで簡単だし。

次も採用だな。

おなかいっぱい食べたら、少し満たされた気がした。

今日はお酒を飲まなくて済む。

そう感じた。

そう感じた事に、少しの安心感もある。




その夜、弥香と会うことになった。

正確には彼女からの突然の呼び出し。


「歌奈、今すぐ会って、壊れそうなの」

少し興奮気味の彼女から電話。


私はよくわからず弥香の部屋へ向かう。



そこには、生々しい弥香がいた。

「私、彼から逃れられなくなったかもしれない。

やっぱり、歌奈と会えばよかった。

でも、私生きてた。

体が生きてて肉を欲しがってる」

髪がボサボサだ。

そして下着の上に軽く羽織っているだけの弥香。

完璧にパニックに陥っているの?

私にはよく状況が飲み込めない。



「彼は私を求めるの、噛みつくように貪るように。

私はライオンに襲われたシマウマみたいになす術もなく食われるの。

でも、嫌じゃない。

むしろ求めてしまう、もっともっとって」


「弥香、弥香、落ち着こう、いったん、ね?」

「ダメ、聞いて」

「彼だけが私を激しく求めてくれるの、生きてるって感じさせてくれるの、誰より」

「弥香、弥香、ダメ、そっちに行ったら、抜けられなくなる」



私は必死に弥香を繋ぎとめなくてはいけない気がした。

まだ、引き返せるうちに。

けれど、手遅れな気がしている、どうしよう。

私は焦った。

だって弥香は今普通じゃない。

何をしたの、そいつ、無性に腹が立った。

聞きたいような、私にはわからない禁断の媚薬の扉のような、そんな世界なのかもしれない。

でも聞かなければならない。

弥香を取り戻すために。



「歌奈、歌奈、聞いて?」

尚も、熱にうかされたように弥香は続ける。


「彼は、いきなり私を手錠で繋ぐの。

自分と決して離れられないように、逃げられないように。

そして、思う存分私を食い散らかしていくの。

なのに、全てが終わるとさっさと私を捨てて帰る」

「まって、食い散らかすって?」

「そのままよ、そこに愛はないの、執着なの。

ただ女の私だけを求めてる」

「待って、そこに行く前に聞きたいの。

彼に妻子がいたとして、それに対してはどう思うの?

反省とかじゃないの、憎しみとか羨ましいとかの感情があるか。

それとも、ただ彼とする事に惹かれてるの?」

「今はない、でもわかるの。

このまま続ければきっと私は正気ではなくなり彼を求めるって、彼のすべてを」


これは危ない。

私の本能が危機感を示している。

どうしたの?弥香。

あんなに冷静な弥香が……

こんなに激しい感情を秘めていたなんて。



何とか踏みとどまって、弥香。

行かないで。

どうしよう、私はそう思い焦っている。

2人で焦ってもどうにもならないだろう。

一旦弥香をいったん落ち着かせよう。

そうするために、私は呼ばれたのだろう。



とりあえず、弥香に服を着させるとホットレモネードを作った。

少し落ち着きを取り戻した弥香が喋り始める。

子供のような、大人のような表情をする。

「彼の求め方って犬みたいなの」

「犬?」

内心、目をむくほど驚いた。

獰猛な犬としてだろうか、可愛いという意味だろうか?


そうして、彼女は続ける。

「そう、柔らかい舌で最初は遠慮がちに。

長いキスの後、そっと這わせてくる、首筋にキスをしながら鎖骨の窪みを舐めてくる。

そして、胸に舌をはわせる、吸い付くというよりは私を翻弄するのを楽しんでる。

そして、私の快感なんか無視して、どんどん下に降りてくるの」


何となく、聞いてみた。

「犬? 舌使いなんだ」

「犬って言わないで」

弥香に睨まれる。

おかしい、いつもなら冗談で返ってくるのに。


「彼は、このころには最初の遠慮なんてなくなってるの。

ただ私を追い詰めることだけが目的みたいに、どんどんどんどん苛めてくる」


しばらくためらいがちな間がある。

「私は涙目になるの。

もうやめてほしいのに、やめてほしくないの」

「彼も余裕がなくなってきて、優しさなんてないの、ただ私の中に入ってきてずっとずっとやめてくれないの」

「だんだん苦しくなってやめてほしいって手を伸ばしても、彼はやめてくれない。

むしろ、抱きしめて深いキスをしてくる」


私は、気づいてしまった、2人の中にある感情に。


おもわず、呟いていた…

「それって、優しさがないのかな? 」

ふつう、抱きしめないんじゃない? そういう関係って。

そう思ったけれど、彼女に今それを伝えるのは危険な気がした。


「わからない、あっても困るでしょ?」

「あいつには、そんな優しさや激しさはない。

あるのはただの惰性」


あいつとは、弥香と5年付き合っている彼氏の事だろう。

昨日、浮気をしていると言っていた。



そして、弥香の心を探すためにたずねる。

「ねぇ、弥香、彼氏の事愛してる? 今も? 」


苦悩する表情とは裏腹に、スパッとした返事が返る。

「愛してない、私よりあんな女を選んでることが許せない。

私のプライドが傷ついてるの。

じゃあ、私となんで別れないの?

あの女だけ求めていればいいのに。

あの男の狡さが嫌いなの」


いかにも弥香らしい。

彼女はプライドが高いところがある。

そんな男捨ててやりなよと簡単に言えれば楽だろう。

けれど、気になる。

どうして表情と言葉がずれているの?



弥香は彼氏から歪んだ愛をどこかで晴らそうとして、近づいてきた男で発散しようとした。

埋まらない裏切りという受けた傷をどこかで埋めて貰いたかったのだろう。

そうしたら、この不倫男が弥香にはまり込んだのか。

弥香が気付くのも時間の問題だ、相手の男はかなり本気だと。



弥香はその気持ちに気づいたらどうするのだろう。

なんだか、よくある話だなとは思う。

けれど、実際には自分とは違う世界の話で考えた事もなかった。

きっと、解決には時間がかかる。

彼氏を振ったとしても、この不倫男には妻子がいる。

それなのに、弥香まではまり込んでいると分かるから。



何となく、空気を変えたいし喉が渇いた。

「何か飲む?」

「うん」


そういうと、キッチンにあるお酒を探す。

弥香のキッチンにはカシスのリキュールがあった。

強いお酒のテキーラ、甘いフルーツのリキュールの数々、

そして、ヴァージニアの煙草。

何となく、そこに弥香の心が表れている、これが弥香の今。

けれど、今はこれで良いと思う。

いつまでも人間は現状にとどまる生き物ではないから。


とりあえず、カシスのリキュールを選び少しのペリエとオレンジジュースで割ってみた。

少しの糖分がある方が今は良いのかも。

「おいしい」

「おっ、結構イケる」

そういうと、なんだか少し気が抜けた気がした。


「ねぇ、弥香。

今は、結論を避けようと思う。

けれど、お願いだから関係を週に1回にして」と頼んだ。

弥香は、子供のように手グラスを包み込んで持ったまま素直に頷いた。

「ねぇ、歌奈」

「なに?」

「今の私の事どう思う?」

「汚いと思う?ズルいと思う?哀れ?」

彼女は、最初しっかり目を合わせたが、ふいっと逸らした。


私はまっすぐ彼女を見つめてしまった。

罪悪感が溜まっているのかな……

そういう気がした。


そして、思ったことをまっすぐ伝える事にした。

「そんな事は思わない、人間には色んな時期がある。

傷つけたり、傷つけられながら前に進むしかないと思ってるから。

人の気持ちは簡単には割り切れないし、簡単には分からない」


目を逸らしたまま、弥香は頷く。

「うん」

そして、目を合わす、少し表情が和らぐ。


「歌奈、あんたって思ったより融通きくんだね。

もっと堅くて保守的で人の綺麗な所しか見たくないんだと思ってた」

それを受けて、私は苦笑いするしかなかった。

「いや、その通りだと思うけど。

それでよく本質を見失うのかな」

今度は、弥香が苦笑い。

「そうだね」



そういうと、バカみたいだけど可笑しくなって二人で笑ってしまった。

互いの現状と、バカさ加減に。

バカだけど惨めには感じてはいない。


やっと弥香を通して少しは人を、そして、自分も理解する手掛かりを掴めたのかもしれない。

そして、本当の友情も。


その後も恋の話とお互いに言いたいことは続く。

弥香はあきれたように諭すようにいう。

「私もバカだけど、歌奈、あんたもかなりのバカだよ」

「やめなよ、心配だから。

そんな変な男、っていうか、誰なのよ?結局」

私は心底自分にあきれながら笑って言う。

「分からない」

苦笑いが返る。

「もう本当に本物のバカでしょ」

けれど、私はすかさず返す。

「ほぼ下着一枚でオロオロしてた女がそれ言う? 」

結局、2人で笑いあう、だんだん笑う声が大きくなる。

基本的に私と弥香は似てるから、気が合う。



もっと早くこんな関係になれていればよかった。

けれど、このタイミンで互いを深く知れて良かったのかも知れないとも思う。

ひとしきり笑い明かしたら、弥香は疲れて眠ってしまった。

弥香の寝顔は、無邪気な気がした。

無理してるのかな。

厳しい数字で能力をはかられる世界に縛られて、結果を求められて生きる事に。



きっと、私の想像もできないストレスに晒されているのだろうな。

この社会で、まだ28歳の女ともいえるし、もう28歳ともいえる年齢。

疲れてしまうよね。

毎日お疲れ様。

今は、何もかもの現実から逃げてしまえと思う。

夢は弥香にも優しくあればいい。





翌朝、展示会が始まった。

9時からの会場にも関わらず、小ホール展示場に多くの人が訪れている。

皆長い時間見ていたいのだろうけれど、後ろからの人々の列に押されるようにしょうがなく前に押し出されているようだ。

スーツを着た人も、カジュアルな人もいるけれど、大体の人は見栄えの良いオシャレをしている。

それだけ、画家の魂のこもった絵に敬意を示しているのかのようにみえて嬉しくなる。


初日というだけあって、人が途切れる事もない。

そんな中、一人気になる初老のご婦人がいた。

ある絵の前に、人に流されては戻ってきている様だ。



なんだろう、気になり視線を追う。

それは、夕日に浮かぶ一艘のヨットの絵画。

その絵は、夕凪の中にただ一艘で浮かんでいる。

大きな帆を張り、夕日の落日を待っているのだろうか。

使われているのは、暖色、オレンジ、黄、茶、黒が目立つ。



このご婦人の中に、何か大切な想い出でもあるのだろうか。

話しかけてみたいけれど、失礼だろうか。

そんな気配を察したのだろうか。

ご婦人から話しかけられる。

「ごめんなさいね、一人で何度もこの場所を陣取ったりして」

「いえ、ご遠慮なさらずに。

どうご覧になるのもご自由ですから」

と笑顔で返す。

そういうと、彼女はまた絵を眺めることにもどる。

彼女の瞳には、この絵を通して何が映っているのだろう。

過去の記憶だろうか。

大切な想い出だろうか。



12時になった、人の波が引いたので、思い切って話しかけてみた。

「この絵、とても惹かれてしまいますね」

彼女の瞳が柔らかく微笑む。

「ええ。そうね」

つられて、私も微笑み返す。

「この絵は、孤独なんでしょうか、充実した孤独なんでしょうか? 」

「あら、あなた面白い事考えるのね」

「そうですか、ありがとうございます」

「彼の絵は、対と言って良いほど、青と橙の絵が多いのは気づいているわね? 」

「はい」

「私は、この絵から感じるのは、死を覚悟した男の休日ね」

「死を? 」

「そう、自分の命が短い事を。

この夕日を見ながら自分の人生に重ねているの」

「そうですか、たしかに物悲しくも見えますが凛としたものも感じますね」

「ええ、仕事に命をかけて誇らしく生きて、その頃を振り返り残りの自分の命を見つめている男よ」

「ごめんなさい。

去年、亡くなった主人のことなの。

主人は裁判官だったの、いつでも仕事に悩みそれでも仕事に邁進して病気で散ったわ」



「ご主人さんは、絵に興味があったのですか? それともヨットに? 」

微笑まれる。

「もちろん、絵画よ」

「あなた、変わっているわね。

普通は、ごめんさないか、ご愁傷様ですというものよ」

「あ、すみません、気が利かなくて」

「ほめているのよ。要らないの、私、口先だけのお悔やみなんて」

「少しあなたと話がしたくなったわ、お忙しくなければいいかしら? 」

「はい、私でよければ。もう昼休みですから」

「そう、じゃあ館内の喫茶店にいるわね」


私は、時計をみて約束をすることにした。

「では、10分後に参ります」

また、このご婦人は柔らかく微笑む。

そういうと、薄紫のスーツ姿が遠のいてゆく。



彼女を見つけると、

「この会館のスタッフで佐枝と申します」と挨拶した。

「下のお名前は?」

「歌奈です、歌に、奈は分解すると大きいに示すと書きます」

「歌奈さんね、あなたにぴったりの名前ね、歌うように滑らかなひとよ」

「滑らか?」

「ええ、感性が伸びやかよ。個性を大事になさい。

私は準子というの。」


「よろしくお願いします、準子さん」

「よろしく」

「私は紅茶を頼んだの、あなたは?」

「あっ、では、珈琲を」

準子さんは、そういって私のオーダーを通してくれた。



「さぁ、はじめましょうか」

そういうと、彼女の眼鏡の奥の目が促す。

「はい」

「私は、あなたが何か悩みを抱えていることに気づいているの、けれど、私の話が聞きたいことも。

それも下世話な好奇心ではないから、私も話してみたいと思ったの。

どちらの話をしようかしら?」

私は、唐突に切り出され、すっかり準子さんに飲まれていた。

それでも、提案してくれる彼女に乗ることにした。

「では、準子さんの話を聞きたいです」

また柔らかい微笑が返る。

「そうね、そう選んでくれると思ったわ」



そうして始まる、彼女の回想が。

「彼は仕事人間なの。

私の中では彼はまだ死んでないの。

だからまだ過去にはできない」

きっぱりとした口調。

「はい」

「そして、私は、妻として45年彼を支えてきた。誇り高い男の妻よ」

「そう言い切れること、二人の中で積み上げた時間があるのですね」

「そう。でも女として幸せだったかと問われれば、わからないわね」

そういうと、また柔らかく微笑んだ。


その目と微笑を見て決めた。

この人は、強い。

率直で優しい気がした、信頼できる。

私の直感が決めた。

彼女に心を開いてみよう。


「どこから聞きたいかしら?出会い?別れ?

それとも私が彼に感じていたことかしら?

時間がないものね」


私も、率直に返す。

「できたら、ご主人への気持ちを」

「そうね」

そして、一息紅茶を飲むと始まった。


「彼は、いつでも時間に追われていた。

いつもイライラしながら、何か目に見えないモノに耐えているような……

そんな彼に私は側にいる事しかできかった」

「側にいる事。信頼が……」

言葉が続かない、彼女にはまっすぐな言葉しか届かないと分かってるから。


その言葉の続きを準子さんは受け取った。


「そう、心から信頼していた。

優しい人だったの、結婚前は。

けれど、仕事が彼を追い詰め変えていったのね、男の世界はそういうものかもしれないわ。

私は、世間知らずの娘だった、彼の誠実さを気に入り親のすすめで結婚したの。

外に出て一度も働いたことがない、そういう女なの」


私は、ただ答えていた。

「はい、それでいいのではないでしょうか。

女は、惚れた男の為にそう生きることが素敵な事だと思います。

それぞれに与えられた環境は、神様がその人に配ってくれたカードだと思うんです。

どんなカードでも生かしきれればいいのではと」

「そう、やはり、面白い事を考えているのね」



そして、少し思案気にするが聞いてきた。

「この話は、まだ、少し若いあなたの夢を壊してしまうかもしれないわ。

良いかしら? 」

「はい」

「彼は、仕事に押しつぶされないように必死に何かに耐えていたということは話したわね? 」

「はい」



準子さんは決意したように、喋り始めた。

「そう、その何かとは人よ。

そして人がそれぞれもっている正しいと信じている正義。

または正義ではないのに正義だと主張する人間の心。

裁判官として正しい判断を下すには、人の心は汚れていて、あの人は潔癖すぎたのね。

そうして病んでいった」


きっぱりとした口調ではあるが、表情は徐々に憂いを帯びている。


おもむろに聞いてくる。

「あなたは、神を信じているのね? 」

「できたら、あなたの中の神や正義を教えてくれるかしら?

もちろん、難しい事は分かるわ。

あなたの考えが知りたいの」



正直に言うしかない、この人に誤魔化しは効かない。

「私は……、わかりません。けれど、そうだな……、

人が人を裁く権利があるのか、そこからもう既にわからない。

何をもって正義と言うのか、皆が皆正直ではない。

この世は清濁併せ持たないと生きていけない」

「そうね、続けて」

「だから、なにをもって罪を犯したのか。

その背景さえも、その人の心情さえもわかない。

罪を犯した人の背景、なにがその人を追い詰めたのか。

罪を犯してない人はバレないだけではないのか、見えないやり方で加害者を追い詰める事だってあると思うんです」

「そこに、どんな心の動きが隠されているかだと思うのです。

裁くとかは別にして、初めて真実が見えてくる。

それに気づくことで、自分がどう判断するかだと思うんです」


深い深いため息が聞こえた、準子さんを恐る恐る見る。


「そうなの、事件には必ず裏表がある。

その見えない力や、人間の正直さ不正直さを見抜けず判断すると、その人々の人生さえ大きく狂わせてしまう。

そうした重圧が目に見えない力となり彼を追い詰めたの」

「そして、私はそんな彼を見守ることしかできなかった」

「彼は、優しい人よ。

だから人を疑う事が苦手なの。

でも、現実は彼に容赦なく人を疑えと迫る、それは彼には苦しい事なの、とてもね」

「お辛かったでしょうね」

「とても言い表せないわ。

愛する人が目の前でだんだん色彩を失っていくのよ。

どんどん心を失っていく、いつも迷いイライラしている」

「私ときたら、何か悩んでいるのなら話してと迫っていたの。

働いたこともない私、世間を知らない私に彼は言えるはずもなかった」



彼女は自嘲気味に笑った。

「彼を支えるどころか、家庭に安らぎを与えるべき妻が、逆のことをしていたなんて。

今でも後悔が残るわ。

でも、少しでも彼の悩みを軽くしたいと願った気持ちに偽りはなかったの、それが今もつらい」



彼女もまた時の女神が作った時間の檻に閉じ込められた一人なのだ。

時の女神が作る檻には、数多の人間が囚われている。

そう感じた。


深いため息とともに絞りだすように声が続く。

「ある時、彼に懇願されてようやく気付いたの。」

彼女の顔はとうとう苦痛に歪んでいる。

「彼はこう言ったわ、これ以上追いつめないでくれって」

「この一言に私は打ちひしがれたわ。

何より彼の膝を床について崩れ落ちていく姿、そして涙。

愚かしい私、あの時ほど自分を嫌いになったことはない」


そう独白すると、彼女はいったん静思しているようだ。

私はなにか言わなければと、口を開くが声にならない。

何を言っても陳腐になる気がして。


しばらくの沈黙が流れる。

沈黙が重くて、とうとう私は口を開いた。

「私は、うまく言えないかもしれないけれど、神と言う印象についても聞かれましたよね?」

「そうね」


彼女は視線を合わせてくる。

私は、決意するように彼女の心を探すように言葉を放つ。


「私の信じる神様は、時間を操る女神なんです。

何かを心の中で引きずり後悔すると、時間の檻に閉じ込められる。

成長するまでは、ずっと同じ思考と同じ現実を繰り返してしまう。

これが私の考える時間の檻です」


彼女は答えを引き受ける。

「とても変わっているけれど、聞きたいわ、続きを」

「はい、そして、この檻から抜けるには、自分の心と対峙するしかないと思うんです」

彼女は、深く頷く。

「確かにそうね、自分で這い上がるしか方法はないわ」


私は、なおも続ける、酷だとは分かりながら。

「準子さんは、この檻をどう抜け出られたのですか?もしくは、まだこの檻の中にとらわれていますか?」

「とても難しい質問だわ。

抜け出せたともいえるし、まだ囚われているとも言えるわね」


諦めにも、吹っ切れたとも判然としない表情。

心が見えない。


「私は、わからないんです、この檻から抜ける方法が。

自分を好きになりたい、人を好きになりたい、彼を信じていたい。

けれど、時はどんどん進んでゆく」


「私の話を誰かに重ねているのね?」

彼女は優しく見つめてくる。


午後13時の音楽が響いている、休憩時間は終わっている。


準子さんは

「私の話が参考になるかはまだわからないけれど、よかったらいつでも連絡してきなさい。また会いましょう」

そういうと、電話番号を渡してくれた。



私は、弥香にまた今日のメッセージを送ることにした。


「ねぇ、弥香、今日は新たな出会いがあったよ。

皆、自分の生きてきた物語を持っているんだね。

人の縁ほど不思議なものはないと思わない?」



しばらくして、弥香から連絡が返る。

「詳しく情報求む」

軽いうさぎの笑うスタンプ付き。



「また、会ったときに話すよ」

軽い猫の笑うスタンプで返す。



午後も順調に過ぎさり、今日という仕事を終え帰路に着く。



激動の数日だったな、私の人生にしては。

ゆったりバスタブにつかりながら、ぼんやりと思う。

明日は仕事も休みだし、何をして過ごそうかな。

ゆっくり昂のブログを読んでいこう、彼に会いたい。

彼にも伝えたい事が沢山ある。

そう思った。


今は朝の11時、朝と昼一緒のブランチを食べる。

休みの日はやはりゆっくりと朝寝坊をしてしまう。

すっきりと体の疲れも抜けている。



そして、11時30分。

温かいコーヒーを飲みながら、パソコンを起動させる。

メールチェック、特に重要な案件は来ていない。

好きな音楽を選べるサイトに入り、勝手にBGMに拝借させてもらう。

今日の気分は、ノラ・ジョーンズ。

ゆっくりとした朝に、彼女のけだるい声がちょうどいい。



さぁ、準備は整った、彼に会いに行こう。

お気に入り登録しておいた、彼のサイトを覗く。

最新記事から順に読んでいたような。

彼の書く文章は、いつも短め、あまり詳しい説明はないけれど、写真が多く、写真が多くの情報を語っている。

だから、分かりやすいのかもしれない。

けれど、何を考えているのかわからないという印象も与えない。

伝えたいことは、しっかりと短い文章の中に入っているように感じていたはずだ。



「あ、更新してる」

私は、呟いた。

しかも思いの箱の記事だ。


『今日は、ツナ缶ちゃんというリスナーから手紙が来ていた。

最初、彼女が俺だけに秘密を打ち明けてくれたのに、FM放送で彼女の夢を流すことをためらった。


けれど、彼女の夢をどうしても応援したい衝動にかられた。

そして、もう一人の伝えたい人へのメッセージとなっているんだと自分でも感じている。

ここにもよく登場する、大事な友人、謎の彼女へと続いている。


彼女は、まだ書いているだろうか、夢を続けているだろうか。

伝えたい事がある、俺は叶えたよ』


短いけれど、多くのメッセージと想いが詰まっている。


そして、思い出す、彼との会話を。

当時、電話で話したので、記録はこの記憶の中にしかないけれど。


「歌奈、どうして夢を追わないの? 女の子って男とちがって自由なのに」

「自由ねぇ、それは昔の話じゃない?

今は男も女もないよ、今をやり過ごす事だけでも大変だよ」

「歌奈、本気でそう思ってるの?」

「え?」

「それは幻想だよ。

やっぱり男女の仕事に対する意識は明確に違う。

そして責任も、一つの仕事に関わる時間も。

女の子は、夢があれば挑戦できるよ、いつか男と結婚すればいい。

その時は、選べる男のレベルは変わるかもしれない。

でも少なくとも、自分の心に正直に行動するチャンスとセーフネットが男よりは開けていると俺は思うけどな」

「そうだね、確かに女には結婚って道があるよね。

男の人はがんじがらめで窮屈じゃないの?」

「窮屈だよ、物凄く。

けれど、これが現実であり男の世界の一部だよ。

いわば、ピラミッドみたいな階級制度だよ。

従うべき男のリーダーがいて、白も黒もない。

ただ従わなければ、会社、もっと言えば、社会の群れからはぐれて、追放されるんだ」

「歌奈、まだいけるよ、挑戦しなよ、ね?」

「うーん、考えてはみるよ」



この時は、彼の話す内容がピンとこなかった……

けれど、今なら彼の言わんとすることが理解できる気がする。


彼の思いを追い風にどうして走り出さなかったのだろう……

彼は、走ったのに。

走って、走って、ここにいる、彼。


「たどり着いたんだね、昂」

そう呟いた。



このまま思いの箱を読み続けたい。

けれど、いきなり全て読む心づもりがまだできない。

夢から覚めてしまわないだろうか?



それに、気になる。

謎の彼女と言う言葉。

そして、彼もまた私に囚われているというのだろうか。

謎が謎をよぶ。

まるで、幸福な暗号文のようなそんな文章。

または手紙の花束のようにも感じてしまう。



いきなりの核心に触れていくのは、ドキドキしてとてもできそうにない。

やはり、彼の日常を知りたい、今彼はどうしてるの?

そう、私は普通のものを食べながら、好きなものをちょこちょこつまみ食いする女なのだ。



2020年9月13日

つまり昨日の文章を読むことにした。


『今日は、本を読んだ。

最近は忙しくてじっくり本を読む時間もないけれど、そこにはいつも新しい世界が開けているような、どこかの扉と繋がっている気がしてしまう。


内容としては、ミステリーだった。

愛するがゆえに女を殺めてしまう男の物語。

興味があった、けれど、俺にはこの世界観は分かる気がしなかった。

どうして悩みぬいたと言えど、愛する人間を殺すことが出来るのか。

こいつは結局のところエゴイストだと感じた。

彼女より自分をとったんだ。


狂気が彼にその選択をさせた?

保身か?

周りの影響か?

俺には、ここが良くわからなかった。


まぁ、小説の中だけでも苦悩する愛を追随できたから、良しか?

元取らないとね』

にやりと笑う顔文字がついている。



そうだ、ここまで読んで思い出した。

彼は結構お金に関しては、うるさそうな人だった。

私はどちらかと言えば、お金には関心が薄い。

たしか、「シャンプーは一番安いのを買う」と豪語していた。

私は、「ケチだな、この人」と思ったけれど、笑うだけにとどめた記憶がある。




お金がなかったのだろうか?

それもそうだな。

一人暮らしにバイクに、夢に投資していたとしたら、おそらく手元には

あまり残らないだろうな……

今更ながら、彼の小さな癖が可笑しくなる。

そんな些細な事を思い出す時間が愛おしい。

きっと、私は今幸せなんだろうと思う。



まだ、この時間を楽しんでいたいが、そろそろトイレに行きたい。

トイレから戻ると違和感を書き記したノートが気になった。

この前の、やり取りを再び読み返す。


どこが噛み合わないか、なにが違和感を感じさせるのか。

まず絶対に会えない事。

会いたい気持ちがあるのに、どうしてか互いにするっといつも大事な話はすり抜けている。

そして、その後にしばらくの期間があくのだ。

そして、この後は約束の事など無かったかのように冗談や近況の話が続いている。

どう考えても違和感がある。


互いに怖気づいたのか、気を使ったのか。

いや、少なくとも私には違和感があり、会えないことにストレスを感じていた。


今のこの年齢になれば、はっきりと聞いていたかもしれない。

「私と会うつもりあるの?」と。

けれど、当時の私も確かに書いた気がする。

そして、その返事はなかったと記憶している。

けれど、不思議なことにその記録はどこにも残っていないのだ。




まだ続きを読みたいけれど、過去の携帯とノートも気になってしまう。

過去に自分が何を考え感じていたか。

きっと、なにかのヒントや手掛かりが集まるような気がする。



こちらは残っている情報から順に読んでいこうと思う。

2012年から2016年までのやり取り。

そして、手掛かりは私の日記とメモともいえる書き込みたち。

ざっと書き出していこう、疑問や気づいたことを。


殆どは、雑談と軽口。

スタンプや短い応酬が一日に20回位続いている。

けれど、気にかかることがある。

やはり会話が噛み合っているようで、噛み合っていない。

タイミングだろうか。

感性のずれだろうか。


あの説、やはり時間のズレだろうか。

現実的ではないなと思う…

けれど、謎があると昂も書いている。

どう謎なのか確かめたい。


パズルのピースは揃っているのに、手を付ける引っ掛かりが見つからない。

私が迷い込んだ樹海は、思ったよりも深いのかもしれない。

時の女神が、閉じ込めた檻から出なければそこにはたどり着けないと邪魔するのだろうか。

いや、この手掛かりこそが、この檻を抜け出す鍵だとも感じている。

昔読んだ童話、ヘンゼルとグレーテルの物語にあったように、森に迷い込むときにパンくずを目印につけていたのに鳥に啄まれていた話。

きっと、私のつけた目印も森に住まう大きな野鳥にたべられているのかも知れない。

けれど、なんとか手掛かりを探さなくては。



2013年10月5日


「最近、どんな音楽を聴いてるの?」

「そうだなぁ、私基本的に音楽って聴いたり聴かなかったりする。

でも、洋楽や邦楽に関わらず男の人が歌う声が好きだな」

「へー、どうして?」

「言葉は悪いけど女の人の声は高すぎて耳が合わない」

「でも、共感とか歌詞とかちゃんと理解できるの?」

二ヤツイタスタンプ付き。

「当たり前! 昂より理解してるって」

トクイゲナスタンプで返す。



「これはこれは、どう理解したか聞きたいね!」

ウタガイノスタンプ

「誰のどの曲で勝負する?」

ワラウスタンプ

「勝負って時点で違う気がするけど、良いだろう!」

ニヤニヤスタンプ


「じゃあ、お題よろしく!」

ウィンクスタンプ

「え?僕が?」

ワラウスタンプ


「うん!」

キラキラスタンプ

「そうだな、じゃあ、恋愛だな、恋人」

ドウダスタンプ


「さぁ、来ーい」

カマエスタンプ

「いや、だから恋人だよ」

ワラウスタンプ


そこには、恋人と言う有名な恋愛の曲名が書かれていた。



「よっしゃ!聴いてくる、15分後に勝負!」

マカセロスタンプ


「え?早くない?15分?」

アセルスタンプ

「既に勝負は始まっている!先手必勝!」

ニヤニヤスタンプ



この曲を実は私は知っていた、よく聞いていたから。

だから、ドキッとしたことは内緒にした。

だって、昂には忘れられない人がいるから。

気持ちが溢れたらどうしようと思いながら、感想を書いたことを思い出す。


最初に昂と連絡が取れなくなった後にすぐ流行った曲。





恋人


空から粉雪が舞い降りてくる

もう君はいないのに

あの日、君は雪に足跡を残して僕の前から去っていった

僕だけはまだ君の面影に縛られている。


出来る事なら、あの日君を止めるところからやり直したい

どんなことと引き換えにしても

君を大事にすると今なら誓える

どんなことと引き換えにしても

君を守ると今なら誓えるのに



あの日、君を引き留めることが出来なかった

君は今どうしているの




この歌詞を前にして即答型の私にしては、何を書くか迷った。

まだ、私の気持ちがバレるのは防ぎたい。



15分後。

「当たり前だけど、これは失恋ソング!

彼は彼女に未練があると思っているけれど

本当はないんじゃないかな?

だって、送り出しているんだもん。

幸せを祈った曲だよ」

ウンウンスタンプ


「まず、本当に15分後だな!」

バクショウスタンプ

「そして、なんつー浅い解釈だよ!

歌奈がモテないのはその辺だな!」

ニヤツキスタンプ

「そうか、じゃあ昂はどう思うのか?」

ハテナスタンプ


「僕は、過去にはできない気持ちだと思う。

まだ、愛してるんだよ、深く」

ウンウンスタンプ

「フーン」

フーンスタンプ

「フーン?歌奈にはまだまだ早いな。

勝者は間違いなく僕だな!」

カチホコリスタンプ



懐かしい、どっちが子供よ……

今になれば、分からない。



ただ、今この曲の解釈を、

28歳と29歳になった私たちはどう解釈するだろう……


ふと、悲しくなった。

幸せと同時に虚しさがやってくる。

幸せであればあるほど、その高さからの落下が気にかかる。

心配になる。

この樹海の深さが。



どうして、人間には相反する気持ちが与えられているのだろうか。

会ってどうすると言うのだろう?

そもそも、彼は望んでいるのだろうか?

今は分からない。

これ以上、今は気分が乗らなくなってきた。





気分を変えよう。

せっかくの休みなのだから、遊びに行こう。

そう思うと、ドライブに行きたくなってきた。

空いた道をギリギリの速度で走るのが好きだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る