第16話 凪
昼休み。クラスメイト達が昼食のため、友人と連れ立って教室を出ていく。
「だりぃ……」
伊予原は一人、机に突っ伏していた。
例に及ばず空腹ではあるのだが、何か食べようという気力がわかない。
それというのも、昨日、あの奇妙な世界に入ったせいである。
だが途端、怪異に出くわし、尻尾をまいて逃げ出す結果に終わった。
「ねみぃ……」
情けない話、昨晩はまるで寝られていない。要するに寝不足なのだ。
「伊予原くん」
その時、聞き慣れた声がかかり、反射的に身を起こす。
「ひ、氷澄……」
目の前には、ある意味原因となった当人――氷澄ネレがこちらを見下ろしていた。
「な、なんだよ。何か用か?」
「おおむねそう」
言って突き出したのは、なぜか両手いっぱいに抱え込んでいる、購買のパンの一つだ。
「伊予原くんの好みとか、分からないから適当に買った。……あげる」
焼きそばパン、カレーパン、サンドイッチ――種類は様々。思わず生唾を呑み下す。
「い、いや……くれるんなら嬉しいけど、なんで? 奢られるような事、してねーけど」
「ん……お詫びというか、埋め合わせというか」
ネレは唇をもごもごさせ、ばつが悪そうに顔を逸らす。まったく何の事だか分からない。
「ま、まぁ分かった。もらうよ……どこで食おうかな」
窓から外を見ると、空は晴れていていい天気だ。自然と候補地が絞り込まれる。
「よし、屋上行くか。氷澄はどうする?」
ネレは少し考えるような素振りを見せたが、頷きを返し。
「私も……行く」
ネレとともに、教室を出る。
三つ階段を上がり、突き当たりのドアを開ければ、一条の陽光が射し、目を細める。
金網フェンスに囲まれ、給水塔が佇立する屋上は、生徒達にとっても人気のスポット。
今日も今日とて、昼食をいただく生徒の姿がまばらにあったが――。
彼らは伊予原とネレが現れ、そのまま踏み込んで居座る様子を見せるなり、遠巻きにしながらそそくさと出ていってしまう。
「……へっ。静かで落ち着く雰囲気だよな」
わずかな時間ですっかりひと気のなくなった広い屋上に、涼しげな風だけが吹く。
フェンスの側へ行き、校庭を行き交う生徒達を眺めながら、伊予原はわしづかみにしたホットドッグを、口いっぱいに頬張る。喰らう。
「うめぇ……五臓六腑に染み渡るっての? パンありがとな、氷澄」
ううん、とネレは焼きそばパンを両手で持ち、もきゅもきゅと食べ進めている。
口元が全然汚れず、音も立てず、なんというか品のある食べ方だ。
(やっぱ……可愛いよな。氷澄)
顔立ちは整っており、すらりとしたスレンダーな体型。声も綺麗で、気高さを感じる。
吸血鬼らしいが、種族全体に見られる傲慢さや、他者へのマウントなどは一切ない。
クールで感情薄めな佇まいではあるものの、口数は普通に多いし、話していて楽しい。
(しかも、今は学校のために、たった一人で頑張ってる。こんないい奴を、なんでみんな嫌うかね……)
「……どうかした?」
伊予原のぶしつけな視線に気づいたか、ぼんやりと校庭へ注がれていたネレの目が、こちらへ向く。
「え、あ、いや、別に。……そうだ、七不思議――六不思議だっけか? そっちの件はどうなったんだ」
「……もう少しかかるかも」
まだ解決までの目途が立っていないのだろう。こちらも思わずため息をついてしまう。
「そっか……まぁ、簡単にどうにかなったら、もっと前に誰かがやってるか……」
「でも」
ネレは再び校庭へ向き直る。心なしか、声音に力を込めて。
「あの子達は、きっと悪い事しないよ」
「……そうなのか?」
「うん。できるなら、もうそっとしておいてあげて欲しい」
柔らかくも、憐憫を含んだその口調。
「なんか……お前、変わったな」
「そう、かな」
「前はさ……確かに六不思議に近づくのが目的だったけど、それはあくまで取り入って、ナントカ言う事を聞かせたいって風だったのに」
「かも……ね。でも、今は……こっちの意思を無理に押し付け続けるのはなんというか……違う感じがして」
ネレはかぶりを振る。
「――ごめん。うまく説明できない、かも」
「けど、氷澄。六不思議の秘密を明かさないって事は、お前は今後も一人のままだぞ」
再び、風が吹き抜けた。
伊予原とネレの間に、校庭で騒ぐ生徒達の歓声が響いて来る。
「……我慢する」
長い、沈黙ののち。
ネレは俯きながらそう、一言を吐き出した。
「それに真相を明かした所で、本当に状況が変わるとは限らないから」
続けた言葉は、むしろ自分へ言い聞かせているみたいに、伊予原には聞こえた。
「そっか……」
「それに、一人じゃないよ」
「なんで」
「伊予原くんが話してくれるし」
「おあぁっ……!?」
無表情で口にするネレに、伊予原は首が熱くなる。すっとんきょうな声も漏れた。
動揺をごまかすため、残りのホットドッグを放り込み、ボトルのお茶で一気に飲み下す。
「しかし、転校初日のさ。氷澄が見せたあの魔法、凄かったよな」
「なんだっけ」
小首を傾げるネレの顔色は、まるで変わらない。素でああいう事を言える奴なのだ。
「血で翼みたいなの作るやつ」
手でかっこを作って見せる。命をかがり火にくべて燃やすような――それでいて美しく形作られたあの翼は、数日経ってもいまだ鮮烈に印象へ焼き付いていた。
「あれ、消費が激しいんだよね。怪我もあったけど、主にそのせいで倒れちゃった」
「へぇ……」
怪我といえば、ネレは今日も傷を負っている。頬に湿布を貼っていたり。
(氷澄って、いつも生傷が絶えないよな……)
通常の吸血鬼のイメージと、やはり違う。親しみやすく、それでいて少し泥臭い感じ。
「伊予原くんって」
と、今度は珍しく、ネレの方から話を振ってきた。
「将来の夢とか、あるのかな」
「んー? いや、普通に親父の稼業、継ぐのかな……漠然としてら」
「私は……まだない」
ネレはどこか遠くを見るみたいに、懐かしい何かを思い起こすように、空を仰ぐ。
「……ううん、前はあったけど、なくなっちゃって。でも、最近……新しくできた」
「どんなの?」
「どうしても、勝ちたい人がいて。何度も、負け続けだから……」
ぎしぎし。この場にそぐわぬ異音に気づき、はっと我に返る。
「何度も、何度も……」
フェンスが揺れ、軋みを上げていた。風のせいではない。
先ほどからそこに手を添えているネレの手に、青筋がいくつも浮いているではないか。
「何度も何度も何度も何度も……っ」
「お、おいおいフェンス傾いてるって! 落ち着け氷澄! 手ぇ放せ!」
慌てて肩を叩くと、いつの間にか虚ろだったネレの双眸に、光が戻り。
「――あ、ごめん」
「い、意外と負けず嫌いなのか? 氷澄って」
「そんな事ないよ」
「それに……多分、その夢って六不思議関連だろ? 大丈夫なのかよ、一方的に暴力受けてる空気が漂ってるぞ」
「平気。手応えはあるから。……次は勝つ」
台詞の最後の方で声が低くなり、ちょい怖い。
「――ん?」
その時、校門に人が集まっているのが、視界の端にひっかかる。
警備員と教師が数人、門の前に立ち、二人組の男と相対していた。
物々しい雰囲気で、男二人はしきりに大声を発し、校庭へ押し入ろうとしている風。
「おい、氷澄、あれ……」
隣のネレに教えながら、男二人の風体をよくよく見直す。
一人はワックスか何かで赤髪をツンツンに固めたスカジャン、もう一人はヘッドギアに柔道着という特徴的な格好だ。
「あいつら……前に見た記憶があるぞ」
そうだ――ネレの転校初日、学校を襲撃した『シルバーブレット』で見た顔である。
「また、因縁をつけに来たのかな」
「どうだろな……揉めてるようだけど、それだけだし」
ほどなく、二人組は踵を返し、乗りつけていたバイクで走り去っていく。
「おお、帰ってくれた。何事もなくて良かったな、氷澄?」
けれど、ネレは答えない。
無反応っぷりが気になって目を振り向けると――吸血鬼少女は何か、嵐の到来の予感を覚えているかのような、いかめしい表情を浮かべていた。
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