第13話 鏡の少年
唐突に光景が暗転したかと思うと、ネレの意識はひっぺがされるように浮上した。
「え……?」
そこは音楽室。先ほどまでと同じ位置で、ネレは突っ立っていた。
今のは、一体。懐かしい曲を聞いたためか、白昼夢の如く過去を思い出していたか。
でも、それにしてはあまりに現実感があった。情景、匂い、そして姉の声――全ての要素がネレの五感へ訴え、本当に昔へ立ち返っていたかのような。
キョータはネレの変化など意にも介していない風に、変わらずピアノを弾き続けている。
――昔、色々あって、キョータは言葉を話せないのだ。
生徒会室での自己紹介の折、そんなノクターンの台詞が思い出される。
その理由は分からない。何かの病気か、精神的なものか。
いずれにせよ、キョータと会話をするのは難しいだろう。
にも関わらず、ノクターンはキョータを授業相手として選出した。
適当に選んだのか、否――キョータもその決定に対し、反対している様子はなかった。
つまり、裏を返せば。
キョータはすでに、授業を開始しているのではないか。
そして、言葉を発せない代わりに、別の方法でネレへ、何かのアプローチをかけている。
「……音楽……」
ふいに、そんな閃きがよぎった。そしてこれこそが正解なのではないか、という確信も。
ネレは音楽室を見回し、丁寧に仕舞われていた楽器の中から、フルートを取り出す。
「……いつぶりかな。この曲に合わせるの」
二年前の、あの日が最後だ。そんなに昔でもないのに、ずっと遠い景色みたいに感じた。
横に構えたフルートへ唇を当て、吹き始める。
最初はぎこちない響きを、指先一つ一つの力加減で調整し、理想の音へ近づけていく。
美しいピアノの音色に、自らの調べを羽根のように乗せるセッション。
二つのメロディが踊るようにまじりあい、重なり合い――二人の演奏は一体となる。
(……まるで本当にそこに、姉さまがいるみたい)
ふと、先ほどと似た感覚が、ネレの意識へ纏わりつき始めた。
ただし今度は、内側へ引き込まれるような感じではなく、外側のキョータの方へ引き寄せられるような、これまた不思議な心地。
(あの頃はただ、あの背中を無邪気に追っていれば良かった。……でも、今は……)
ネレは、長い渡り廊下を歩いていた。身体も自由が利かず、ひとりでに動いている。
視点の高さはまたしても低く、周辺は屋内である事以外見知らぬ場所。
軽い足取りで踏みしめる板張りの床は小さな軋みを立て、酸味と苦みが攪拌されたような、古めかしく独特な香りが嗅覚を刺激する。
廊下に面し、塀に囲まれた中庭が見えた。敷き詰められた砂利石、丸い生垣、石灯籠。
鯉の泳ぐ池には漆塗りの橋が緩やかに架かり、奥には大きな松の木がそびえていて、この庭の風情と壮麗さを醸し出している。
空は曇りだが、明るさ的に昼頃だろうか。庭越しの反対側にも渡り廊下が伸びていて、さらに向こうには母屋らしき長い瓦屋根が覗く。
視界の端にはこんもりと生い茂った山々が映り込む。どこか人里離れた場所に建てられた、歴史と品格ある古邸なのかも知れない。
恐らくは東洋の建築様式。だけれども、ネレはこのような所に来た記憶はない。
では――これは、ネレ以外の別の誰かの記憶で、それを追体験しているのだろうか。
普段であれば荒唐無稽な考えだが、不思議と異論が湧いてこない。
その時、廊下の曲がり角から、調子っぱずれな鼻歌が聞こえてくると、どちらかといえば俯き加減だった視点が、急激に跳ね上がる。
その鼻歌に、ネレは聞き覚えがあった。姉が。そしてキョータと演奏した。
――次いで、一人の人物が腕組みをしながら歩み出て来る。
「……お姉ちゃん!」
視点の誰かが、喜色を帯びた声を上げた。子供のようだが、聞き覚えがない。
曲がり角の人物が振り向く。その顔を、ネレは知っていた。
「ノクターン……?」
右腕に包帯こそ巻いているものの――黒マントを羽織っておらず、ラフなノースリーブ姿と服装はだいぶ違うが、短い付き合いでも印象に残る鮮やかな髪色や意志の強そうな双眸は、間違いなく彼女のものである。
ちなみに、驚きゆえにネレが発した言葉は、この世界の誰にも聞こえていない風だ。
やはり、誰かの――この視点の人物の、追憶という形で間違いないだろう。
どことなく硬い表情だったノクターンは、こちらに目を止めるや、腕組みを解いて相好を崩し、笑顔を見せた。
「おお、キョータではないか! 久しぶりだな、もう来ていたのか! 元気だったか?」
相変わらずよく通る声であるが、それ以上に、ネレは三重の理由で驚かされていた。
ノクターンが応えたのは、間違いなくこの視点の人物。
すなわち、ネレが見ているのは――キョータの記憶という事なのか。
けれどキョータは、鏡の中にいない。恐らく、現世に実体として存在している。
さらに言えば、現在のノクターンの話だと、キョータは喋れないという事だった。だが。
「うん! お父さんとお母さんも元気だよ!」
この声の正体は、紛れもなくキョータのもの。
少し舌足らずだけれど、少年らしく活発で、ノクターンに対する親しみの色がある。
視界がぱたぱたと小刻みに揺れながら、小走りにノクターンの方へ近づいていく。
「そうか……遠くからよく来てくれたな。長い車旅で疲れたろう。魔法会合までは時間があるから、今日はゆっくり休んでくれ」
ノクターンも屈託ない笑みを浮かべて手を伸ばし、キョータの頭を撫でた。
やや雑に撫でつけているものの、感覚を共有しているネレからしても、なんとなく安心できる温かさが感じられる。
「ねぇお姉ちゃん、ピアノ使わせてもらってもいい?」
「ああ。部屋の鍵は開いてるから、好きに出入りしてくれていいぞ」
「やったぁ!」
ぴょんと視点が一度跳ね上がる。軽くジャンプし、喜びを全身で表現したのだろう。
「我も後で立ち寄らせてもらおうか――キョータがどれくらい上手くなったか」
「すぐ来てね! 前よりうんとうんとすごくなってるから!」
「ファーハハハ! それは楽しみだ! キョータは本当に音楽が好きだなっ」
そんなこんなで、和やかな会話が交わされて。
――一瞬、景色にノイズが走った。ノクターンの後ろから、人影が現れる。
「……ここにいたのか」
低く言葉をかけてきたのは、黒い外套を羽織った大人の男であった。
キョータの視点が低く、逆光である事も手伝い、見上げても顔がよく見えない。
「……これは父上。準備の方、お疲れ様です」
と、ノクターンが振り返り、会釈をする。
その一瞬だけで、キョータに向けていた人好きのする微笑みは消え、先ほどのような素っ気ない、冷たさすら感じる表情に変わっており、声色も無機質なトーンへ落ちていた。
「明日には、各界の重鎮が訪れるのだ……我が娘として気後れせず、恥じる事のない対応をしろ」
「分かっております。例え魑魅魍魎の宴が始まろうと、料理ごと皿ごと全てを喰らい尽くして御覧に入れましょう。何せこの身は闇に魅入られし、呪われた宿命の贄であるゆえ」
「それをやめろと言っているのだ。いつまで子供気分でいる」
男は心なしか、うんざりしたように溜め息をつく。
「えー? でもノクターンお姉ちゃんのこうゆうところ、みんな好きだよ?」
思わず、といった調子でキョータが口を挟む。
すると男は、キョータの方へ半身を振り向けた。
「……食伏のせがれか」
刹那。頭が割れんばかりの激痛が足の先から脳天までを貫く。
「まさか――この私が、人望においてこの――劣るとでも――つもりでは――」
ノイズが鳴りやまず、脳を削られる。会話がぶつ切りに聞こえ始め、耐えきれな
い。
「で、でも、――家の人たちも、――さん達も、お姉ちゃんの方が好きって言――」
「あまりキョータを怖がらせるのは――下さい、父上――」
ネレの意識は鉈でぶった切られるように引き離され、暗転していった。
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