第12話 陽だまりのエレーザ

 午後十時。いよいよ最後の授業だ。

 長かったような短かったような不思議な感覚。

 ただ共通しているのは、とても疲れた――という一点である。

 最後の授業相手は、もちろんキョータ。ノクターンの放送によれば、音楽室が彼の『部屋』らしい。


 初日の出会いや服装、演奏技術から、なんとなくさもありなんという気がした。

 思えば、キョータの演奏に魅入られたために、トラップによる不意打ちを受けたのだ。


(六不思議の防衛においても、そういう役どころなのかも)


 無人と思われた校内に響く、美しい音色。侵入者が芸術というものを理解しているにしろそうでないにしろ、まず無視はできない。必ず様子を見に行きたくなるはずだ。

 つまり、侵入者の行動をある程度操縦できる。その隙に他の六不思議が仕掛ける――。


「よくできてるなぁ……」


 ネレもまた、見事に手管へハマったのだ。思い返しながら、音楽室の前へやって来る。

 わずかに開いたドアの隙間からは、昨日と同じくピアノの音が漏れていた。


「……キョータ? いるの……?」


 今度は名前を呼んでみるも、やはり応答はない。とはいえ、イズルのように問答無用でトラップで攻撃される事がないのは分かっているため、普通に入室させてもらう。

 やはりキョータは、音楽室――厳密には、鏡の中の音楽室にいた。

 今回は照明がついているので、その姿がより鮮明に見える。

 上着を外したブラウス姿ではあるが、ピアノの前に座り、黙々と鍵盤を弾いている様子も変わりない。

 再び声を掛けるが、世界へ入り込んでいるのか、授業もネレの存在も完全に意識の外。

 むしろこちらが邪魔しているみたいに感じてしまうが、引き下がるわけにはいかない。

 演奏が終われば話を聞いてもらえるだろうか。そう思って口を閉ざし、待つ。

 待つ間にも、曲は進み続けている。昨日のものと同じだ。キョータのお気に入りなのだろうか。


(……やっぱり、姉さんと同じくらい上手いな……)


 ふと脳裏に、温かな微笑みが思い出され、無意識にまぶたも閉じてしまう。

 閉じた視覚の分、より意識が鋭敏になる。暗闇を漂う思考の代わりに、鳴り響く音が躍り、次第にネレ自身と一体化していくような感覚があった。

 まるで手を引いて導かれるみたいに、現実との境が崩れ、溶け合い。

 渦を巻く常闇の先から、少しずつ、懐かしい思い出の情景が見えて来る――。




 うららかな春の陽気。雲一つない、抜けるような青空。

 暖かさを帯びたすがすがしい風が吹き抜け、一斉にそよぐのは瑞々しい芝生の絨毯。

 左右対称に形作られた青々とした生け垣が小さく揺れて、咲き誇る花のアーチに止まる小鳥達が飛び立っていく。

 鮮やかに彩られた牧歌的な庭園に、白いテラスが一つ。

 日よけの傘とテーブルを置き、ティーカップを手に腰掛けているのは、一人の少女。

 身体の線は細く、肌も磨き上げた大理石のように白いため、儚げな雰囲気を纏っている。

 つば広の羽根帽子から流れるのは、背中まで伸びた淡いブロンドの髪。

 その視線は手元の本のページへ落ちていて、時折瞬くのは、深海を思わせる濃い青の瞳。

 紫を基調としたフリル付きのワンピースと白いサテンの長手袋は、スマートな姿勢や落ち着いた佇まいもあり、淑女然とした気品を引き立てていた。

 ネレは気づくと、庭園への門を抜け、頼りない千鳥足で、その少女へ近づいていた。

 自分の意思ではない。勝手に身体が動いている。けれどなぜか、さほど違和感がない。

 少しばかり、視点が低い気がする。歩幅も狭い。まるで身体が小さくなったみたいだ。

 少女がネレの足音に気が付いたのか、ふと本を閉じて目を上げ、こちらを見る。

 ネレは口を開いた。といっても喋っているのは実際には、今の――思い出の中のネレだ。


「姉、さま……」


 呼びかけた少女の名は、エレーザ。ネレの実の姉。


「あら、ネレ。帰って来たのね……どうしたの」


 エレーザの声色は、歌姫が発するかの如く耳に心地いい。ネレは右腕を上げた。


「怪我しちゃった……」


 指という指は折れ曲がり、爪は残らず剥け、二の腕から肘に至るまでの関節もねじれ、所々から骨が飛び出している。


「け、怪我って……あなた、そ、それ……っ」


 エレーザはびくりと二度見するなり、椅子を蹴倒して立ち上がり、全力で叫んだ。


「ええぇぇぇぇーっ!?」




「とても困惑しているわ。一体何があったのか教えてちょうだい」


 数分後、ネレはエレーザの隣に座り、砕けた腕をテーブルへ乗せていた。


「今日は朝から、友達と一緒に出かけたの。裏山の崖の方まで」

「へえ、崖まで……」


 淡々と相槌を打つエレーザは、ネレの腕に手をかざしている。

 手の先からは光があふれ、少しずつ腕の傷が修復しつつあった。

 己の血を消費して対象の血肉を再生する。姉がもっとも得意とする、癒しの魔法である。


「裏山の崖は切り立っていて危ないから、近づかないように、お父様や先生、ついでに私も口を酸っぱくしていたと思うのだけれど」

「言われた」

「なら、ほんの少しでも、危ないとは思わなかったのかしら?」

「その時はいい考えに思えたの。宝が見つかれば、みんなに褒めてもらえるかと」


 ネレは姉と目を合わせられず、ずっと斜め下へ視線を逃がし、言い訳を連ねるしかない。


(確実に、本気で怒ってる……)


 姉は誰かを叱る時は甲高い声を発するが、逆にただ純粋に怒りをたたえている時は、ひたすら静かになるのである。


「そのために、友達まで危険にさらしたって、自覚はある?」

「あるよ。二人とも、崖から落ちそうになったから」

「ふーん……そうなのね」


 姉の声音が、また一段下がった。崖から落ちた時より冷たいものが背筋を這う。


「この怪我は、その時に?」

「あの……断っておきたいんだけど、友達には一切怪我はないよ? わ、私が代わりに引っ張り上げて助けたから……代わりに岩に叩きつけて腕、ぐちゃぐちゃになったけど……」

「もし私がここにいなかったら、どうするつもりだったの」

「……ど、どうしよう……」


 その発想はまったくなく、情けない声が出てしまう。

 庭園の奥には、純白の大きな屋敷がそびえている。ここ――メレスティンを治める領主、ラレス・アザー・ツァリアの邸宅。すなわちネレの家だ。

 裏山は家と近いし、体の弱い姉は基本的に外出しない。

 そしてネレは、姉の魔法の腕を信頼している。

 とりあえず戻れば、治療してもらえると楽観視していたにすぎないのだ。


「きゅ、吸血鬼の身体は、治りが早いから、別に姉さまがいなくても……」

「そう。それなら回復するまでずっと、痛みに耐えていなきゃいけないわけね。お気の毒」

「あの……ご、ごめんなさい」


 白旗代わりに、ネレは素直に謝った。


「今回は許してあげるわ。でも次は治すべきかどうか、悩んでしまうかもしれないわね」

「ごめんなさい。もうしません……」

「――でも」


 と、そこで、エレーザは固い表情をふんわりと和らげる。


「友達を助けたのは、とても素晴らしい行いだわ。頑張ったわね」

「……うん。――うん……!」

「でもホント、無茶はやめてちょうだいね。確かこの前も、上から落ちて来た工事現場の鉄骨から野良猫を守ろうとして、下敷きになったじゃない。寿命が縮んだわ」

「……後悔はしてないよ。守りたいものは守れたから。けど……」


 ネレは俯く。


「私がもう少し、強かったら……姉さまにも、父さまにも、心配をかけずに済むのに」

「ネレ……」

「遺伝子改造手術さえなければ、私ももっと、強かったのかな」


 それは、とエレーザは呟き――風になびく花壇へ目を移す。


「……悪い事だけではないわよ。例えば私って、生まれつき身体が弱いじゃない」

「うん。吸血鬼だけがかかる難病なんだよね。一生付き合わないといけない」


 昔の姉の、弱り切った様子を思い出すと胸が痛む。

 病にかかる前は、ネレなどよりよほど魔力も高くて、才能があったはずなのだ。

 なのに生命維持装置につながれ、ベッドから一歩も出られず、話もできないほどで。


「でも、吸血鬼の因子が改造手術で弱められたから、病の影響も軽減されて、ある程度は好きに動けるようになった。弱点もなくなって、こうして太陽の下にもいられるのよ」


 確かに、そうかも知れない。こうして姉といつも一緒にいられて、普通に話せるのも。


「吸血鬼という種は手術のせいで、本来は受け取れるはずだった多くのギフトを失ったかも知れないけれど……少なくとも、私は感謝しているわ」

「そっか……」

「さぁ、完治したわ。もう大丈夫のはずよ」


 エレーザが手を引いて、ネレは自分の腕を曲げたり振ったりして、具合を確認する。


「……うん、ばっちりだよ。ありがとう、姉さま」


 と――そこでネレは、姉がテーブルの横に置いていた本を取り上げるところを目にし。


「その本って……魔法についての参考書?」

「そうよ。将来に向けて、勉強中なの」

「姉さまって、もうランク3なのに……まだ知りたい事があるんだ」


 魔法を使用するためには、まずニーメゲル魔法局で試験を受け、魔法ライセンスを取得する必要がある。取得後、希望する魔法へ申請を出し、初めてレンタルが可能となる。

 発行された魔法ライセンスには0~3までランク付けがされており、それはそのまま術者の実力を示す。ランクが高いほど魔法の効力も上がり、取得できる範囲も広くなるのだ。

 ランク0~1は初級者。料理や掃除など、生活の補助となる簡単な魔法のみにとどまる。

 2は熟練者という扱いで、ネレは護身術を覚えるとともにこのランクも得ていた。

 3は最上級ランクという事もあり、政府など公的機関や専用職に招かれ、働く者も多い。


「私、魔法が好きだから……魔法局で働きたいの!」


 エレーザは開いた本へ目を落としながら、少し声を弾ませた。


「魔法局で……?」

「あそこなら、身体が弱くても、魔法が上手くて知識があれば仕事があるじゃない」

「でも、姉さまはゆくゆくは、この家を継ぐんだよね……?」

「魔法局はテレワークもオーケーだから。当主として部屋で優雅にくつろぎながら、副業に趣味の魔法研究へ勤しむ……最高の生活よね!」


 エレーザはインドア生活が長いからか、こういった、家でもできる様々な事柄について詳しい。ネレは素直に感嘆の声を漏らした。


「ところで、ネレはどう? 何か夢とかないのかしら」

「夢……」


 顎を引き、考えてみる。


「夢は追いかけるものじゃなくて、見るものだよ」

「お姉ちゃんが打ち明けたんだから、観念して教えなさいっ」

「毎日食っちゃ寝して過ごす……」

「向上心のある夢じゃないとダメでーす! お仕置き魔法よ! ――輝け、赤光しゃっこう!」


 エレーザの片手から、血を粒子化させた極小のビームが発射され、顔面へ浴びらせれる。


「うわああ。熱湯に浸かったくらいの熱さと、小さな波をかけられたくらいの衝撃力がー」


 もっと真剣に思いを巡らせてみるが、これが意外と、本格的に思いつかないもので。


「私と違って、あなたは自由なんだから。この家を……メレスティンを出たって構わない」

「メレスティンを……」

「我が身を顧みず他者のために力を振るえる所は、姉としては心配だけれど、十分に美徳なのだと思っているわ。家名に縛られるよりも、もっと大きな事ができるかも知れない」


 この時の姉は、ネレを通して遠くの何かに憧れる風な、言いようのない眼をしていた。

 けれど、ネレにとってはどうにもぴんと来ない。――強いて、望みがあるとすれば。


(こんな日々が……ずっと続いたらいい)


 大好きな姉と。尊敬できる父と。仲良くしてくれる使用人のみんなと。


「私は……姉さまの、手伝いがしたいな」


 元気そうに振舞っていようと、その身を蝕む病は本物だ。

 なら、ネレが当主になった姉を近くで盛り立て、無理をさせないようにすればいい。

 そうしたら、ずっと一緒にいられる。自分で考えたにしては、いいアイデアに感じた。


「そう……それはとても嬉しいけれど。それなら一緒に、魔法の勉強でもする?」


 ネレはちらりと、姉の持つ本のページを盗み見る。

 ――とてもランク2の自分如きでは、ついていけないような難解な内容だ。


「え、遠慮する……」

「って、あら、もうこんな時間ね」


 エレーザは屋敷の時計を見やると、本を閉じて席を立つ。ネレもふと思い出した。


「姉さま、午後からはピアノの練習なんだっけ」

「そうよ。コンクールはもう間近だもの、ここが踏ん張りどころね」


 姉は病のせいで運動がほとんどできない代わり、ピアノや手芸といった芸術面での才能を磨き、開花させていた。

 本人の勤勉さや洗練された礼法も手伝い、幼少期から様々な賞を受賞している。その途中で多くの先達と知り合い、弟子もすでに何人か持っていて、各方面との繋がりは強い。


 対して、ネレはといえば――取り立ててそういう活躍はない。

 何の展望もなく、毎日、町へ繰り出して、仲の良い友人達と遊び回っているくらいだ。


「あの……私も一緒に、演奏していいかな」

「あら。勉強嫌いのあなたが、今日はどういう風の吹き回し?」

「別に……二人でやった方が、効率いいかも知れないし」


 エレーザから面白そうに見られ、ついと顔を逸らす。


「私のピアノ、最近はめきめき上達しているから。合わせるのは、並大抵じゃないわよ」

「望む所」

「ふふっ……ネレは本当に負けず嫌いね」


 こんな日常が、いつまでも続いたらいい。何も変わらなくたっていい。


 なのに姉は、今日を境に、突然病状が悪化して――。

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