第4話 無人ピアノ

 辿り着いたのは、音楽室。半分程開かれたドアの隙間から、ピアノの音が漏れ出ている。


「誰か、いるの……?」


 ドア越しに呼びかけたが、反応はない。

 他者の介入など意にも介していないみたいに、曲は奏で続けられている。

 そこで、ふと昔の記憶が呼び起こされる。この音色。ネレには聞き覚えがあった。


(昔、姉さまが好きで、よく弾いてた曲だ……)


 ぬくもりのあるバラード調で、聞く者の心を落ち着かせるメロディ。

 世界的にも有名なワホン人の音楽家が作曲したもので、当時のメレスティンではちょっとした流行りにもなっていて。

 姉もよく、自室のピアノで鼻歌交じりに、この曲を弾いていた。

 ネレは近くの椅子に座り、サテンのカーテン越しに射し込む穏やかな日差しを浴びながら、そんな姉の後姿を眺めて。

 時々、自分もピアノを弾かせてもらったり、お菓子を食べながら他愛のない話をして、笑い合って――のんびり過ごすのが大好きだった。


 今はもういない、姉の事が大好きだった。


(姉さま……)


 湧き上がる寒々しいものから意識を逸らそうと、ドアへ手をかけ、開く。

 音楽室には様々な楽器が並んで置かれていた。どの楽器も、一目見ただけでよく手入れがなされているのが分かるほど、美しい輝きを宿している。

 壁には著名な音楽家達の肖像画。下の棚には楽譜が整頓され、しまわれている。

 椅子が並ぶ奥側には――大きなグランドピアノ。

 椅子には誰も座っていない。ただ鍵盤だけがひとりでに鳴らされ、一つの曲だけを延々と流し続けている。

 高笑いや背後の視線とは異なる、決定的な怪奇現象を、ネレは目撃していた。


「誰もいない音楽室で、響く音色……」


 前情報があったゆえ、そこまではむしろ、予想しえていた展開であったのだが――次に視界に入って来たものを見て、ネレはぽかんと口を開けて固まった。

 本来、黒板のあるべき場所に、鏡が張ってある。今までに見かけた鏡よりも、遥かに大きなサイズ。それこそ、音楽室のほとんどを収めてしまえそうな。

 そして、その鏡の中。ちょうど鏡に映ったピアノの前で。

 蝶ネクタイ付きの子供用黒い燕尾服に身を包んだ一人の少年が、流麗な手つきで鍵盤を叩いている。

 年の頃はネレよりも一回り低そうで、小学生くらいか。よほど曲に入り込んでいるのか目を閉じ、白いふわふわした髪を振り、全身でリズムを取りながら演奏を続けていた。

 口元は上機嫌そうな微笑みを浮かべている。無我夢中、といった風情だ。

 ネレはしばし、その様子と、音楽との二つに見とれ、聞き惚れていた。

 淀みがなく、何より楽しいという感情がダイレクトに伝わり、心を揺さぶる調べ。

 まるで百年もの研鑽と探求の果てに極みを見出したかの如き、作り出される美しい世界。


「くすくす……」


 囁きにも似た、小さな笑い声が意識を撫で、我に返りかけた矢先。

 突然片方の足首に何かが巻き付き、強烈に引っ張り寄せて来た。

 声を上げる暇もなく体勢が崩れ、受け身も取れず顔面から床へ転倒。

 とっさに足を跳ね上げて後ろの空間を蹴るが、何の感触もない。

 その間にも足首もろとも後ろへ引きずられ、ネレはどこか、別の教室へ引き込まれた。

 暗い。カーテンで閉め切られているのか、外のわずかな光すら入って来ない、完全な暗闇の部屋だ。

 混乱しながらもようやく立ち上がる。どうやら足首に巻き付いていたのは、ロープで結ばれた輪っかのようだった。

 外していると、周囲で空気の抜けたみたいな音が連続し――視界が真っ白になった。


「な、なに……!?」


 途端、喉に何かが詰まり、上げかけた声が途切れる。白い何かが、そこかしこで吹き上がっていた。

 微細な粒子が呼吸とともに吸い込まれ、息が苦しい。

 身を屈め、床をまさぐると、何か硬く、柔らかいものが指先に引っかかる。

 拾い上げて間近で確認すれば、それは黒板消しであった。周りにも、多数の黒板消しが散らばっているようだ。

 つまりこの煙は、黒板消しが落下するか投げ込まれて来た拍子に立ち昇った、チョークの粉という事なのだろうか。


 あまりにも大量にばらまかれているため、暗闇と合わせて大変な視界不良である。

 変わらず息も苦しいし、鼻もむずむずして来たし、もはや催涙ガスと大差ない勢いだ。

 これにはたまらず、ドアを探して逃げ出すが――途中で足が引っかかったみたいに動かなくなった。

 暗い中でも、床に白い粘性の物体が、びっしり張り付いているのが見える。トリモチだ。


「嘘でしょ、どうしてこんな……ごほっごほっ」


 咳き込みながら、もう最悪の気分でトリモチから脱出しようとあがいていると、今度は突然、上からデッサン用の石膏像がいくつもいくつも、降り注いできた。

 何体かはとっさに血の剣で切り払うが、頭や肩に直撃し、下敷きになる形で全身まるごとトリモチにへばりつかされてしまう。


「痛い……」


 頭部から額、こめかみにかけて、生暖かい液体が流れ出ている感覚があった。

 トリモチに捕まっていないわずかな腕関節の可動域を動かし、手で拭い、眼前に持ってくると――手のひらが真っ赤に染まっていた。

 先ほどの石膏像が脳天に直撃し、頭蓋がぱっくり割れたのかも知れない。


(私、ここで死ぬのかな……)


 こんな無様な死に方は絶対に嫌だ。弱気になりかけた心を叱咤すると、違和感に気づく。

 頭と手についたこの血からは、嗅ぎ慣れた自分の血液の香りがしない。

 よくよく見直せば、ただの赤い絵の具だった。石膏像に紛れて、ぶちまけられたのだ。

 沸々と、怒りが湧き上がる。

 トリモチを剣で叩き斬り、服をべちょべちょにしながら、強引に部屋から脱出した。


「あ、出てきた」

「思ったより早いわね……」


 すると少し離れた位置で、二人の少女が、並んで廊下に佇んでいるではないか。

 一人は、先ほどの少年と同じくらいの年齢に見える。ボブカットの茶髪に赤のジャージを着て、露骨に馬鹿にした目つきでネレを眺めていた。

 もう片方はネレとそう違わない年だろうか。紅月高校指定の制服一式、つまりセーラー服を着ており、一見生徒に思われたが、もう一人ともども、顔に見覚えはない。

 長い暗緑色の髪を下側で結って纏めており、品定めするみたいに無遠慮な視線を注いできている。

 ただ、足が不自由なのか、車椅子にゆったりと背を預けていた。

 なだらかなカーブで形作られた、介助用の車らしいフォルムではあるのだが――肘掛けやシート、ハンドルなど各種部位が装甲じみたメタリックな鉄板で固められ、前輪も後輪も妙に分厚く、華奢な少女一人が乗るにしては、全体的にごつく見える。


「……さっきのイタズラ、あなた達がやったの?」

「だっさ……」

「変な格好……」


 ネレの呟きに対しては、答えではなく嘲笑が返された。

 かちんときて、再び問い詰めようとするネレを遮り、茶髪の少女が切り出す。


「ねぇ、ゲームしようよ」

「……ゲーム?」

「オレらを捕まえられたら、あんたの勝ち」

「絶対無理だと思うけどね」


 せせら笑うような口元と、挑戦的に睨み上げて来る眼差しに応え、ネレは踏み出す。

 茶髪の少女が、慣れを感じさせる動きで車椅子の後ろへ回り、グリップを握って反転。

 車椅子のタイヤが回り、緑髪の少女を押しながら逃げ去ろうとするではないか。

 追いかけて進んだ矢先、唐突に廊下の床が両脇に開いた。


「えっ」


 すとーんと、冗談みたいに真っ逆さま。またしても顔から床へ激突してしまう。


「あははは! かかったかかった! バカだよこいつ!」

「愉快な光景じゃない」


 浮かれた笑い声を残し、二人の気配が悠然と遠ざかっていく。

 完全に頭に血が上っていた。すぐに立ち上がり、二人の姿を求めて駆け出す。

 けれども、追跡には多くの困難が立ちはだかった。

 この校舎中、さっきと似たような罠がたっぷり仕掛けられているのだ。

 警戒していても、いくつかは避けきれずに引っかかり、体力と神経を摩耗する。

 その一方で怒りが正常な判断を鈍らせ、さらに多くの罠へかかってしまう。

 二人も神出鬼没であった。どこからともなく現れたと思ったら、ネレを嘲るだけ嘲って、煙みたいに撒かれてしまう。大変腹立たしい。


 罠にかかり、笑われ、取り逃がし。そんな無為極まる繰り返しを何度か経由した後――執念が実り、ついに二人を屋内プールへ追い詰めたのだった。


「もう逃がさないよ」


 二人の後ろには飛び込み台へ続く階段。当然車椅子で登れるような場所ではない。


「うわ、もう来た」

「しつこいわねぇ」


 すると茶髪の少女がおもむろに、車椅子下部のティッピングレバーを足で押し込む。

 車椅子の前方が持ち上がったのを確認するなり、なんと自分自身も前のめりとなり、ハンドルを支えに車椅子へ飛び乗ったのである。

 されども車椅子はバランスを崩す事なく、少女の体重を受け止めてのけた。

 直後に、緑髪の少女は肘掛け部分に搭載された端末のボタンを素早く操作すると――後輪が猛回転を始め、車椅子を軽々と段差の先へ押し上げ始めたではないか。


「なに、それ……! 電動式? にしたってどんな馬力……!」


 開いた口が塞がらないまま、ネレも後を追って階段を駆け上がる。

 結局、飛び込み台最上階の先端へ追い込む格好になり、ジト目を注ぐ。


「逃がさない、って言ったでしょう」


 制服は汚れきり、息は大きく乱れ、冷静さもあまり取り戻せてはいないが――後は最後の一手を詰めるのみ。

 ところが二人は、にやりと目線を見交わし合うや。

 ためらいもなくこちらに背を向け、足場から飛び出したものである。

 当然、その先は広いプール。いかにその走力と言えど、重力に引かれていずれは落下。

 だが瞬間、これまた車椅子下部に備え付けられた一対の噴射口から、並外れた勢いの炎が噴き出したのである。

 推進力が生じると同時、手押しハンドル部分が音を立ててスラスターへ変形し、高々と宙を舞う車椅子の姿勢や慣性を制御。代わりに少女は掴む手をシートの両脇へ変える。


「あはは! ゲームはお前の負け~! バーカ! 間抜け~!」


 落下速度は早く、低空飛行ではあるものの、二人はネレからみるみる離れていく――。


「私が、負け……?」


 ネレは低く呟く、手から鮮血を噴き出させ、距離を取る二人を狙って鞭のように放つ。

 表面を瞬時に冷やして凝結した血液は、強靭な耐久性としなやかさを併せ持つゼリー状の縄と化し、こちらへ背を向けている茶髪の少女へ迫り寄る。

 だが、肘掛けに設置されたミラーから後方の様子が見えていたのか、緑髪の少女は車椅子がプールサイドの端へ着地するなり、慌てた風に上体をひねり、腕を振るって。


「……イズル! 危ない!」


 茶髪の少女を弾き飛ばすみたいに振り落とす。

 直後に命中した血縄と、無理な体勢を取ったのが祟ってか、車椅子が大きく傾き。


「きゃあっ!」


 水飛沫を上げ、プールへ落下した。


「イツハ!?」


 水中へ落ちた片割れに、茶髪の少女も血相を変える。ネレもぎょっと硬直していた、


「ち、違う、そんなつもりじゃ……」


 少女がこちらを睨み、行き場を失くしたみたいにそわそわしていた血縄をむんずと掴む。

 途端、痺れるような激痛が、繋がっているネレの手から肩まで走り抜けた。

 たまらず縄を手放し、尻餅をついてしまう。


「……死ねよ!」


 憎々しげな怒号を発した少女が、腕を明後日の方向へかざす。

 その手の先から、放射状の黄色く発光する何かが迸った。

 何条もの光はプールの壁に備え付けられた、操作盤へ命中。

 頭上で、低い駆動音が響く。顎を上げて振り仰ぐと、天井が緩慢に開いていく所だった。

 はらはらと雨が降りかかる。いつしか雨脚は強まっており、たちまち全身が濡れていき。

 瞬間。ネレの体中が裂け、激しい出血が巻き起こった。

 衝撃のあまりに声もなくよろめき、倒れ込む。


(なんだ。何が起こった……?)


 ――裂傷が発生した腕や肩をよくよく見ると、そこには複数のガラス片が突き刺さり、無数の血の糸を垂らしているではないか。

 血縄も気づけば、中ほどから切断されていた。

 馬鹿な。こんな一瞬で。状況が掴めないままもう一度上を見ると、雨と雲と、その後ろに浮く月の光に混じり、わずかに輝く何かが、視界に映る。


「……ガラス……?」


 喉から血泡が吹き、うまく発音できない。

 先ほどよりもなお多数のガラス片が、ネレめがけて降り注いで来る。

 避けなければ。だが血を流し過ぎた。呼吸をして、細胞から血を作らなければ。

 けれど、一呼吸もしている間に、ガラスはネレを八つ裂きにし、押し潰すだろう。


 呆然と見上げていた矢先――突然横合いから何かにタックルされ、押し倒された。

 寸前までネレがへたりこんでいた場所に、耳を塞ぎたくなるほどの音を立ててガラスがまき散らされる。

 何が起きているのか分からず、自分を押し倒した何か――誰かへ、視線だけを向けて。

 鮮やかな鬱金色の髪の、黒いマントを羽織った少女が、至近距離から見返して来て。


「……イズル、イツハ! 大丈夫か!?」


 かと思えばすぐにネレをもぎ離し、飛び込み台の先から顔を突き出して、恐らくは下にいるはずの二人へ声をかけた。


「――大丈夫だよ、イツハは助けた!」

「そうか。なら説教をしようか。最初の小言はこうだ。――何度も言ったろう、レベル三のトラップは使うなと! もう少しで死ぬところだったんだぞ!」

「えー。オレは悪くないよ~」


 少女がいかにも不服げに、何事か答える声を後に、ネレの意識は遠のいていった――。

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