第12話 黒獅子の咆哮

 エリアスがレジーナを白い箱の中に閉じこめてすぐ。エリアスと魔力をぶつけあったアウグストは、渡り廊下から飛び降りた。

 全身で風を感じながら、アウグストは変われ、と強く念じた。するとアウグストの身体はたちまち大きな黒獅子に一変する。さらに進めと意識するや、力強く宙を駆けだす。

 肉体から離れた魂でなければ入れないこの箱庭世界では、強く願うことで己の姿を変えることができる。魂の姿を決めるのは己自身というのは、箱庭世界の造物主であっても覆せない絶対の法則なのだ。だから困ったときはともかく強く願ってくださいと、箱庭世界へ侵入する前に皇帝付きの魔法使いから言われたものだった。

 駆けていくと、魔力の塊がアウグストに襲いかかってきた。アウグストはそれを跳躍しながら身軽にかわし、屋根の上を目指す。

「この歳になってもまだ、鬼ごっこをするつもりかい?」

「いつになっても楽しいもんだろ。姫も割とお好きだしな?」

 大鷲の姿になったエリアスに、アウグストはにやりと笑った。抜いたままの剣に魔力を籠めてふるい、魔力の刃をエリアスに向ける。

「野蛮だね、まったく」

 アウグストの魔力の刃はエリアスに届くことなく、魔力の壁に阻まれた。冷ややかに吐き捨て、エリアスもまた魔力を練る。

「氷よ、降れ」

 詠唱と共に、氷の刃がアウグストの頭上どころか先にまで降り落ちてきた。アウグストはそれをかわし、魔力で防ぎながら走る。

 エリアスが本気で殺しにきていると実感しても、アウグストは落ち着いていた。出陣したのは一度ではないし、どこかで見つかって殺しあいになるのは想定内だったのだ。むしろそのほうがいいとさえ思っていた。

 今度は氷ではなく、魔力の炎が四方からアウグストに襲いかかってきた。この野郎と心の中で吐き捨て、アウグストは魔力を籠めた剣の一閃で三方からの炎を払う。迫ってくる背後の炎に追われるように駆けていく。

 別棟の屋根の上に到着し、炎を身軽に避けたあと。アウグストは人間の姿に戻った。エリアスも人間の姿に変わって屋根の上でたたずんでいる。

「……君がずっと憎かった」

 対峙すると、エリアスはぽつりとつぶやくように言った。

「武芸ができる、軍略や戦争の話ができる。ただそれだけで姫の関心を私から奪っていく君が、ずっとね」

「だったら学べばよかっただろ。剣はからきしでも、お前なら簡単だろうが」

「学んださ。君が知らないところで、こっそりね」

 憎々しげにエリアスは言った。

「でも姫はだからといって、君より私を頼ろうとしてくださらなかった。せいぜい、経済や歴史についてがいいところさ。君を頼ってばかりだった」

「どこが俺に頼ってばっかりだったんだ。礼儀作法は俺じゃなくてお前に聞いてただろうが。舞踏もお前が練習相手で。俺は論外扱いだったぞ」

 この勘違い野郎が。アウグストは目元にしわを刻んだ。

「お前のそういう後ろ向きで根暗なところ、ずっと苛々してたんだよ。挙句、姫の前で死んでこんなところに閉じこめやがって。ふざけんな」

「私も君のその粗野なところが、ずっと気に食わなかったよ」

 暗くよどんだ目で言い、エリアスが魔力を手に集める。アウグストもまた、剣に魔力を集めた。

 レジーナは昔から、エリアスのことをよく気にかけていた。確かに恋愛感情ではなかったのだろう。だが見え隠れするエリアスの精神的な脆さを心配し、自分なりに寄り添おうとしていた。そうした気遣いを、いつも憎まれ口を叩くうえ暗い過去もないアウグストに向けてきたことは一度もない。

 この人に優しくしたい。そばにいてあげたい。そうレジーナに思わせるのをアウグストがどれほど妬ましく思っていたか、エリアスは知らない。知られてたまるものか。

 十四歳でエイオニル帝国へ留学したアウグストは、時折突拍子もない思いつきを実行する年下の少女の遊び相手という仕事にうんざりしていた。留学の目的の一つは彼女に気に入られることだと理解していても、媚を売るのは性に合わない。何故か懐かれてしまったがあんなお転婆はエリアスにくれてやると、本気で思っていた。

 それが変わり始めたのは、十七歳でアウグストがハルシュタルクに一時帰国し、再びエイオニル帝国で暮らすようになってからだ。

 約半年ぶりに再会したレジーナは、アウグストを見るなり安堵の笑みを浮かべた。隣国との戦いに出陣したアウグストの身を心配する手紙をよこしてきたから、大した怪我はしていないし軍の被害も軽微だったと返したのに。

 アウグストが駐在武官に任命されたと聞き、また三人で遊べるのですね、と喜ぶレジーナはそれまでで一番可愛らしく見えた。

 それからアウグストはすぐ、レジーナの著しい変化に驚かされることになる。

 まず、幼いながらも母親譲りの凛とした表情を見せるようになり、立ち居振る舞いも高貴な女性らしくなっていた。人の上に立つ者として相応しい振る舞いをしなければ、と強く思うようになったからだろう。

 着飾って社交の場に出れば、皇女だからというだけでなく振る舞いと容姿で人々の視線をさらった。頬を染めて彼女を熱心に見つめる王侯貴族の子弟は数知れず。アウグストとエリアスという有力な伴侶候補がいるのに口説こうとする、諦めの悪い者も少なくなかった。

 彼女の著しい変化は勉学への姿勢にも及んでいて、軍事の観点から見た経済や地理、歴史についてアウグストに声をかけてくることが増えた。教わったことの解釈も、背景にあるものを探ろうとするのが珍しくない。施政者としての意識が芽生えているのを、アウグストは何度も感じた。

 アウグストがそばを離れているあいだに、レジーナは己に課せられた責務と真摯に向きあう一人の女性へと成長していたのだ。そしてなおも研鑽を重ねている。お転婆娘の本性にまだ振り回されていても、認めざるをえなかった。

 そうして。レジーナがエリアスと二人でいるのを見るたび胸がざわつき、彼女の仕草や噂一つ一つに心が動く自分に気づいてしまえば、あとはもう坂を転げ落ちるだけだった。

 数少ない友から想い人を奪うことに、躊躇いがなかったわけではない。レジーナを奪われることは彼の精神によくない影響を与えるかもしれない、とも考えはした。

 それでも、自分の欲が上回ったのだ。あの姫が欲しいと吼え、慈しまれる友を妬む己を抑えることはできなかった。

 己の感情を自覚したアウグストは一層職務に励み、学問を学び、武芸を磨いた。レジーナと二人きりの時間を少しでもとれるよう、自分で慣れないe小細工をしたりもして。今更彼女への態度を変えるのは恥ずかしくてできなかったけれど、少しは優しくするよう努めた。

 すべてはレジーナの心を得て、娘婿に相応しいと皇帝に認めてもらうため。

 エリアスもそうだったはずだ。彼がレジーナを本気で想っているのは誰の目にも明らかだったし、レジーナが彼を兄のように慕っていることも帝国の城で知らない者はいなかった。地位も能力も充分ある。レジーナの伴侶に選ばれる可能性はあったのだ。

 なのにエリアスは自分の命と引き換えにレジーナの魂を箱庭世界に閉じこめるという形で、彼女の心を手に入れようとした。自分以外に頼れる者がいない状況を構築し、偽りを吹きこみまでして。

 アウグストはそれがどうしても許せない。

 こんな男に惚れた女を渡せるものかよ――――!

 だからアウグストは一歩も引かない。本気で殺しにくるエリアスを滅ぼす隙を探り続ける。

「まったく君はしつこいな!」

「お前に言われたくないな!」

 魔法の攻撃を避けて近づき、アウグストは剣を振り下ろした。もちろんというべきか、魔力の壁が剣を阻む。

 けれど、剣は壁に食いこんでいる。エリアスが充分な魔力を注ぎこめていないのだ。

 魂だけになったからといって、魔力が無尽蔵になるわけがない。いずれは尽きる。これほど派手に魔法を使っているのだから、尚更だ。

「っ」

 苛立ちと焦りを顔ににじませ、エリアスが壁の魔力を強めた。抵抗むなしく剣が弾かれ、アウグストは後方へ跳ぶ。

 アウグストもエリアスも荒い呼吸を繰り返しながら相手を睨みつけた。アウグストとて、体力も魔力も消耗しているのだ。魂だけで来ているのだから、魔力はともかく体力は無尽蔵でいいだろとアウグストは思わずにいられない。

 互いに疲労が溜まっているし、城も随分壊れた。いい加減、終わらせるときだ。

 そうアウグストが考え、踏みだそうとしたときだった。

「――――っ」

 アウグストを睨みつけていたエリアスの表情が、突如驚愕に染まった。唇がわなわなと震えだす。

「姫っ……!」

 悲痛な声をエリアスがあげた。アウグストがつられて振り返ると、なんとレジーナを閉じこめていた魔法の檻がなくなっているではないか。

 レジーナが逃げたのだ。どうやってかはわからないが、自力でエリアスの檻を壊し、塔の中へ入ったに違いない。

 迂闊だった。あのレジーナがこんなときに、大人しく檻の中に閉じこめられているわけがない。先ほども、予想外の手段で自室の下へ抜けだしてきたと告白していたではないか。

「っ……!」

 アウグストの存在を無視して大鷲に変化すると、エリアスは塔へ向かって飛翔した。アウグストも黒獅子に変化してあとを追う。

「待てエリアス!」

 アウグストの咆哮と共に魔力が放たれた。魔力は狙いあやまたず大鷲の翼を直撃し、大鷲は高度を落とす。

 それでもエリアスは持ち直し、自分の傷を癒しながら塔を目指すのだ。アウグストが気力を振り絞って魔力を放っても、ことごとく不可視の壁で防ぐ。

 アウグストは焦った。

 早くエリアスを殺さなければ。すでに死んでいる彼の魂が残ったままこの箱庭世界を壊せば、レジーナが彼の魂を滅ぼすことになってしまう。

 レジーナの心に友人を殺した罪悪感という、今以上に深く消えない傷跡をエリアスが残すのだ。冗談ではない。

 友を滅ぼすのは俺の役目だと、ここへ来る前に腹をくくったのに――――。

 しかし、遅かった。

 エリアスにアウグストが肉薄した、そのとき。塔の最上階から光が放たれた。窓ガラスが砕けるような音が世界を震わせる。

 アウグストは直感した。レジーナが世界の核を壊したのだ。

「姫……! どうして……!」

 エリアスが絶望に染まった声をあげた。

「姫が永遠の眠りをくださるんだ、ありがたく受けとれよ」

 自分にもエリアスにも腹がたって、アウグストは吐き捨てた。

 何を考えたのか、エリアスが光り輝く塔へ飛んでいく。それをアウグストは忌々しく思いながら見ていた。

 何が‘黒獅子’だ。お任せくださいだ。

 惚れた女が手を汚すのを止められなかった――――!

 アウグストが自嘲しているあいだにも世界のあらゆる建物や木々が形を失い、塵となって消えていく。大地が崩壊し、美しい夜空が剥がれ落ちてくる。

 けれどアウグストは逃げようと思わなかった。自分に相応しい罰だと思った。

 ただ。

 せめてレジーナがこの世界での出来事をすべて忘れているようにと、心底願った。

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