第10話 手を引いてくれる人

 少し欠けた月が煌々と地上を照らす夜。縄のきしむ音が静寂の中、聞こえていた。

 侍女たちが下がり少し時間が経ってから、レジーナは自室からの脱出を決行した。方法は脱出の定番、窓からシーツやカーテンを結びあわせた即席の縄を使ってだ。

 自室の真下にある部屋が使われていないことは、グラッツァート領の女侯爵として目覚めてからの数ヶ月のあいだに城内をそれなりに探索したのでレジーナは知っていた。縄で部屋から脱出しようと思ったのも、この部屋は使えると思ったのが理由の一つだ。

 縄を窓の下に置いた彫像に括りつけ、壁を伝ってゆっくり下りてしばらく。レジーナの前に窓が見えてきた。

 片手で窓を押し、少しできた隙間からレジーナは窓を片方ずつ引いた。小さな音をたてて窓が開き、レジーナは部屋の中へ滑りこむようにして侵入する。

 シーツやカーテンって意外と丈夫なのかしら。ここは現実じゃないからかもしれないけれど。

 裂けていない即席の縄を見て、レジーナはほっと息をついた。

 そう。この即席の縄で脱出しようと考えたときにレジーナはふと気づいて、自分の身体を見下ろしてしまったのだ。平均的な女性の身長より高く、筋肉もしっかりついたこの身体。良家の子女である侍女たちと比べても、レジーナの腕は細いとは言えない。

 つまり認めたくはないが、物語でカーテンやシーツを使って逃げる姫君ほど自分は軽くないのである。

 ここにいる自分は魂でしかない。だが、レジーナが重すぎて布が裂けてしまうことを考えない、ということはできなかった。

 しかし、女侯爵が縄を探し回って自室に持ちこむことができるはずもない。物語だと殿方でもこれで塔をよじ上っているし、壁を踏みしめながら下りればきっと大丈夫――――と自分に言い聞かせていたのだった。

 レジーナは窓を全開にすると、外を見たまま即席の縄を手繰り寄せた。それこそ自室の彫像を引きずり落とすつもりで。

 即席の縄を掴む手に一瞬、小さな変化があった。数拍して、彫像が窓の外に姿を現す。

 今だ。

 レジーナは思いきり即席の縄を引っ張った。彫像が部屋の中へ飛びこんでくる。

「――――っ」

 レジーナは彫像を両手でしっかりと掴んだ。彫像に傷がないのを確かめて、長い息を吐き出す。

 息を肺から出してしまうと、代わりに達成感がこみ上げてきた。自分は計画した手順で自室から脱出できたのだ。自然と頬が緩む。

 彫像を引っ張りこんだのは、即席の縄を始末するためだ。窓から垂らしたままでは、兵士が庭を巡回してきたときに気づかれてしまう。少しでも発見を遅らせるためには、即席の縄をこの部屋へ引き入れておく必要があった。

 これであとは、アウグストが来るのを待つだけだ。彫像と縄を片付け窓も閉じたレジーナは、窓から射しこむ光がぎりぎり届くところに腰を下ろした。

 ささやかな脱出劇を終えて興奮が鎮まってくると、夜の静けさが一層強くレジーナには感じられた。誰の声も聞こえないし、風が吹く音もない。自分の呼吸の音しかないのだ。

 今までなら、この極度の静けさに違和感を覚えながらも受け入れていた。だがこの世界の真実に気づいた今は、生命の息吹に欠けた世界の冷たさを表しているようで恐ろしく思えてならない。

「……」

 レジーナは服の袖をまくり、腕に絡めていたアウグストの首飾りを見下ろした。獣の牙に囲まれた宝石の粒が、窓から射しこむ光を返してほのかに輝いている。

 今朝の夢――――思いだした記憶でもこの首飾りがアウグストの胸元を飾っていたことがレジーナの脳裏をよぎった。さらに自分を瞳に映したアウグストの驚ききった顔も瞼に浮かび、恥ずかしさのあまり膝に顔をうずめる。

 何をやっていたのか自分は。あの、子供じみた思考と振る舞い。やりたくなるのは理解できるが、十五歳の淑女がすることではないだろう。しかも直前まで、この人が結婚相手になるかもしれないとあれこれ考えていたのではなかったか。

 二人に注意されるのは当然である。あんな記憶、思いだしたくなかった。

 ――――けれど。

 あれは、エリアスの心にさざなみをたてるのに充分だっただろう。夢という形で客観的に見たからわかる。あの頃のエリアスの目はもう、この箱庭世界でレジーナを見つめて愛を語るときと同じものだった。

 十五歳のレジーナにとってエリアスの優しさと過保護は当たり前で、親しい年下の少女だからだと思いこんで気づかなかっただけで。

『私には君しかいないんだ。君がいれば他に何もいらない』

 昨夜の廊下で聞いた、悲痛な声が胸に響いた。

 きっと。レジーナの無邪気な振る舞いや皇城で聞くレジーナについての噂に心を乱していくうちに、エリアスの繊細な心は少しずつ追いつめられていったのだ。このままでは一緒にいられなくなる、自分ではない他の誰かのものになってしまう――――と。

 けれどエリアスを特別な友人としか思っていないレジーナに、そんな彼の胸中に気づくことができるはずもない。

 いや、気づいたとして何ができたのか。

 エリアスが己を見失い、レジーナがこの箱庭に閉じこめられるのはどうしようもないことだったのだろうか――――――――。

 不意に、廊下から足音がした。物思いに沈んでいたレジーナははっとして暗がりに身を隠す。

 きい、と扉がひそやかに開けられた。

「レジーナ姫?」

「ここです、アウグスト様」

 アウグストの呼びかけにレジーナは声をひそめて返し、暗がりからレジーナは窓の近くに立った。

 アウグストはぎょっとした表情になった。

「姫、何故その格好なんです」

「これしか動きやすそうな格好がなかったのです」

 不本意なのは自分も同じなのだと、レジーナは口をとがらせた。

 レジーナが今着ているのは、若緑色の薄い布地を重ねた踝丈の寝間着だ。腰には紐から短剣の鞘を吊るしてあり、なんとも不格好である。

「乗馬服とか、なかったんですか」

「それが、一着もないのです。武芸の稽古をしていたときの服も、今は処分してしまったことになっていて」

「エリアスの仕業ですね。姫に馬で遠くへ走られて、ぼろが出るのを防ごうとしたのでしょう」

 周到なことです。アウグストは舌打ちした。

 アウグストと普通に話せていることに、レジーナはほっとした。先日の帰り際の気まずさがあるので、引きずっていたらどうしようと思っていたのだ。

「しかし、姫の目をごまかすことに全力を注ぐ世界のおかげで、俺が潜入するのは楽だったわけですが。今城内に守衛はいないし、使用人の逢引きもありません」

「えっ」

 レジーナは目を丸くした。昼間はあんなに大勢のまがいものの人々が、草陰でさえ人間の営みを模倣していたのに。

「夜は姫が部屋から出ないからでしょう。昼間はいつ姫が訪れるかわからないから、城内の隅々まで再現する必要があるだけで……この世界を長く維持するためということでしょうね」

 そこでアウグストは言葉を切り、眉をひそめた。

「姫こそ、よくこんなに早く部屋を抜けだせましたね。部屋の外に守衛はいなかったのですか?」

「いえ、いました。だから、窓から脱出しました」

「はあ?」

 レジーナがにっこり笑うと、アウグストは声を裏返した。窓やそのすぐそばにある彫刻、シーツやカーテンで作った即席の縄を見て頭を抱える。

「窓から脱出するかもしれないとは思いましたが……まさか本当になさるとは」

「仕方ないじゃないですか。部屋の外に兵がいるのですから」

「それはそうですが……」

 と言うアウグストは、やがて喉を鳴らして笑いだした。

「その格好といい、そこらの姫君じゃ思いついても実行はしませんよ。怖いだのなんだの言ってね。迷いもせず実行なさるのは、さすがレジーナ姫です」

「もう、笑わないでください」

 レジーナは抗議するが、アウグストは何が面白いのかまだ笑うのをやめない。これだから姫はとか、口の中で何か言っている。感心されている気がしない。

 ここは逃げるに限る。レジーナはそれより、と無理やり話題を変えた。

「塔を見てきました。……多分、世界の核はあそこにあります」

「……何故」

「あそこだけ、何か違う場所のような気がしたのです」

 昼間。散歩のふりをして塔に近づいたレジーナは、守衛に止められた。レジーナの後見にして家臣筆頭であるベルツィーニ卿から、レジーナを通さないようきつく言われているのだという。エリアスがそういう設定にしているのだろう。

 しつこく食い下がって、エリアスに報告されるのはまずい。レジーナは引き下がるしかなかった。

 だが、近づくだけで充分だった。守衛たちの向こうを見るだけで、何かが神経に触れてきたのだ。意識が引き寄せられそうになっていた。

「他のどの場所へ行っても、あのような感覚になったことはありません。あの塔がこの世界にとって特別であるのは、間違いないと思います」

「なるほど……」

 レジーナの話に、アウグストも表情を改めて頷いた。

「それなら可能性はありますね」

「でしょう? ですから、今から行きましょう」

「今から、ですか? しかも、姫も一緒で?」

「はい」

 眉をひそめるアウグストに、レジーナは頷いてみせた。

「……今日の夕食のあと、いつもと様子が違うとエリアス様に言われました」

「!」

 声の調子と表情を変えてレジーナが言うと、アウグストは目を見張った。

「私がこの世界から逃げようとしていることに気づいているのかは、わかりません。でも、私がどこかへ行ってしまわないかと不安がっていました。私はアウグスト様の首飾りを持っていなかったのに」

「……そこまでエリアスが精神的に追いつめられているのなら、この城に人が見当たらないのは罠に思えてきますね。魔力だか構成式だかの関係で、できないだけなのかもしれませんが」

「ええ。いずれにしろ、私たちに迷っている時間はもう残されていないでしょう」

 レジーナの変化に気づいたくらいだ。今この瞬間にもエリアスが二人の計画に気づき、あらゆる手を尽くそうとしても不思議はない。

「……わかりました」

 アウグストはふっと笑った。何の含みもない、優しいとすら表現できる顔だ。レジーナは思わず息を飲む。

「いいですよ、二人で行きましょう」

 ぐい、とアウグストはレジーナの手を引っ張った。武芸が不得手なエリアスとはまるで違う、ごつごつした指がレジーナの手に絡みつく。

「エリアスにはさんざん賊だのならず者だの言われてきましたからね。だったらならず者らしく、姫をさらってやりますよ。世界の核もこの剣で壊してみせましょう」

 そう間近から見上げるアウグストは、いっそ楽しそうだった。まるでこれから遊びに行くかのような気負いのなさだ。戦場を知っているからなのかもしれない。

 戦う覚悟で硬くなっていたレジーナの身体と心が、ふっと楽になった。

 レジーナは頬を緩めると、寝間着の袖をまくった。腕に絡めた首飾りを見せる。

「これはアウグスト様にお返しします」

「……よろしいのですか?」

「はい。現実へ戻るとき、アウグスト様の魂に欠けがあってはいけませんから」

 目を瞬かせるアウグストに、レジーナはふわりと微笑んでみせた。

 幼い頃の自分がアウグストに懐いた理由を、レジーナはやっと理解した。

 アウグストはレジーナが望むところへ手を引いてくれる。困難があれば立ち向かう方法を教えてくれる。彼も遠くを目指して駆ける人だから。

 アウグストがいれば、レジーナは思うまま遠くへ行くことができるのだ。

 きっと出会った頃から、アウグストはレジーナにそうしてくれていたのだ。なんで俺がこんなことを、と文句を言いながらでも。――――お転婆なレジーナが、慕わないわけがない。

 アウグストは短く息を吐き、レジーナの腕から首飾りを外して自分の首にかけた。

「まあ、入用になったらいつでも言ってください。次は高くつきますけどね」

「あら、今回は淑女のふりだのと説教したりなさらないのですね」

「は?」

 きょとんとしたアウグストに、レジーナはにっこり笑った。

「寝起きのアウグスト様は可愛かったですよ?」

「っ! いつのことを思いだしているんですかっ!」

 アウグストは一瞬で焦った顔になる。やはりこれが、彼にとって思いだしてほしくないことだったようだ。

 またささやかな意趣返しが成功して、レジーナはとても満足した。

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