第三章 世界の終わり
第9話 ある日の記憶 ―雨の悪戯―
それは、熱を帯びていた風が心地よいものに変わり始めた晩夏の昼下がりだった。
「なんでこんなときに雨なのよ……」
レジーナは走りながら、うんざりと言った。
つい先ほどまで、木陰で読書に励んでいたのだ。自室に一人籠っているのはつまらなくて、庭園のお気に入りの一画にある木陰へ行こうと思いたって。エイオニル帝国の経済史について学んでいた。
そうしているうちに急に黒い雲が集まってきて、あっというまに雷の音が聞こえてきた。そしてこの降りようである。こんなときに高い木の下にいるのは危険だ。レジーナは慌てて近くの東屋へ逃げこむことにしたのだった。
東屋に入り、レジーナは息をついた。けれどすぐ、雷雨の音に吐息が混じっていることに気づく。
誰かが寝ているのだ。レジーナは振り返り、目を丸くした。
何しろ、アウグストが長椅子に腰かけて眠っていたのだ。
「アウグスト様……?」
呼びかけてみたが、反応はない。獣が唸るように雷の音が頭上から聞こえているのに、お構いなしだ。
まあこれでも一応は母国から派遣された身なのである。毎日何かしら仕事があるだろうし、接待もあるだろうし、剣の稽古も欠かせない。そのうえレジーナの相手も。疲れが溜まって眠りこけることもあるだろう。
こんなところで居眠りしてないで、城下にある公邸で眠ればいいのに。
小さく息を吐いてレジーナはアウグストの隣に座ると、起きているときよりは幼い印象の寝顔を眺めた。
見慣れた友人の顔も、こうして無防備な様子になるとなんだか新鮮だ。以前は何度か見たような気がするが、最近は見なくなったからなおのこと。
茶会で貴族令嬢たちにこの居眠りを話したら、また羨ましがられそうね。エリアス様に話すのもいいけれど。
レジーナはぼんやり思った。
アウグストとエリアスが自分の伴侶候補の有力候補であることは、色恋話に疎いレジーナでも聞くようになっている。レジーナに声をかけたがる王侯貴族の子弟は数多いが、あの二人だけが格別の待遇を許されているのだ。
あの二人のどちらかと結婚できるなんて――――と、何度貴族令嬢たちに社交の場で羨ましがられたことか。
確かにアウグストとエリアスは、趣向が異なった美形ではある。それにアウグストは‘黒獅子’と称えられる騎士で頼もしいし、エリアスは魔法に秀でていて優しい。豊かな国の王子という背景もある。世の年頃の娘にとっては異性として魅力的なのだろう。
そんな彼らを選ぶのは、あくまでもレジーナひいてはエイオニル帝国なのである。容姿端麗で有能な王子のどちらかを、大国の世継ぎたる皇女が選ぶ。貴族令嬢たちにとってはその状況こそ物語のようだと、レジーナを羨む理由であるらしかった。
とはいえ、現実はそんな甘ったるく能天気なものではない。大国の世継ぎの結婚に、国益を考えないわけにはいかない。
ハルシュタルクは鉱物資源が豊かで農業が盛ん、隣国との小競り合いが絶えない国だ。レジーナとアウグストの結婚は、ハルシュタルクにとって隣国への強い牽制となる。帝国にとっても軍事による勢力拡大を目指すなら、勇猛な軍が名高い国との結びつきは大きな一助になるだろう。
パルティダは優れた魔法使いを多く輩出しているだけでなく、良港をいくつも抱えて繁栄している。レジーナとエリアスの結婚は海上交易を一層盛んにし、パルティダのみならず帝国にも富をもたらすだろう。帝国はこれ以上武力で領土を拡大するつもりがないのでは、と国内外に印象づける効果も大きい。
レジーナがどちらと結婚しても、帝国にもたらされる利益は大きい。しかし国益の方向も国内外での受け止められようも違ったものになる。パラクセノス大陸東部の世界の構図を変える結婚になりうるのだ。慎重に考えなければならない。
けれどレジーナにとって彼らは友人で、どちらも同じくらい特別なのだ。三人で友情を築いてきたのに、どちらかを選んで結婚すれば形を変えてしまう。優先順位ができてしまう。そんなの嫌だ。
でも、だから彼らより大切ではない人と国益のためだけに結婚するのは抵抗がある。
それに、二人がレジーナと結婚することについてどう思っているのか。
レジーナの結婚相手を決めるのは母や家臣たちなのだから、レジーナがあれこれ考えてもどうしようもないのだが――――。
「……」
レジーナが自分の結婚について考えをめぐらしているうち、不意にアウグストの眉が動いた。呼吸の仕方が変化する。
アウグストが起きかけているのだ。年頃の乙女らしい悩みに沈んでいたレジーナの思考は、一瞬にして生来のお転婆娘のものになった。
これは絶好の機会ではないだろうか。隙あらばからかってくる悪友に、今なら一泡吹かせてやれそうだ。
ということで、レジーナはアウグストの頬を指でつついて目覚めを促した。緩々と顔を左右に振るものだから、巷で見た赤子のようでレジーナはおかしくなる。
さてここからが肝心。レジーナは互いの鼻先がくっつきそうな距離で、アウグストの顔を覗きこんだ。
やがて、アウグストの目がゆっくり開いた。寝ぼけているようで、目の焦点が合っていない。
「アウグスト様、起きてください。こんなところで寝ては駄目ですよ?」
首を傾け、レジーナは淑女らしくふわりと笑ってみせた。アウグストの真っ黒な瞳に、レジーナの悪戯っぽい笑顔だけが映る。
「………………っ?」
ぼんやりしていた顔がいつものものになった瞬間。アウグストは幽霊でも見たかのような驚きようで、レジーナから身を離そうとした。
しかし狭い長椅子の上である。思いきり離れようとしたものだから、盛大に頭を柱にぶつけしまう。
「――っ」
堪えきれず、レジーナは大口を開けて笑った。こんなに間抜けなアウグストは見たことがない。
後頭部に手を当てたアウグストは、顔を真っ赤にして眉を吊り上げた。
「何をしてらっしゃるんですかレジーナ姫!」
「だって、天下の‘黒獅子’がこんなところで居眠りですもの。起こしてさしあげるのは当然でしょう?」
「だったら普通に起こしてください。日頃の淑女のふりはどこへいったんですか」
「あら、これが淑女の起こしかたですよ?」
レジーナがとぼけると、アウグストはそんなわけないでしょうと噛みつくように言う。醜態をさらしてしまったのがかなり恥ずかしいようだ。レジーナはますます達成感を感じた。
「それにしても、アウグスト様が居眠りなんて珍しいですね。お疲れなら、公邸で眠ればよろしいのに」
「公邸だと静かに昼寝できないんですよ。今、夜でも部屋に押しかけてくる人が少なくないんで」
「あら、夜なのに仕事を持ちこまれてしまうなんて大変ですね。それなら、木の下で本を読んでよかったです」
「……そうですね。助かりました」
「?」
アウグストが口を曲げて棒読みで言うものだから、レジーナは目を瞬かせた。何故かアウグストが不機嫌になっていないだろうか。
思ったまま言っただけなのに。いらっとしたレジーナは尋ねようと口を開く。
「レジーナ姫」
そこに、雨の合間から声が聞こえた。振り向くと、雨の中やってきたのにまったく濡れていないエリアスが東屋に現れる。魔法で雨を弾いているようだ。
エリアスが微笑んだ。
「姫、こんなところで雨宿りは駄目ですよ。雨がいつ止むかわかりませんから」
「ええ。でもそこの木で自習していたので、とっさに……」
「そのようですね。こちらで自習なさっていると、アンネッタから聞きました」
とエリアスは情報源を明かす。レジーナの侍女たちはアウグストとエリアスを信用しているので、つい口が軽くなるのだ。
「姫が好きな菓子と紅茶を用意しているそうですから、早く行きましょう」
「それは楽しみです」
どの菓子が用意されているのだろう。うきうきしながらレジーナは立ち上がった。しかしアウグストが座ったままであるのに気づいて、目を瞬かせる。
「アウグスト様?」
「二人でどうぞ。俺はもう少し、ここにいます」
「アウグストがこう言っていることですし、行きましょう姫」
ぶすくれた声でアウグストが言い、エリアスも城内へとレジーナを促す。普段は軽口の応酬なのに、こんなときに限って息がぴったりだ。
「ではアウグスト様、さようなら」
レジーナは淑女らしく軽く一礼する。アウグストはまた、とだけ短く応えた。
そうして東屋から離れると、エリアスが口を開いた。
「ところで姫。先ほどは笑ってらっしゃるのが見えましたが、どうなさったのですか?」
「アウグスト様が居眠りしていらしたので、悪戯をしたのです」
レジーナはにっこり笑って、一部始終をエリアスに話した。アウグストの醜態を想像してか、エリアスもくすりと笑う。
「それは私も見てみたかったですね。アウグストの間抜け顔なんて、めったに見られるものではありませんから」
「でしょう?」
「ですが姫、そんなことはもうしては駄目ですよ。淑女がすることではありません」
レジーナが自慢すると、エリアスは少し困ったような顔をする。
レジーナはむう、と口をへの字に曲げた。エリアスまで小言とは。
「アウグスト様にも言われました。でも、他の人に知られなければ大丈夫です」
「たまたま私が来ただけで、アンネッタが姫を呼びにきていたかもしれませんよ?」
「う……」
遠回しにたしなめられ、レジーナは反論できなくなる。確かに、違う人が来ていたらあとが面倒なことになっていただろう。
「……気をつけます」
「そうしてください」
反省の色を見せるとエリアスは息を吐く。今日はよく怒られる日だ。レジーナはげんなりした。
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