第8話 偽りと真実の狭間で
夕食を終えたあと、自室までエリアスに送ってもらうのはレジーナの日課の一つだ。
話はもう夕食のときに尽きてしまったから、何も話さないことが多い。夜の静けさの中、繋いだ手の温度や感触を感じながらゆっくり歩く。思考の霧に邪魔されず他者のぬくもりを感じられるこの時間を、レジーナはとても気に入っていた。
「レジーナ。最近、何かあったのかい?」
「え?」
アウグストと思いがけず再会した翌日。いつものように自室へ送ってもらっていたレジーナは、不意にエリアスが尋ねてきてどきりとした。
昼間、自室の近くにある塔へ行ってきたところなのだ。あくまでも散歩ついでに立ち寄ったふうにしたつもりだが、エリアスに報告が届いていてもおかしくない。
エリアスに気づかれるとまずいので、アウグストの首飾りは身につけていない。だが、言葉に気をつけないと。レジーナはなんでもないような表情を装い、小首を傾げてみせた。
「そうかしら? いつもと同じつもりだけど」
「自分では気づいていないようだけど、なんだかわくわくしているというか……これから何か始まるのを待っているみたいだよ?」
エリアスは小さく笑って言う。
そんなに私はわかりやすいのかしら。
レジーナは心の中で嘆いた。脱出の準備のことでなかったのはさいわいだが、どうしてこの人はレジーナのことがすぐわかるのだろう。
ともかく、なんとかごまかさないと。
なんと言おうか。でも、この人に嘘をつきとおせるのだろうか。
いえ、そもそも。
嘘をつくようなことなの――――?
「……色々とわかってきたのが、楽しいのかもしれないわ」
足を止めたレジーナは、気づけばそう口を開いていた。顔は自然と、偽りの星々が瞬く美しい夜空を見上げる。
この世界を壊すつもりだと悟られるわけにはいかない。けれど、エリアスに完全な嘘は言えない。
エリアスを騙せるとは思えないからだけではない。彼がレジーナを想ってくれていることは嘘ではないから。
自己満足だとしても、その気持ちに誠実でありたいのだ。
「寝台から起きて、実は転落事故で記憶を失くした女侯爵だって貴方や医師に言われてからずっと、この世界がどんな場所なのか学んで少しだけ女侯爵の仕事をして……勉強についていって、自分の仕事に馴染むのに必死の毎日だったわ」
「……」
「でも今、少し楽になった気がするの。肩の力が抜けて、呼吸がしやすくなったというか……だから元気になったように見えるのかもしれないわ」
エリアスを振り返り、レジーナは笑った。
語ることで、レジーナは自分の気持ちをようやく理解した。
靄で思考を奪われ記憶が曖昧な日々の中、レジーナはずっと毎日何かに追われている気持ちに囚われて焦っていた。顔がわからない人々に戸惑い、エリアスの存在に救われていた。城下の賑わいに心躍らせ、お菓子の美味しさに舌鼓を打って。
自分自身の感情と思い出をいくつも積み重ねてきた日々は、レジーナにとっての真実であり思い出の一部なのだ。
レジーナは今やっと、自分がこの世界に愛着を持ちつつあったことを自覚した。同時に、この世界を壊す覚悟を語って気づいたことを苦く思う。
エリアスは何故か、苦しそうに眉を寄せた。
「……君が元気になるのは嬉しいことだけど、その理由が私じゃないのが悔しいな」
「貴方からも、私は元気をもらっているわ」
「でも今君が生き生きしているのは、私が理由じゃないだろう?」
言って、エリアスはレジーナを抱きしめた。少し低い体温がレジーナを包む。
レジーナは息を飲んだ。
「エ、エリアス?」
「どこにも行かないでくれ、レジーナ」
泣きそうな声でエリアスは言った。
「私には君しかいないんだ。君がいれば他に何もいらない」
「……」
「君なしで私は生きていけないよ。だからどうか、どこにも行かないでくれ」
縋る響きでエリアスは乞う。レジーナを閉じこめる腕の力が強くなった。
レジーナの胸が痛んだ。
私はこの人を裏切ろうとしている――――。
「……私の心の中にいつだって貴方はいるわ、エリアス」
息苦しくさえある腕の中で、レジーナはエリアスを見上げた。
「私たちは一緒に色んなことをして、絆を築いてきたわ。これからもそうよ。私のそばに、心の中に貴方はいるの。私たちは一緒に生きていくのよ」
だからどうか、そんなに怯えないで――――――――。
祈るような気持ちでレジーナはエリアスの背に手を回した。エリアスは甘えるようにレジーナの首筋に顔をうずめる。
エリアスの頭を撫でてやりながら、レジーナもまた涙腺が緩んだ。
レジーナの言葉に偽りはない。けれどこの世界から出ればエリアスはレジーナをさらった大罪人として裁かれ、生死を問わず会うことは難しくなる。わかりきったことだ。
それでも言わずにいられなかった。
エリアスに対して誠実でありたいと思いながら嘘をつく自分が、レジーナはとても醜く思えた。
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