第二章 彼らの帰る場所

第5話 ある日の記憶 ―学びの一日―

 金属がぶつかりあう音が、周囲に響き渡っていた。

 よく晴れた日の、庭園の一画。東屋と簡易の湯浴み場が併設された皇族専用の小さな稽古場で、レジーナとアウグストは剣の手合わせをしていた。

 先々代の御代から武力で領土を拡大してきたエイオニル帝国の世継ぎにとって、武芸や軍略は学ぶべき教養の一つだ。皇帝が戦陣に立ち、自ら軍を指揮することも少なくなかった経緯によるところが大きい。皇女のレジーナも数年前から、剣術指南役に武芸を教わっていた。

 とは言っても、剣術指南役が急用で稽古が休みになったのに代役を頼んでまで、武芸に熱を入れる必要はまったくないのだが。

 振り下ろされたアウグストの剣の一撃を、レジーナは槍で横に受け流した。アウグストの胴と喉ががら空きになる。

 狙うは喉だ。レジーナの意識は何も考えず、急所を正確に指定した。

「はっ!」

 槍は唸りをあげ、まっすぐアウグストの喉に襲いかかる。

 しかし。

「甘いですよっ」

 アウグストはレジーナの一撃をかわすと同時に、大きく前へ踏みこんできた。今度はレジーナのほうこそ無防備だ。レジーナは慌てて槍を構えなおそうとする。

 だがそれより早く、アウグストはレジーナの槍の柄を掴んだ。ぎょっとしてレジーナは振りほどこうとするが、力でアウグストに敵うはずもない。

 アウグストの剣の切っ先が、ぴたりとレジーナの鼻先で止まった。アウグストはにやりと口の端を上げる。

「俺の勝ちですね」

「……っ」

 高らかな勝利宣言である。認めざるをえず、レジーナは悔しくて口をゆがめた。

「負けた……」

「当然でしょう。‘黒獅子’の異名は飾りじゃないですからね」

「でも、アウグスト様は本気を出してないじゃないですか。私は本気なのに」

 自由になった槍を支えにしゃがみこみ、レジーナは口をとがらせた。

 こうしてしゃべっているあいだもレジーナは息があがっているのに、アウグストは平然としているのだ。実力だけでなく、身体能力の差も憎い。

 でも仕方ない。アウグストは屈強な軍勢で世に知られるハルシュタルク王国の名将たちに鍛えられ、エイオニル帝国でも武芸に励んでいた騎士なのだ。初陣は留学直前の十四歳。母国へ一時帰国したときも、隣国との軍事衝突でハルシュタルクの勝利に貢献している。十三歳の小娘が敵う相手ではない。

 それでも、槍を得物にしていたのだ。それなりに使えるという魔法も、魔法が使えないレジーナに合わせて使っていない。少しくらいはアウグストを慌てさせたかった。

 まあまあ、と柔らかな声が割って入ってきた。二人の手合わせを見ていたエリアスだ。その横から侍女がレジーナにタオルと飲み物を差しだし、そっと下がっていく。

「姫が実際に武器を持って戦うことはないのですから、それだけできれば充分ですよ。日常でも、護衛たちが姫を守るのですし。もちろん、私も。誰一人姫に近づけさせません」

「お前の場合、護衛も近づけさせなさそうだよな」

 レジーナににっこり笑いかけるエリアスの隣で、剣を鞘に収めたアウグストが呆れ顔でつっこみを入れる。いつもながら芸人じみたやりとりである。汗を拭っていたレジーナは表情を緩ませた。

 ひとしきりエリアスとじゃれあったアウグストは、レジーナのほうを向いてしゃがんだ。

「まあエリアスが言うように、姫が武器を持って戦う必要はありません。せいぜい賊に警備をかいくぐられたときに、護衛が駆けつけるまで短剣や弓で時間稼ぎができれば充分です。姫が俺どころか誰かの胸や喉を一突きできる技量を磨く必要はないんですよ」

「……」

「命を狙われているとき姫がます考えるべきは、誰を犠牲にしても生き残ることです。それさえできれば充分。ただでさえ周りを振り回しているんですから、これ以上侍女殿の肝を冷やすお転婆娘になるのは控えましょうよ」

「最後に余計な一言を言わずにいられないその悪癖、アウグスト様もそろそろ直したらどうでしょうか」

 これだからこの王子は。レジーナは半眼になった。

 どんなにいいことを言っても、どうしてこの人は自分で台無しにするのだろう。なんとことを言うんだい、とエリアスも噛みついている。侍女たちは苦笑しているが。

 わかってますとも、とレジーナはアウグストをまっすぐ見上げて言った。

「私は皇女で、儀礼として剣をふるえれば充分の身。戦場へ赴くことも、あるかどうかわかりません。……それでも、いえそうだからこそ日頃から武芸を磨かなければ、万一のときに軍を鼓舞する飾りとしての役目も果たせないでしょう?」

 エイオニル帝国はすでに多くの国を支配下におき、戦争の相手となりうる国は数えるばかり。賢臣に支えられた皇帝の内政のおかげで、内乱が起きる恐れも今のところはない。軍事国家ではあるが、今は穏やかな日々が続いている。

 けれど、戦乱がもう起きないなんて保証はどこにもないのだ。帝国でなくても同盟国が他の国と戦争になり、援軍を要請されることがあるかもしれない。皇帝の座に就いたあと、民に戦いを強いることもありうる。

 だからこそ、レジーナは兵士たちに戦いを納得させられる振る舞いができなければならない。そうでなくては、この軍事大国を統べる資格はない。

 アウグストの出陣の知らせを聞いてから、レジーナはそう強く思うようになっていた。簡単な護身として剣を学んでいたのをより本格的に学ぶようにしたのも、アウグストに手合わせを頼みこんだのもそうした理由からだ。

 エリアスは微笑みながらレジーナの手をとった。

「姫のそのお志がある限り、帝国の兵士の士気は天を衝くほどであるのは間違いありません。姫が姿を見せるだけでも充分効果がありますよ」

「まあ姫が前線に出て勇ましく演説すれば、兵の士気は上がるでしょうが。それなら日頃から軍の稽古場や軍の医療施設に顔を出すなりしておくと、より効果が高いですよ」

「軍の稽古場や軍の医療施設に、ですか?」

「城の奥で能天気に過ごしているだけのお姫様じゃない、一兵卒にも目を向ける人だと印象を与えることができますからね。兵たちの前で稽古するのも手でしょう」

 レジーナの武芸の稽古は、将軍であっても目にすることはない。皇女が武芸に励んでいると噂で聞いても、所詮皇族のお遊び程度だと考えているだろう。アウグストとエリアスはレジーナに気に入られているから、特別に立ち会わせてもらえているだけだ。

 だからこそ訓練に励む兵の様子を真剣に見学し、また傷ついた兵の慰問を積極的にしていれば、兵たちのレジーナへの印象は改まるはず。戦場での戦いぶりで軍の支持を得ることができないのなら、日頃から地道に関係を構築していくしかないのだ。

 だがレジーナに対して過保護なエリアスは、じとりとアウグストをねめつけた。

「アウグスト、姫に戦場へ行くようそそのかすつもりかい?」

「姫がやる気になってるんだから、削ぐ必要はないだろ」

 咎めるエリアスを軽くいなし、アウグストはレジーナを再び見た。

「もちろん。軍への傾倒は妙な憶測を生む可能性がありますから、ほどほどにしないといけませんがね。皇帝陛下はどこかの国に攻め入るつもりなのでは、と噂が流れるだけでも面倒なほうへ物事が動きかねません」

 レジーナの母である皇帝は自ら前線へ赴き、戦争で領土を勝ちとった女傑だ。娘の動きにそうした影を見出す噂が帝国と対立する国に届けば、警戒するのは想像に難くない。

 周囲に不安を生まない程度に兵と交流を深める。なんだか難しい話になってきた気がする。レジーナが眉をひそめると、にかりとアウグストは笑った。

「ややこく考える必要はありませんよ。飾りらしく振舞いたいならあちこち見て回れってことです。軍の稽古場だけでなく、他のところへも」

「他のところ……郊外の町とか?」

「そうそう。姫がいつものようにしていれば、単に好奇心旺盛な皇女が見聞を広めたがっているだけと周りは考えるでしょう」

 それなら簡単だ。行ってみたい場所はたくさんある。織物や宝石の工房、鉱物の採掘現場、牧場。国境の軍基地――――そこから見える景色がどのようなものであるかも、自分は知らないといけない。

 ああそれなら、とエリアスは指を一本立てて提案した。

「姫、カザトポ港へ行ってみてはどうでしょう。経済について知るなら、港は外せませんから。船や荷を運ぶ様子を眺めながら、色々とお教えしますよ」

「まあ、それは嬉しいですわ。でも、仕事のほうは大丈夫なのですか?」

「姫のためなら、いくらでも時間を空けますよ。そう毎日、仕事がたてこんでいるわけでもありませんし」

 エリアスはにっこりと笑った。彼は母国から外交の職を拝命しているのだ。

「その際、パルティダ商人の商館にもご案内しましょう。パルティダから運んできた品が商館にもいくらかあるでしょうから、交易品を実際に見るのも勉強になりますよ。もちろん、姫のお気に召した物があればさしあげます」

 エリアスはよどみなく見学経路の案をレジーナに披露していく。レジーナはわくわくしてきた。港には行ったことがあるが船に乗るためで、同盟国の商館には行ったことがないのだ。

「……お前、本当は王子じゃなくて商人なんじゃないのか?」

「君こそ本当は王子じゃなくて、ただのならず者じゃないのかい?」

 呆れを通り越して疑いすら表情に浮かべるアウグストに、エリアスは冷ややかに返す。

 たまらず、レジーナは笑いだした。

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