第4話 雨中の使者は告げる・2
エイオニル帝国は内海に突き出たイリス半島の統一国家を前身とする、パラクセノス大陸東部の大半を支配する軍事大国なのだという。
大陸東部が戦乱を繰り返していた先々代の国主の時代に領土を拡大するようになり、やがて先々代が皇帝と自称するようになったのが始まりだ。帝国の国力が増すにつれ従属する国は増え、各国の王侯貴族は様々な目的で帝都へ子弟を留学させるようになった。
アウグストとエリアスも、そうした高貴な留学生だ。そして目付け役として同行していた二人の家臣がそれぞれの伝手を通じて自国の王子をレジーナと面会させたことが、三人の交流の始まりなのだった。
「それって……」
「まあ、政治的な将来のためですね」
大人たちの思惑が実にわかりやすい出会いについ顔をしかめるレジーナに、アウグストは苦笑した。
とはいえ、王侯貴族の男女の出会いなんてそんなものだろう。特にレジーナは将来、大国の統治者となるのだ。生家に多大な利益をもたらす伴侶の座をめぐって、子供自身の意思を無視して大人たちの駆け引きがおこなわれるのは当然のことと言える。
レジーナに気に入られたアウグストとエリアスは母国の方針により、留学が終わっても役職を拝命してレジーナとの親しい付き合いが続いた。演劇鑑賞をしたり、郊外へ出かけたり、本を読みあったり。また王子同士も数少ない友人として交流していた。
だが、レジーナが十六歳の年のある日。帝都郊外で突如強力な魔法の発動が観測され、皇城が対応に追われる中、郊外へ出かけたレジーナの護衛の一人がもたらした報告によってすべてが一変してしまった。
いわく。郊外にある自分と親しい豪商の植物園へレジーナを誘ったエリアスが、護衛たちを遠ざけてレジーナと二人きりになっているあいだに魔法を発動させ――――レジーナの魂を自分が構築した箱庭世界に閉じこめたと。
レジーナは声を震わせた。
「――――じゃあ、ここにいる人たちは皆……」
「この世界に付属する人形です。姫に自分はこの城の主だと信じさせるには、仕える者が必要ですから」
しかし箱庭世界を構築する魔法は誰でも簡単に使えるものではないし、生きている人間の魂を抜きとる魔法にいたっては、構成式を記した魔法書を手に入れるだけでも困難だ。二つの魔法を習得するのはエリアスといえど容易ではなかったはずである。
それほど稀少で難解な魔法だからなのか。レジーナの身体に魂を戻そうと一流の魔法使いたちが試みたが、外部から干渉することはできなかった。試行錯誤が繰り返されるあいだにもレジーナの身体は少しずつ弱っていく。
このままでは身体が死に、レジーナの魂のあるべき場所がなくなってしまう。かくなるうえは無理やり箱庭世界の中へ侵入して、内側からレジーナの魂を奪い返すしかない。
そう話が帝国側でまとまりつつあるのを聞きつけたアウグストは、周囲の制止を無視して大役に名乗りを上げ――――こうしてレジーナと無事再会することができたのだった。
「……」
アウグストが語り終えてからも、レジーナはすぐには反応できなかった。情報が多すぎて、思考が追いつかない。
「レジーナ姫」
レジーナの戸惑いを見てとったのか。アウグストは木の幹に当てていた手で、レジーナの肩を掴んだ。
「今の姫にとって俺は初対面で、俺の話を簡単に信じられないのは当然です。ですが、どうか信じてほしい。姫には帝国を継ぎ、パラクセノス大陸東部の未来を切り開く責務があるのです」
「……!」
「姫はここよりずっと広い場所で生きてきて、これからも生きていく方です。貴女はここにいるべきではありません。どうか現実にお戻りください」
熱く、かき口説くようにアウグストはレジーナに懇願した。
レジーナを見つめるアウグストの目は、ただ必死だった。祈るようにも、縋るようにも見える。
向けられた願いの熱に耐えかねて、レジーナは目を伏せた。
「……エリアスが私を閉じこめたなんて、正直まだ信じられないわ。貴方とは会ったばかりだし、貴方の話はおとぎ話のようだし」
「……」
「でも……ここが偽りの世界であるのは間違いないのよね」
レジーナは一度目を閉じてうつむいた。
作り話かもしれない、とレジーナは思わなかった。エイオニル帝国の世継ぎと心の中で繰り返せば、心の中に溶けて馴染むのだ。インノツェンテ国グラッツァート領の女侯爵よりもずっと。
そう、私はエイオニル帝国の皇女、レジーナ。それこそが私の本当の名前なのだわ。
レジーナは確信した。
「……魔法で創られたものだから、侍女や家臣たちの顔がよくわからないのね。名前や声や性格は皆違うし、エリアスたちも事故の後遺症でわからないだけだって言うからそうなんだとずっと思っていたわ」
「……」
「そうじゃなかったのね。全部、偽物だったのね……」
エリアスとの結婚を羨む侍女たちの声も、商品を買ってもらおうと熱心な商人の口上も、講師が説くグラッツァート領の歴史も。――――あの美しい湖畔の風景も。
すべてが偽りだった、レジーナをこの世界に囲いこむための、エリアスの巧妙な罠だったのだ。
レジーナは心から何かがさらさらと零れ落ちていくような気がした。あるいは何かが満ちているのか。悲しいのか悔しいのか腹がたっているのか。自分ではどうにも判別がつかない。
「……もしかして私、貴方に剣を教わったりした? 私も剣胼胝があるし」
唐突にそう、レジーナはアウグストに自分の手のひらを見せた。
先ほど見えたアウグストの手は大きく、ごつごつしているだけでなく剣の胼胝がしっかりあった。潰れた痕や切り傷も刻まれた、武器をたくさん握ってきた戦士の手だ。
レジーナが現実世界でも武芸を深く学んでいたなら、親しかったという彼から学ぼうとしないとは思えない。
一瞬意表を突かれた表情をしたアウグストはすぐ、ええと頷いた。
「姫は皇帝陛下の方針で、武芸を学んでおられた。護身程度で充分なのですが、姫はそれ以上に学びたがっていて……相手をせがまれたものです」
まあもっとも、とアウグストは言葉を続ける。
「姫はそれ以外でも、とても活動的でしたが。城下へ出かけるのはもちろんのこと、木に登ろうとしたり、川の中に入って流されかけたり。他にも色々。そのたびによく慌てさせられました」
そう語るアウグストの表情は、言葉の割に何故かとても楽しそうだった。慌てるどころか一緒になってはしゃいでいたのではないだろうか。
きっとエリアスはそんなレジーナとアウグストに呆れたり苦笑して、仕方ないなあと言いながら付き合ってくれて――――。
ありありと想像でき、だからこそレジーナは疑問が生まれた。
「ねえ、どうしてエリアスは私をこの世界に閉じこめたの? 私たちは仲がよかったのでしょう? それにそんなことをすれば自分も国も大変なことになることくらい、誰にでもわかるはずだわ」
「……エリアスは昔から、姫を信奉していましたから」
「信奉って……まあ、身体がかゆくなるようなことをさらっと言う人ではあるけど」
「比喩と言いたいところですが、本当にそういう領域なんです。それほど姫に執着している。姫のそばにいるのが、あいつの望みなんです」
眉をひそめるレジーナに、アウグストは目を伏せて言った。
「エリアスが何故あんな愚行をしたのかは、本人が語っていない以上誰にも判りません。ですが、ここはあいつの願望が生んだ世界です。姫を取り巻いていた環境のすべてが、あいつの願いの具現――――この箱庭に囚われていた姫なら理解できるかと」
「……」
この世界の形。
レジーナがつたなくても領地運営に取り組む世界。そんなレジーナを見守りながら、結婚を指折り数えて待つ世界。
それが、エリアスの望み――――。
レジーナは顔をゆがめ、目を伏せた。
エリアスが精神的に脆い人であることはレジーナも知っているのだ。この世界のありようを考えれば、執着するあまり暴走し、己の立場を忘れてレジーナを独占しようとした――――という推測はとても説得力がある。
けれどそれによって生まれるのは嫌悪や恐ろしさより、どうしてそんなことをしてしまったのかという疑問とやるせなさばかりだ。レジーナがこの世界でも覚えていた、エリアスの過去や彼の孤独を癒そうとした記憶は偽りではないはず。彼を大切に思う気持ちがまだあるから、嫌いになんてなれない。
レジーナは胸の前で両手を組むと、アウグストを見上げた。
「貴方はここから逃げる方法を知っているの?」
「はい。そのために俺はここへ来たんです」
力強くアウグストは言った。
「皇帝付きの魔法使いによれば、箱庭を創る魔法には必ず核となる何かが必要なんだそうです。そしてそれは、箱庭世界のどこかにあるはず……つまり、核を壊せばエリアスは魔法を維持できなくなり、俺たちは現実世界に戻れるはずです」
「……」
手段が示され、レジーナは顔を伏せて自分の心に問いかけた。
瞼の裏にいくつもの影がよぎっていく。全身を熱いものが駆けめぐっていくのがわかる。
「わかった。私もこの世界を出るわ」
決意を瞳に浮かべ、顔を上げたレジーナは宣言した。
『姫はここよりずっと広い場所で生きてきて、これからも生きていく方です』
この世界での記憶が紡がれ始めたときから、レジーナはその言葉が欲しかったのだ。
この世界は貴女には狭すぎる、もっと広い世界を求めていいのだ――――と。
エリアスのことは大切だ。けれど、アウグストの熱く語りかけてくる眼差しと沸きたつ心はどうしようもない。早くここから出よう、とレジーナを駆りたてるのだ。
そうだわ、とレジーナはアウグストの手に触れた。
「ねえ、貴方の持ち物を何か一つ貸してくれないかしら」
「はい?」
「私、ずっと身体が重くて頭がぼうっとしているの。人の顔もちゃんと認識できなくて……そういうふうにならないのは、エリアスや貴方のそばにいるときだけなの」
「……!」
「今のまま貴方と離れたら、貴方との約束を思いだすのが遅れるかもしれないわ。でも貴方の持ち物を持っていれば、もしかしたらぼうっとせずに済むかもしれないでしょう?」
ここにいるアウグストはレジーナと同じく、身体から切り離された魂なのだ。ならば彼の持ち物は、いわば彼の魂の一部。持っていれば、彼がそばにいるのと同じような効果が得られるかもしれない。
「……では、これを」
視線をさまよわせて、数拍。アウグストは首にかけていた首飾りを外し、レジーナに差しだした。
「ハルシュタルク王家では、男子は狩りで仕留めた獲物の牙や爪などを使って装身具を作り、自分の武芸を示すのが習わしでしてね。……初めてお会いしたとき、姫はまずこれに興味をお持ちでした」
「……」
ものすごくわかるような気がする。猛獣の牙と宝石をあしらっているのだ。そんな他では見たことのない首飾り、自分が興味を持たないわけがない。
「エリアスには絶対に見つからないようにしてください。あいつなら、俺の持ち物だとわかるはずですから」
「わかったわ」
首飾りを受けとり、レジーナはこくりと頷いた。
「二日後の夜十時の鐘が鳴る頃に、一度会いましょう。昼間にしたいけれど、いつエリアスがお茶会に誘ってくるかわからないし。それまでに、世界の核を城の中で探してみるわ。貴方はそれまで隠れていてちょうだい」
ちょうど、雨も上がってきたところだ。これならアウグストがここを離れてからでも、レジーナは濡れずに城内へ戻ることができる。
そうして、名残惜しそうなアウグストが木立の奥へ去っていくのを見送ったあと。レジーナは城内へ戻った。まっすぐ自室へ向かう。
首飾りをドレスの袖に押しこんで隠し、ばれないよう周囲に気を張りながらも、レジーナの心は晴れやかだった。
首飾りの効果は絶大だった。アウグストやエリアスから離れているのに、思考が明瞭だ。身体が重くもならない。なんて心も身体も軽いのだろう。
だからこそ、気をつけなければ。
使用人や家臣たちの前を通りすぎながら、レジーナは浮つく心を引き締めた。
たまに一人になることがあっても、基本的に女侯爵の生活は人に囲まれている。使用人、家臣、謁見を求めてくる者たち。エリアスの人形である彼らは、レジーナが見慣れない首飾りを持っていればエリアスに報告するだろう。
そのあとがどうなるかなんて、わかりきっている。エリアスは首飾りをとりあげようとするだけでなくアウグストをこの世界から排除し、誰も入ってこれないよう一層世界を閉ざすはずだ。
そしてレジーナとエリアスの身体が死ねば、この世界は二人が永遠に生きる箱庭として完成する。
そうならないためにレジーナは、この世界――――エリアスをだしぬかなければならない。
ぼんやりとした違和感と焦燥感から逃げようと、ぼやけた思考でのんびりと考えていた日々は今や遠い。覚悟がゆっくりと胸に積もっていくのを感じる。
ねえ、エリアス。
レジーナは心の中でつぶやいた。
現実で会いましょう。ここは私たちの居場所じゃない。嘘だらけの関係の中で生きていたって、本当の幸せは得られないわ。
私はもっと広い世界にいたい。重い責務に縛られるとしても、何も知らず騙されるままの子供でいたくないの。
この世界を出ればきっともう、これまでのような形で会うことできないでしょうけれど。
それでも会いに行くから。だから私、この世界を壊すわ。
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