第3話 雨中の使者は告げる・1
だからレジーナは時間を見つけては手足と思考を無理やり動かして、グラッツァート城から抜けだす方法を探している。
逃げられるとは思っていない。変装するための服は手に入れられないし、馬屋を見つけても常に誰かしら詰めているのだ。城門は言うまでもない。これで逃げられるわけがない。
ただ、ここではないどこかへ行きたい、行かなければという心の声がレジーナを突き動かすのだ。思考に霧がかかっていても、いやそうだからこそエリアスのことを忘れて自分の本音がむきだしになっている。
レジーナはそんな、現実を理解しているのに納得せず動く自分を何故か誇らしく思っていた。
「あそこも駄目みたい……となると、あとは城に出入りする誰かと仲良くなるとか……?」
今日も今日とて城の庭をさまよい歩きながら、レジーナはつぶやいた。
こっそり盗めないなら、誰かに手引きしてもらうくらいしか思いつかない。一人で城下を歩きたいけど周りが許してくれないからとか言い訳して、荷馬車にこっそり乗せてもらえればどうにか逃げられるのではないだろうか。
でも誰に手引きしてもらえばいいだろう。レジーナの周囲の者たちに報告しない、できないような者でなければ。
「出入りの商人……? 服とか持ってきてくれるような人じゃなくて、食糧を持ってきてくれるような人とか……」
そのあたりが一番脱出の共犯者によさそうだが、当然城のほうでも部外者に余計なところをうろつかれないよう注意を払っているはずだ。そう簡単に出会えるものだろうか。
「……」
厨房のほうを見つめて数拍。レジーナは厨房のほうへふらふらと歩きだした。
だって、行ってみるしかないのだ。レジーナはここから逃げたいのだから、可能性があるなら試してみるしかない。
だというのに、レジーナが重い足を無理やり動かしだした端から雨が降りだした。ぽつりぽつりといった具合のそれは、レジーナがこの程度ならと歩いているうちにどんどん強くなっていく。
そろそろまずいと、レジーナは辺りを見回した。東屋を見つけてそちらへ走る。
「……?」
不意に身体の変化を感じて、レジーナは目をまたたかせた。
身体が軽いのだ。それに頭の中の霧が晴れていて、すっきりした気分だ。
エリアスが近くにいるのだろうか。走りながら辺りを見回すが、彼の姿が見当たらないのでレジーナは眉をひそめた。レジーナの身体を軽やかにするのは、彼しかいないはずなのに。
東屋に近づくにつれ、柱に重なるようにして誰かがいるのがはっきりしてきた。けれどエリアスではない。彼より大柄だ。
どくん、とレジーナの心臓が強く脈打った。突然のことにレジーナはぎょっとして、思わず足を止める。
「……」
一体今のはなんなのだろう。事故の後遺症は記憶や視覚に関するものだけで、他は健康のはずなのに。
でも、あの大きな背中を見た途端にレジーナの心臓は跳ねた。あそこへ行かなければと、何故か心が急かしている。
強烈な焦燥感に駆られ、レジーナはまた走った。無心に東屋を目指す。
レジーナが東屋に飛びこむと、辺りを見回していた人影が振り返った。
腰に幅広の剣を差した、レジーナと同世代か少し年上の青年だ。黒い髪に黒い目。顔立ちは整っているが、よく鍛えられた体躯に相応の荒々しさがある。
特徴的なのは、首にかけた首飾りだ。黒紐に獣の牙と鈍い光を放つ赤い宝石の粒を通していて、猛獣ともならず者ともつかない容姿の印象を一層強くしていた。
どくん、とレジーナの鼓動がまた一つ跳ねた、
やっと会えた――――――――。
一方。青年の黒い目が大きく見開かれた。
「レジーナ姫」
「っ」
今度はレジーナが驚いた。城主である女侯爵をそう呼ぶ者は、この城にいない。
それに、胸にこみ上げてくる喜びや安堵はなんだろう。エリアスのそばにいるときと似ているけど少し違う、この感情は。
――――もしかして。
「貴方、私の友達なの?」
「は?」
青年は目を丸くした。どうしてそんなことを言うのか、と言わんばかりだ。どうやらレジーナが転落事故に遭ったことを知らないらしい。
「私、事故で記憶を失くしているみたいなの。この城の塔から落ちてしまったせいとかで」
「……エリアスがそう言ったのですか?」
「ええそうよ。貴方、エリアスのことも知っているの?」
「…………ええ、よく」
レジーナが首を傾けると、青年は顔をゆがめてうつむいた。痛みを堪えるようにきつく目を閉じ、両の拳を握る。
数拍して、青年は目を開いた。
「俺はアウグスト・フォン・ハルシュタルク。姫やエリアスとは、六年ほどの付き合いになります」
青年――――アウグストはそう三人の関係を語った。フォン、ということは王侯貴族のようだ。
「俺が何故この城にいるのか話すには、少し時間がかかります。ここは人目につきやすいですし……俺は城の者やエリアスに見つかるとまずいので、場所を改めましょう」
確かにここは廊下に面していないものの、部屋の窓から一目瞭然の場所だ。誰かが雨宿りしにこないとも限らない。女侯爵が婚約者のいる身で得体の知れない男をどこかの部屋に連れこんでいるのを目撃されてもまずい。エリアスが怒り狂って大変なことになる。
「じゃあ、あそこはどうかしら。雨をしのげるし、廊下からは見えづらいと思うわ」
と、レジーナは奥に見える木立を示した。数本の立派な幹の木々が茂るそこは、雨模様の中では薄暗い。幹の裏に隠れれば、誰かが顔を向けても気づかれないだろう。
アウグストは視線を忙しなく動かし、考えるそぶりを見せた。仕方なさそうに短く息を吐くと、失礼しますと断りを入れレジーナの頭上をマントで覆う。
「行きますよ」
言うと、アウグストは小走りに東屋を出た。彼が傘代わりにしてくれるマントに守られながら、レジーナは雨の庭を木立に向かって走っていく。
視界の上に、マントを掴んだアウグストの手が少しだけ映った。大きくてごつごつした、エリアスとはまったく違う手。
これはよくないことだとレジーナは思わなかった。初対面の男を信用する自分を不思議に思いはしたが、彼を信じないことこそ不自然のような気がする。
この人は大丈夫。私の味方だ。
そんな確信がレジーナにはあった。
木立に入ると、アウグストはレジーナを木の幹に隠した。さらにアウグストが幹に手をついて、マントで片方の視線を遮る。これなら遠目には男が恋人と密会しているように見え、ごまかせるだろう。おそらく。
ひとまず安心し、レジーナはアウグストを見上げた。
「貴方は誰? パルティダの人ではないわよね」
「ええ。俺はハルシュタルク王国の第二王子です」
「ハルシュタルク王国?」
レジーナは目を瞬かせた。聞いた覚えがない。そんな国、講義で習っただろうか。
「そして貴女はエイオニル帝国を統べる皇帝の、唯一の御子。帝国の正当な後継者なのです」
「…‥っ」
レジーナは目を見張った。考える前に否定の言葉が口から出てくる。
「何を言っているの? 私はこのグラッツァート領の侯爵で」
そこまで言いかけて、レジーナは言葉を飲んだ。
グラッツァート領はインノチェンテ国の裕福な地方領主だ。では、自分は一体誰から爵位を授けられたのだろう。
今の国王の名は――――。
レジーナは混乱した。
どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろうか。
私は王の御名を知らない――――。
今まで考えたことのなかった事実を認識した瞬間、レジーナはぞっと背筋が凍った。
そう、おかしいのだ。いくら国からの干渉を受けにくい土地柄だとしても、領主であれば今の国王の名を知っていなければおかしい。真っ先に学ぶはずだ。
なのに何故、自分は領地の名しか知らないのか。知らされていないのか。
ここが自分の居場所ではないという気持ちが消えなかったのか。
その理由は、自分は女侯爵ではないからだとしたら――――?
「――――っ」
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