第2話 靄の中の甘やかな日々・2
領主としての教育が身についていないレジーナには、学ぶべきことがたくさんある。政治、歴史、経済、地理。公務も少しはある。教師の都合で時間が空くことはたまにあるとはいえ、なかなか多忙な日々なのだ。
しかしそんなレジーナの毎日を不満に思っているのが、暇を持て余した異国の婚約者だ。
『君はここの領主なのだから勉強が大事なのは当たり前だけど、婚約者が君に構ってほしくて仕方ないことを忘れないでほしいな』
講義が休みのとき耳聡く聞きつけてお茶会に誘ってくるし毎日朝食と夕食は一緒なのに、エリアスはそんなことを言ってレジーナとの時間を過ごしたがる。レジーナはそのたびに、かゆい思いをしなければならないのだった。
「でも城下ならともかく、野遊びで護衛がいないのは不用心ではないかしら。賊が出たという報告はあがってきていないとは言っても、いつ現れるかわからないし」
今日は郊外へ遊びに行こうと誘われ、侍女たちに飾りたてられたあと。白馬を走らせるエリアスの腕の中でレジーナは言った。
護衛に守られていない見るからに裕福そうな若い男女なんて、賊からすれば格好の餌でしかない。いかにも強そうな外見をしていないなら、なおのことだ。
私がいれば充分じゃないか、とエリアスは笑った。
「ここは平和そのものだし、もし賊が出ても私が魔法で捕らえればいいだけさ。君に指一本触れさせないよ。私だけじゃ不安かい?」
「そんなことないけど……」
不安があるとすれば、一人残らず始末してしまう可能性があることくらいか。そのくらい、この王子には簡単なのだから。
魔法の研究が盛んなことで名高いパルティダ王国の王子らしく、エリアスは強大な魔力を自在に使いこなす魔法使いなのだ。剣技はあまり得意ではないそうだが、強力な魔法がそれを補って余りある。
だからレジーナは何も不安に思わずエリアスを任せていればいいのだろうが、丸腰で二人きりだという視覚的な無防備さはやはり心もとなくなるのだ。せめて一人くらい、腕のたつ護衛がいればいいのに。
やがて二人の前に、湖が見えてきた。森と山が背景にあって、色の調和も含めて絵画のように美しい。
「綺麗なところね。何もかもが素敵」
「気に入ってくれてよかった。こういうのを君が好みそうだと思ってね」
レジーナが感嘆の声をあげると、嬉しそうにエリアスは言った。
「どこかへ行きたいなら、いつでも私に言ってほしいな。君が望むなら、どんな場所へでも連れて行ってあげるよ」
「そうね、貴方に頼むわ。ありがとう、エリアス」
くすりと笑い、レジーナは微笑む。エリアスは一層喜びで頬を染めた。
湖畔で馬の足を止めたエリアスは先に下りると、レジーナが下りようとする前に腰を掴んで下ろした。一見すると優男なのに、レジーナの身体を支える両腕は思ったよりもしっかりしていて揺るぎない。
自分で下りようと思ったのに。もう、とねめつけてもエリアスは笑って流すのだから、レジーナは心の中で息をつくしかない。
「さて、心配性のレジーナのために一仕事しないとね」
エリアスは笑うと、前に腕を伸ばした。
途端、場の空気が変化した。圧迫感と風がエリアスを中心に生まれる。
「壁よ、我らを守護せよ」
エリアスが詠唱すると、半透明の半円がレジーナとエリアスを包んだ。一瞬金にきらめき、ふっと消える。エリアスの魔力の残滓も感じられない。
これで何が起きても大丈夫だ。エリアスの魔法がどれだけすごいのか知っているレジーナは、安心して湖畔に腰を下ろした。
「ああ疲れた」
とエリアスは、レジーナの隣に座るどころかごろんと横になった。レジーナの膝にエリアスの頭が転がる。
「ちょっと」
「いいじゃないか、婚約者なんだから。仕事をした私に、褒美をくれてもいいだろう?」
レジーナが咎めても気にせず、エリアスはレジーナの手をとって頬ずりする。まるで小さな子供だ。
「剣胼胝のある手なんて、頬ずりしても痛いだけだと思うけど」
「愛しい君の手なのに、痛いわけがないじゃないか」
そう言って、エリアスはレジーナの指先に口づける。思わずレジーナは手を引っこめようとしたが、エリアスは放してくれない。
平常心、平常心。このくらい、いつものことなんだから。
顔を赤くしながらレジーナは自分に言い聞かせた。これがエリアスの当たり前なのだ。いい加減に慣れないと。
貴族令嬢らしからざることだが、レジーナの手には剣胼胝の痕がいくつもある。護身術ではない程度まで何年も武芸に励んでいた証拠だ。レジーナの身体つきも鍛えた筋肉が全体についているので、美女の条件に必須な華奢とはほど遠い。鹿のようにしなやか、とエリアスは表現してくれるのだが。
ともかく、転落事故の前のレジーナは武芸に励むお転婆娘だったのである。しかし今は勉学の講義があるからと、稽古をさせてもらえていない。それどころか剣も自室にはないのだ。かろうじて、ミネルヴィーノ家の紋章が刻まれた短剣があるだけだった。
レジーナが抗議を諦めたのに気をよくしてか、エリアスは自分の手を絡めたりしてレジーナの手で好き勝手に遊んでいる。その顔の、楽しそうで嬉しそうなこと。
この手を気に入るのって、変わり者すぎるわよね。
呆れ交じりの気持ちでレジーナが見下ろしていると、エリアスは気づいてレジーナに微笑みかけてきた。とろけるような甘みが瞳からにじむ。
甘い言葉にはそこそこの耐性があっても、これは無理だった。レジーナは慌てて目をそむける。くすくすとエリアスの笑い声が聞こえてくるのが、一層いたたまれない。
「君になら、穴が開くくらい見つめられたって構わないけどね」
「貴方に穴が開いたら、誰が貴方を縫うのよ」
「君が縫ってくれるだろう?」
にっこりと満面の笑みで、エリアスはレジーナを見上げた。手を伸ばし、今度はレジーナの髪の毛先をもてあそぶ。
ああもう、好きにしてちょうだい。
レジーナは今日も心の中で降参した。この王子様には一生勝てる気がしない。
エリアスがレジーナに甘えるような振る舞いをすることは、今に始まったことではない。以前から時折、あくまでも紳士的な範囲ではあるが触れたがり、そばにいたがる。そして縋りつくような目でレジーナを見つめるのだ。
行かないで、おいていかないで――――と。
それはおそらく、彼の過去ゆえなのだろう。レジーナは転落事故で多くのことを忘れてしまったが、エリアスの境遇については覚えていた。
彼は側室の子で母を早くに亡くし、父の愛情も兄弟との絆も満足に感じられない環境で育ったのだ。ただ王子として魔法使いとして、国の役に立つことを周囲に望まれていたのだという。
『まあ、厳しいと言っても出来がよければ褒められましたし、第三王子はこういうものだと思ってましたからね。特に何か思ったことはないですよ』
幼い頃、どういう経緯だったか覚えていないが境遇について教えてくれたことがあって、エリアスはそうレジーナに淡々と答えていた。その後異国行きを命じられレジーナと引き合わされたことについても、特になんとも思っていないようだった。
けれどレジーナはエリアスが近寄りがたい孤独をまとい、光のない目をしてぼんやりと一人空を見ていたことを知っていた。二人で過ごす最中にそうした様子を見ることもあった。
彼はさみしさを抱えている。けれど自分では気づいていないのだ。あるいは、自分ではちゃんとできているつもりか。
それはとてもつらいことではないだろうか。それにレジーナもさみしい。賢くて優しいエリアスのことが、レジーナは大好きなのに。
だからこの人といて、一緒に楽しいことをしてあげよう。そうすれば、もっと素敵な顔で笑うようになるはず。
幼いながら、レジーナはそう強く思った。
そうしてレジーナは、なるべく彼に声をかけるようにした。一緒に遊びに出かけたり、勉強を教わったり、贈り物をしたり。周りの者たちも、レジーナが異国の王子と親しくなることを喜んだ。
そうして次第にエリアスから孤独の闇は遠ざかり、進んでレジーナのそばにいてくれるようになったのだ。
『だって姫は、私に光と人のぬくもりを教えてくれましたから』
春の庭で、エリアスはそう十一歳のレジーナに笑いかけた。
『姫がたくさんそばにいてくれたから、私はやっと血が通う人になれたんです。それまでの私は人間のなりそこないだったけれど……姫が人間にしてくれたんです』
ありがとうございます――――と。どこか泣きそうな顔で言っていたことを、レジーナはよく覚えている。当時のレジーナは、どうして彼がそんな顔をするのか不思議だったものだ。
今なら、レジーナに本当に感謝していたのだとわかる。レジーナのつたない思いやりは彼の心に届き、二人の強い絆となったのだ。
そう考えると一途に愛される息苦しさだけでなく、この人を大事にしてあげないと、というあたたかな気持ちがレジーナの胸に灯るのだ。
「君は僕の女神。どんなに傷ついてばらばらになっても、君がいれば私の傷は癒えるんだよ」
言葉と共にじわりと、甘い笑みに別の色が混ざっていった。ひたむきと表現するには激しい感情がレジーナを焦がす。
レジーナは胸が詰まった。
転落事故のあとからずっと、レジーナは戸惑い続けている。あの城を自分の居場所だと思えない一方で、エリアスのそばこそ自分の居場所なのだとも感じているのだ。彼のそばを離れなければと思うことへの罪悪感も消えない。
こんな中途半端な気持ちで結婚していいのだろうか。だが王侯貴族の結婚は家と家の結びつきだ。ましてやエリアスに非があるわけではない。レジーナの気持ちが追いついていないだけなのに、我が儘は許されない。
逃げたい。けれど逃げられない。
幸せな箱庭は、こんなにも息苦しい――――――――。
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