第一章 私の世界の形
第1話 靄の中の甘やかな日々・1
かゆい。
レジーナ・ミネルヴィーノは、身体のあちこちを今すぐかきむしりたくなった。
だってかゆいのだ。いや別に虫に刺されたとかそういうのではないのだが。
でもかゆい。
「ああレジーナ。そんな顔をしないで。美しい君にそんな顔は似合わないよ」
美しく整えられた庭に用意された茶会の席で、テーブル越しの前に座る青年がそんなことを言ったからだ。
レジーナよりいくらか年上。明るい金の髪に鮮やかな青緑の瞳。穏やかな笑みを湛えた顔立ちはどこの部品を見ても端正だ。白を基調に金の刺繍が施された上等そうな身なりも、貴公子といったふうである。
それもそのはずで、彼は海上交易が盛んなパルティダ王国の第三王子なのだ。エリアス・デ・パルティダ。レジーナの婚約者でもある。
レジーナは眉を下げた。
「でもエリアス、私の仕事なのよ。今でも任せきりなのに全部ベルツィーニ卿に任せてしまうのでは、私が領主をやっている意味がなくなってしまうわ」
「仕事の何もかもというわけじゃないよ。君に謁見を望む者たちに会ってやったり町を視察するのは、今までのようにすればいい。書類を裁くのだけベルツィーニ卿に全部任せて、あとから報告を聞けばいいんだよ」
とエリアスは甘い笑みを浮かべた。
「ベルツィーニ卿は真面目な人だし、仕事を任せても間違いはきっと起こさないよ。こうして二人きりでいられる時間も増えるだろう? それでいいじゃないか」
「それが問題なのよ……」
そう、それが色々と問題なのだ。半人前が中途半端に領地運営をするより、はるかにましだとしても。
レジーナは心の中でため息を吐き、紅茶に口をつけた。
今はこうして優雅に婚約者と茶会をしているが、レジーナには本来もっと仕事がある。すでに親から侯爵の称号を継いでいて、このグラッツァート領の領主なのだ。
だが、十六歳の小娘がそう簡単に領地を統治できるはずもない。そのため実務の大半は有能な家臣に任せ、一部の公務だけをどうにかこなしている。
そうして日頃は領主としての勉強に励み、少しだけ領主の仕事をして、その合間に婚約者と二人きりの時間を過ごすのがレジーナの日常なのだった。
半人前領主なのだから仕方ないとはいえ、それがどうにも不甲斐ない。だからつい不満じみた愚痴をエリアスにこぼしてしまった。
すると彼は言ったのだ。
それなら必要なことを学び終えるまで、いっそ公務を全部家臣に任せてしまえばいいじゃないか。美しく清らかな君に、公務なんて面倒なことは似合わない――――と。
そこで何を言っているのと眉をひそめれば容姿への賛美まで加わるのだから、身体がかゆくなるのは当然だろう。レジーナはそんな歯の浮く言葉にぽうとなる娘ではない。
ともかく、と弱音を吐いてしまった自分に喝を入れるためにも少々きつめにレジーナは言った。
「領主の仕事は続けるわ。書類仕事はやらなきゃ慣れないもの。勉強したことや謁見で聞いたことを仕事に活かすことができるのは楽しいし」
「そう。なら仕方ないけど、たまには私に構う時間をとってほしいな。私には君が必要なのだから」
「……暇そうな貴方には城下の視察をお願いしたと思うのだけど、もう少し遠方まで足を伸ばしてもらったほうがいいのかしら」
半眼になってレジーナは半ば本気で言う。婚約者に領主の仕事を頼むことはできないが、情報収集くらいなら許されるはず。美味しい菓子や紅茶をゆっくり堪能する茶会という誘惑を退けるためには、この王子をどこかへ追いやらないといけない。
「ひどいなレジーナ。君の仕事を手伝えるのは嬉しいけれど、婚約者である私を邪魔者扱いかい?」
「だって暇そうだもの。貴方は私の婚約者だからここにいるだけで、やることがなさすぎて退屈しているのではないの?」
「退屈と言えば退屈だけど、君に会えるまで我慢をすればいいだけだからね。特に退屈ではないよ」
「…‥そう」
にっこりと麗しい笑顔で言われ、レジーナは力が抜けそうになった。
エリアスはいつもこうだ。レジーナに対して甘く、悶絶させるようなことばかりを言う。本気でそう思って口にしている節があるあたり、質が悪い。
幸運というべきか、ちょうど侍女が小走りにやってきた。一礼すると、レジーナに次の予定の時間がきたことを知らせる。
エリアスは不満そうな顔をした。
「もうそんな時間か。幸福な時間は、本当に過ぎるのが早い」
回数は多いけれど。レジーナは心の中でつぶやいた。また身体がかゆくなることを言われそうなので、口にはしないが。
ともかく、今日の茶会はこれでおしまいだ。ほっとするような、名残惜しいような気持ちでレジーナが立ち上がるとエリアスも続いて席を立つ。
「じゃあね、レジーナ。また夕食のときに」
言って、エリアスはレジーナの頬に口づけた。これにはレジーナもさすがに顔を赤らめ、眉を下げる。婚約しているのだから当然とはいえ、どうにも慣れない。
爽やかな笑顔で見送ってくれるエリアスから離れ、侍女を連れ歩いてしばらく。レジーナは身体が少し重くなったのを感じた。
それだけでなく、うっすらと霧がかかったように思考がさまよいだした。頭の中がぼんやりとして、上手くものを考えられなくなる。
廊下を歩いていると、銀の食器を運んでいる使用人たちと行きあった。使用人たちはさっと廊下の端に身を寄せ、頭を下げてレジーナが通るのを待つ。
磨きあげられた銀の食器に、レジーナの横顔が一瞬映った。
赤茶色の髪を腰の半ばまでまっすぐ垂らした、新緑色の瞳の少女だ。背丈は侍女たちよりもやや高く、肌も少々焼けている。ドレスを着ていなければ、裕福な領地の女領主だとは誰も思わないだろう。
そんなレジーナの横顔には、隠しようもない疲労と虚無が浮かんでいる。今に限らず、常に。しかし誰も気にしない。
本当にこれ、厄介――――。
散漫な思考の中、レジーナは嘆いた。
このレジーナの倦怠感は、今日に限ったことではない。ずっと前から繰り返されている。一日の大半がこの状態なのだ。
自室で学者や家臣から講義を受けているあいだもずっとこう。それでいて講義の内容はきちんと帳面に書き留められていて、質問されても答えているし、講義が終わったあとも理解できている。
頭の中の霧が晴れて思考が明瞭になるのは唯一、エリアスと共にいるときだけ。他のときはせいぜい、少しばかり思考がはっきりする程度でしかない。日常生活にそれほど不便をもたらすわけではないとはいえ、まったく不思議な現象だ。
もっとも、おかしなことはそれだけではないが。
ふわふわした思考の中、今日もレジーナは講義を受ける。今日は政治史についてで、城下の学者が教師だ。
けれど、その顔立ちがどうにもはっきりしない。前髪が後退していることや白い髭が山羊のようだというのはわかるのだが、肝心の目鼻立ちが認識できないのだ。
彼だけではなく、この城にいるどの侍女や家臣もそうだ。謁見しにきた者たちも皆、レジーナにはどんな顔をしているのかわからない。
エリアスだけは、誰もが思い描くきらびやかな王子そのままの端正な容姿を認識できるのに。
『だって私は君の婚約者なんだよ? 当然じゃないか』
そうエリアスは笑って言い、寝台から身を起こしているレジーナの手を握った。
城付きの医師も、まれですが起こりうることですと言っていた。
エリアスの話によると、レジーナは数ヶ月前にこの城で転落事故に遭ったらしい。そのせいで記憶をほとんど失くすだけでなく、視覚にも影響が出ているのだろうとのこと。外傷は魔法で痕跡を残さず治療できたものの、脳にできた傷は優れた魔法使いでもどうにもできなかった――――という話だ。
今のレジーナは一般常識や礼儀作法、魔法についての基礎的な知識を知っているだけの、世間知らずな子供のようなものなのである。
領地の歴史や地理を重点的に教師から教わっているのも、すべて忘れてしまっているからだ。領地のことを知らずに領地運営はできない。
けれど、レジーナの心は違うと叫ぶのだ。
ここは違う、と。
なのに身体は心を無視して規則正しく一日を過ごしていく。起きて、食べて、学んで、公務をこなして。エリアスとの二人きりの時間を過ごし、顔が判然としない侍女に整えてもらった寝台で眠る。
エリアスは紳士で、結婚前だからとレジーナの部屋に立ち入ろうとしない。外でも節度をもって触れてくる。そんなエリアスを侍女たちは褒めそやし、レジーナを羨ましがった。家臣たちも結婚式を心待ちにしている。
何の不足もない、若い女侯爵の人生だ。この奇妙な体質が難であるが、きっとどうにでもなるだろうというぼんやりした自信もある。
それでも。
ここは私がいるべき世界じゃない――――――――。
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