メイドとランベリーは、窓ガラスから柔らかな光が注ぐ廊下を歩いている。歩くランベリーの視線は忙しなく宙を泳ぎ、彼はどこからどう見ても緊張していた。


 ポミエ公は俺を娘と会わせようとしていたけれど、急に話す事になって娘は嫌じゃないのだろうか。ご婦人へのご機嫌取りは経験で身に付いているが、それは自分より年上の、成人した働く女性たちに適応する対応法だ。同じ事を神経質なお嬢様にしたら、彼女を不機嫌にする自信しかない。


 立ち込めた不安がいっぱいで、部屋に着くまでランベリーはメイドの後ろをついて行く事しかできなかった。


「マリアンヌ様に話を通してきますのでお待ちください」


 扉の前にランベリーを残しメイドが部屋へ入る。扉の隙間から見えた部屋にはテーブルや食器棚が置いてあった。


「どうか放り出される事にはなりませんように」


 ランベリーは廊下の端に立って待つ。もし人が通ったら不審に思われないかと、ポミエ公の前にいた時以上に落ち着けなかった。

 ランベリーは今まで、偉い人とは兄を通してしか接した事がない。礼儀作法もおべっかも、兄に任せれば全てどうにかなっていたから何もしてこなかった。

 もしこの廊下で待っているのが兄だったならそれらしく見えただろう。ここにいるランベリーは異物のように浮いている。ランベリーは廊下でメイドを待つ間、ずっと隣にいて気付けなかった兄のありがたさを実感していた。


「マリアンヌ様から許可が下りました。どうぞ、お入りください」


 にゅっと部屋からメイドが出てくる。ランベリーは緊張が破裂し思わず叫びそうになった。


「ひっ――ええっと、お邪魔します」


 ゆっくりとした足取りで部屋に入る。中央にはテーブル一つと椅子二つがあり、どちらも貝殻のように白くツルリとした上品な色をしていた。椅子の座部と背中背もたれにはたっぷり詰め物が詰められ、淡い色の花が大きく描かれた布によって覆われている。

 奥側の椅子に彼女は座っていて、ランベリーを見ると血色の悪い顔でにこりと微笑んだ。


「初めまして、ランベリー様。この度はわたくしの暇つぶしに付き合ってくれるようでありがとうございます。私はシャルルの娘マリアンヌ・ポミエ、マリアンヌとお呼びください」


 マリアンヌは色の白い、儚げで、触れれば折れてしまいそうな華奢な少女だった。ゆったりとした若草色のワンピースの上にカーディガンを羽織り、幻想的に微笑む少女はランベリーに座るよう促す。


「ランベリー、です。ええっと兄と一緒に絵を描いてまして、退屈してましたら依頼人様……ポミエ公様のご厚意でマリアンヌ様のお話相手になりました」


 部屋にある簡易式キッチンで何かしていたメイドは、机の上にティーカップを二つ置いた。緑がかったカップの中、気高い紅茶の匂いが湯気と共に漂ってくる。


「ランベリー様は普段どのようにして暮らしていらっしゃるのでしょうか。私、色々な方の生活を聞く事が大好きなんです」

「ええっと」


 普段の暮らし。何が言ってよくて、何が言っていけないか。黙って考えるのも失礼だ。口調にも気を付けろ。様々な事がこんがらがり、もうランベリーは限界だった。


「普段の暮らし、ですか。わたくしめは大抵街の小劇場かラハート通りで売るための絵を描いてますね。あそこは綺麗な女優や娼婦がいるもんでして、綺麗な女人を描くとそれを欲しがる人が沢山出てくるんでございます」


 ラハート通りとは、俗に色通りとも呼ばれる娼館が並んでいる通りである。

 もしこの場にジョンブールがいたらあまりの内容に放心していたかもしれない。世間知らずそうで気が弱いと思える彼女に「綺麗な女性を描いて売っています」と正直に言って失神したらどうするんだ。こう小声で伝える事だろう。


「夕方はあちら側も忙しい時間になりますんで描く事は終わりますね。なんで、酒場や賭博場で描いたのを買う奴がいるか見たり、兄さんが持って来た挿絵の依頼なんざをしたりします。

 窓から明かりが漏れると文句言う奴もいるんで明かりを出す魔法だけじゃなく明かりを漏らさない魔法まで上達してしまいましたですよ」


「夜遅くまで描いているのですね。いつまで起きていますの?」

「んー、寝る頃になったら兄さんが無理矢理寝かしつけに来るんで、自分がいつ寝ているのかは知らんですねぇ。朝はきっかり同じ時間に目覚める、ますんで、今度は俺が兄さんを起こして朝の支度と画材の確認をするでございます」


「画家さんは朝食べるのでしょうか」

「もちろん。昼食えるか分かりませんし、朝は兄さんが何か作って用意したのを食べますね。兄さんが熱でぶっ倒れた時は見様見真似で俺が作りましたが、やっぱ絵を描く事以外は俺に向かないようでした。食えはするけどなんか微妙な感じの、お嬢様だったら食べた事のないような出来ですよ」

「まぁ! 確かに焦げたり中に火が通っていなかったりする物は聞いた事しかありませんわね。そういうのを料理人に狙って作らせる事は彼らにとっては耐え難いみたいで、食べてみたくても食べる事もできないのです」

「はっはは、お嬢様に焦げた料理なんか食べさせられねぇからな! ……ですな。すみません」

「そこまでかしこまらなくとも構いませんよ。私はそこまで偉くないですから」

「ありがとうございます、えーっと、お言葉に甘えさせていただきますです」



 マリアンヌはランベリーの話に時折質問し、楽しそうに反応を示していた。酒場であった喧嘩のまさかの原因には驚き、訪問した町で兄が迷子になった話をすれば無事再会できた事に安堵し、ランベリーの小さな失敗話では面白そうに笑ってくれた。


「私、使用人とか領地にいる方々とか、色々な人の暮らしている姿を見る事が好きなんです。けれど私体が弱くって、通り雨に降られてしまっただけで熱を出すのです。数日前もそれで体調を崩してまして……なので、ランベリー様がお話に来てくれて本当に嬉しかったんですの!」


 別れ際、話し終えた兄達が迎えに来た時にはこう言っていたのだから、マリアンヌとランベリーの会話はきっと上手くいったのだろう。最初は緊張したがランベリーも楽しかった。


「マリアンヌ様が楽しく過ごせたようで。私からも感謝します」


 廊下に出たメイドは余計な事は言わずそれだけを告げる。ジョンブールはランベリーが初っ端から娼婦の話をしたなんて全く思わず、「頑張ったな」と弟を存分に褒めるのだった。

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