夕飯を食べ終えたアネットは、外の空気を感じたくて家を出た。

 冷たい風が頬を撫で、シンと静かな夜が高まった気持ちを穏やかにさせる。


「《灯りを灯せ、ライト》」


 アネットは魔法で出した光球で足元を照らし、家の回りをぐるっと歩く。歩きながら考えるのは神託者の事だ。

 神託者ともっと話をしたい。ここを出てもアネットの事を覚えていて欲しい。アネットをアネットと認識して会話して欲しい。

 望みはぽんぽん湧いてくる。もし叶うならと前置きする絵空事は思うだけで楽しい……街で生まれたらと思ったり、クリスタリアに招かれたらと想像したみたいに。


「どうせ、無理だしなぁ」


 アネットは退屈な村の人間で、綺麗でもなく賢くもなく魔法が優秀な訳でもなくて。そんなただの少女が、どうやって各地を歩いた青年の記憶に印象を残せるだろう。

 アネットに得意な何かはあっても、もっと優れた人が沢山いる。だからそれを生かそうとしても上位互換がいて、アネットは特別な何かでは全くない。


 家の裏を歩く。雨の日も剣を振っていた兄を思い出し懐かしくなった。

 嵐の時も外に出ようとして止めるのに苦労したんだっけ。剣に関わる決まり事を作ったのは大変だけど楽しかったなぁ。


「…………あれ?」


 月に照らされるアネットの影が、木の扉にはっきりと浮かぶ。アネットの家の壁にある木の扉。アネットの記憶ではここに扉なんてないのに。


「……」


 ごくり、と、唾を呑む。扉を凝視したまま慎重に二歩進んだ。家に隠された重大な秘密、新たなダンジョンの発生、様々な可能性が次々浮かんでくる。

 扉の先に危険があるかもしれないと考える前に、アネットは扉を開けた。


 *


「こんばんは」


 甘い花の香りが僅かに漂う。橙の灯りが照らす彩り豊かな部屋。見た事のない品々が並ぶ中、ヴェールで目元を隠した女性がアネットに向けて微笑んでいた。


「ここは、どこですか?」

「ここは不思議なアイテムのお店よ」


 バタンとアネットの後ろで扉が閉まる。扉が勝手に閉まった事へ恐怖を感じても、この先何が待っているかのわくわくでアネットの目は輝いていた。


「あたし、家にあった扉を開けてここに来たんです。どうやったんですか?」

「ふふ。そういう巡り合わせだったから店に招かれた、と言うべきかしら」


 店主はクスクス楽しそうに笑う。誤魔化されている気がするが非日常に興奮するアネットは気にならない。

 キラキラ摩訶不思議な品々を眺め、心を子どものように弾ませ――アネットは、今、お金を持っていない事に気付いた。

 店で買い物をするにはお金が必要だ。顔なじみでもないのだからツケておく事もできない。家に戻って財布を取ってきたとて扉が残っている保証はないし、それに、少し冷静さを取り戻した頭で考えてみれば、アネットは自身の持つ財産でこれらの品を買える気がしなかった。


「今、お金持ってないのですけれど、何を払えばいいですか」


 恋人を救うため黒の神悪意に恋心を払った男の御伽噺もある。ここは不思議なお店なのだから何か別の物が対価になっていてもおかしくない。


「残念ながら、このお店では他のお店と同じ方法でやり取りをしているの。あなたの場合は貨幣での売買ね」

「そう、ですか」


 無理なようだ。せっかく、何かになれそうな機会だったのに。期待させられただけかと涙が出そうになる。


「……でも。お金を持っていなくても、あなたは私の店に招かれた。これも何かの縁でしょう。好きな物を一つだけ持って行っていいわよ」

「え!」


 堪えていた力が抜け涙が一滴頬を伝う。歓喜と驚きの目でアネットが店主の顔を見ると、黒紫の紅が塗られた唇が曖昧に微笑していた。


「ここで会うべき運命を取れるかはあなた次第。何か聞きたいことがあれば答えましょう」


 会うべき運命が何なのかは知らない。分からないが、その言葉について考えるよりも、特別な場所で何かを得られる事実の方がアネットにとっては重要だ。


「ありがとうございますラフォル様……!」


 幸運の神へ感謝の言葉が口から出る。店主は一瞬何かを考えたが、愉快そうにまた唇が笑みの形に戻った。



 店主は様々な品をアネットに紹介した。理想の美人になれる首飾り、好きな人の一番好きな人が分かる手鏡、会話がうまく運ぶ口紅や魔法の才能を得られるガラス玉。

 アネットが持っていない様々な何かを得る手段がこの店には沢山ある。どれもこれも魅力的に感じるが、いきなりそれを得られるかもとなるとどれがいいと決まらない。


「あ、これは何ですか? とても綺麗な絵ですけど」


 棚に並んだ数冊の本。重厚で埃のにおいがしそうな厳めしい本達の中、緑や青が鮮やかな紙束がアネットの目を惹いた。


「それはランベリーによる暦本写本よ」

「……えっと?」

「ランベリーって人が作った暦本……一年間の風景や行事を描いた本、を写した物よ」

「なるほど」


 つまり(アネットについてなら)春や冬の景色があったり豊穣神へのお祭りを描いたりしている物なのだろう。豪華な色をしているしお金持ちの一年を描いているのかもしれない。


「見てもいいですか?」

「どうぞ」


 書見台に移された本に震える指で触れ、深呼吸し表紙をゆっくり捲る。アネットは豊かな色彩と緻密な線に驚き、感動し……そして数枚目を捲る頃には首を傾げていた。


「村の暮らしと一緒?」


 暦本の中に豪華な家や華美に着飾った人はどこにもなく、あるのは畑に家畜等自然に溢れたアネットにとって馴染みある風景――農民の一年だ。


「ランベリーは農民や町民などを描く画家として知られていてね、これは彼がそうなったきっかけの品なの」


 最後のページまで辿り着き再び最初のページへ戻る。アネットは画家について知らないが、農民の姿を描いた物を欲しがる人がいると思えなかった。


「農民なのに描くのですか?」

「彼らを描いてもらいたかった人がいたのよ」

「ふーん…………あれ」


 楽しそうに眺めていた視線がある一点に留まる。収穫祭での踊りが描かれていて、アネットはその中で花冠をつけ踊る少女を注視していた。可愛らしいがこれといった特徴のない一人である。


「……」


 アネットは前のページに戻ったり、何かを見つけて他のページに進む。

 そして、確認するように呟いた。


「この女の人だけ全部の絵にいる」


 大勢の村人の内一人だった少女。だが、よく見てみれば、普通の少女は全ての絵にいる不思議な女の子に変化した。


「あら、よく気付いたわね。彼女がこれの原本の持ち主だった人よ」

「え、この人が?」

「描かれている子とは違って農民ではないけれどね」


 農民ではない女の子がわざわざ村の一員として描かれている。それも、全てのページにいると気付かなければ埋没してしまうような風景の一員として。


「ランベリーって人怒られなかったのかな」

「あら、どうしてそう思うのかしら?」

「この人本来はお金持ちなんですよね。なのに、特別扱いもせずあたし達と同じ姿で描いて」


 スカートをはためかせ大きな口を開けて笑う少女。彼女の立場ならもっと鮮やかな花の冠を被る事もできたはずだ。大勢の中の一人ではなく、堂々と真ん中に描いてもよかったのではないだろうか。


「ふふ、どうかしらね。でも、ランベリーが彼女に贈った時彼女はとっても喜んだらしいわよ」


 本を閉じる。この本を渡された時の彼女がどうして喜んだのか。アネットには分からない。絵の中の彼女は明るく生き生きしていたけれど、わざわざこんな形でなくてもいいと思うのだ。


「あたしが街に憧れるように、街の子は村に憧れているのかな」


 店主は暦本を棚に置こうと持ち上げる。暦本の力強い彼女を思い、アネットは声を出していた。


「それ、持っていきます」


 アネットの明るい声に店主は曖昧に微笑む。特別綺麗な訳でも特徴がある訳でもない彼女。彼女は全てのページにいる事で、一瞬で見つけられる程の印象をアネットに残した。

 カウンターの上に本が置かれる。これを手に入れる事で特別な何かになれる訳ではない。でも、アネットは、そんな特別でない自分への自信が彼女を通じ生まれるような気がした。


「これはランベリーによる暦本写本。持ち主への健康と幸せを祈って作られた本。……はい、どうぞ」

「ありがとうございました」


 暦本を手に木の扉を出る。花の匂いは消え夜の土のにおいが出迎えた。

 アネットは本を持ったまま家の裏にいる。後ろを見ても木の扉はどこにもなかった。



 アネットは、特別美人でも魔法が優れている訳でも賢くもない少女だ。ぱっと印象らしい印象もない女の子だ。

 でも、アネットの兄はアネットがいたらすぐ気付くだろうし、村のおじいちゃん神父もアネットと言われればアネットの姿をすぐ思い浮かべるだろう。特別な何かがなくっても、アネットはアネットだと認識されるのだ……暦本の彼女をアネットがすぐ見つけたように。


 ――どうか、アネットの事が神託者さんの記憶に残りますように。


 そんな祈りと希望を暦本の彼女に込め、アネットは星空を見上げる。




【ランベリーによる暦本】

 画家ランベリーによる暦本。農民の一年を絵と共に記している。


 これの持ち主は大人になるまで滅多に病気にならない。しかし効果はささやかなものである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る