二話「恋する少女とある少女への暦書」 一
オーツ王国にある一つの村、人が暮らす場より畑が広がる、オーツではありふれた所。アネットはそこで生まれ今も暮らしている。
アネットは心の底から村を出て都会に行きたいと思っていた。アネットにとって村の生活はとても退屈だ。朝起きて家畜の様子を見て飯を食い労働し空いた時間に魔法の鍛錬をしたら家事を手伝い眠る。小さな変化はあるが変わらない景色や行動。
娯楽は自然や体を使った物しかなく、豊穣神への祭りと稀に訪れる旅人との会話、商人からの買い物ぐらいしか楽しみがない。
アネットは村の外に憧れていた。村から出れば、平穏な退屈から抜け出させてくれるのではと希望を抱いていた。
アネットは都会に憧れている。しかし、村から出ていく事は簡単な事ではない。村において労働力は最も重視されるステータスだ。
ありふれた少女であっても、ただの憧れ程度では村を離れられる理由にはならない。労働力の減少を跳ね除ける特別な何かでない限り、アネットが村の外で生きる事は叶わないのだ。
だからアネットは自身の魔法に村を飛び出す理由を託した。
アネットは同年代の他の子より魔法が得意だ。遠いクリスタリア魔法都市の学校は優れた才能の者を自らスカウトしに行くという。アネットが優秀な魔法使いであればクリスタリアが迎えに来てくれるのではあるまいか。
クリスタリアで学べる事は、議論する必要すらなくこの村を出る理由になる。
クリスタリアの魔法使いが来てくれる事を夢見てアネットは魔法を努力した。友人も遊びも削ってできる限りの努力をした。
……アネットは、ちょっと魔法が得意な
もうクリスタリアから声を掛けられる事はないだろう。そう分かっていてもアネットは未だ魔法の鍛錬を続けている。
*
「兄貴……」
今日のアネットは泣きたい気持ちだった。村からちょっと歩いた所にある森の中、アネットは一人木の下に座っている。太陽が天辺を通り傾いている午後の頃。任せられた仕事は手早く魔法で済ませてきたから呼び出される事もない。
三日前、兄が村を発った。アネットが魔法使いとして兄に着いて行く事は叶わなかった。
静かな家。嫌な顔せず都会への思いを聞いてくれた兄の不在。無気力感が手足を重くし、ただでさえ薄暗かった日々は単調な灰色と化している。
兄が出ていく前はこんな気持ちでなかった。
兄は剣と共でなければ心が死んでしまうのはよく分かっているし、そんな兄を村に置いても悲劇しか招かない事はアネットもよく分かっている。むしろ街からの手紙を頼んで楽しみにしていた。
そして、兄の旅立ちというイベントを終え、アネットは兄のいない寂しさと退屈を実感した。
兄は剣を振らないと生きていられない。アネットは都会に行かなくとも生きていける。
「もしアネットが都会に行ったとしても、やがて飽いて村を懐かしむ事になるだろう」
「兄と一緒に村を出る!」と親と喧嘩した時、言われた言葉にアネットは何も反論できなかった。そうなるだろうと思ってしまった。
一人村に残ったアネットは惰性的に日々を過ごしている。
「何か面白い事ないかな」
クリスタリアの望みを絶たれ兄のいなくなった村での暮らしは退屈だ。同年代の女友達は誰がカッコいいだとか誰と誰とが付き合っていたとかの話が好きで話が合わない。兄の方が(表面上は)何倍も素敵だし、人間関係を話すより魔法の練習の方が楽しいのだ。
このままだと嫁ぎ遅れるよとか言われるかもしれないが、それなら相手探しを口実に都会に行ってやる事が可能になる。そんな夢物語を考えていると楽しくなってきた。
「……戻ろ」
アネットは家に帰るかとうんと伸びをする。空は橙色、いつもなら家で飯支度をしている時間。普段より遅く帰ってきた事を尋ねられるだろうが、兄がいなくて寂しかったと言えば叱られる事もないだろう。
魔法で出した水で涙を洗う。
「ん?」
森から村へ行ける道を見ると、真っ白な男がこちらへ歩いて来ていた。
「こんにちは。アネットさんですか?」
顔が見える距離で止まり、白い髪の青年は微笑む。夕日がまっさらな彼を染めていた。日に焼けていない顔、洗練された透明感。いつか来た旅芸人より綺麗な顔だと見惚れていたアネットは、心地よい滑らかな声が自分の名を呼んでいるのだと気付けなかった。
「あれ、違いました? ごめんなさい。アネットさんがどこにいるか知っているでしょうか」
「あ、合ってます! あたしがアネットです!」
顔が熱い。声が裏返った。
青年はアネットの返事に「ならよかった」と喜び、明らかに労働者ではない綺麗な手を出す。
「僕は今日この村に来た旅の神官です。イザベルさんからまだ帰っていないと聞いてお迎えにきました」
イザベル――アネットの母親から頼まれたのか。村を出る事を止めた時は恨めしく思えた母親に心の底から感謝していた。
「旅の神官さん。えっと、名前を聞いてもいいですか」
神官。白い彼をよく見てみれば右耳に耳飾りをしている。村の神父おじいさんも耳飾りをしていた。麦穂の飾りが付いていたおじいさんと違って装飾は何もないからさほど偉くはないだろう。旅の神官と言っていたから修行中なのかもしれない。
「名前は捨てました。神託者と呼ばれていますから、そう呼ぶのがよいでしょう」
「しんたくしゃ……」
神託者さん。聞いた事のない名前だ。名前を捨てたとは何があったのだろう。
もっと聞こうとしたアネットの口は、彼に片手を握られた事で意味のない音を発した。
「では帰りましょう」
「て、手! 握って」
「夜道は子供に危ないですから」
「子供じゃないです!」
「アネットさんはオーツ王国で成人とされる年齢を越していないようですが、この村では違うのですか?」
「……まだ成人ではないです」
日は落ちてゆき空には薄紫と橙の層ができている。神託者と繋いだ手に自身の汗を感じながら、半ば夢心地でアネットは家への道を歩いた。
アネットは単純である。素敵な青年との遭遇だけで、この村で生まれた事に感謝するような女の子だった。
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