喫茶店空間

本懐明石

腹を下した弟とニートの姉

 20××年8月上旬AM8時過ぎ、喫茶店の扉が開かれ、「葉咲伽丸はさきとぎまる」が発生する。

 古風な名前とは裏腹に、齢の頃は二十歳にも満たない男子高校生であり、分かりやすいことに半袖の制服を着用している。.......自転車でも漕いできたのだろうか、全身がうっすらと汗ばんでおり、やや息を切らしてもいる。彼は何か急ぎの用事でもあったのだろうか。

 葉咲はさきは部活に向かう途中だった。

 夏休みのシーズンでも運動部には朝練があり、そのために彼はきっちり制服を着て、早朝から自転車を漕いでいたのである。

 ただ、ここで分かりにくいことがある。

 それは、朝練に向かっているはずの葉咲が、喫茶店の中に居るということである。.......よもや、ここで軽食を済ませてから向かおうというわけでもあるまい。朝練が始まるのは8時半から。優雅に朝食を摂る時間など彼には残されていないのだ。

「トイレを貸して貰えませんか。もう限界なんです」

 彼は席にも着かない内に、ウエイトレスに泣きついていた。.......そうである。昨晩食べた激辛ラーメンがいけなかったのだ。彼は辛いものに目がない。そのクセして腹が人並み以上に強い訳でもないので、このように目的地に向かう途中でよく腹を壊してしまうのだ。「刃先を研ぐ」という名前をもじられて、(便が途)切れない男と呼ばれることもある。その度に彼はブチ切れていたのだった。

「もう二度と辛いものは食べない。絶対にだ。自分の体をなんだと思っているんだ、なんとも思ってないんだろうなぁ…………」

 と、葉咲伽丸はさきとぎまるは錯乱している。自分自身を抱き締めるようにしながら、便座の上で小刻みに震えている。トイレの個室はあまり冷房が行き届いておらず、脂汗のような冷や汗のようなものを滴らせていた。

「お客様、大丈夫ですか? あまり酷いようであれば救急車を呼んだ方が…………」

 こう呼び掛けたのは先程のウエイトレスである。歳の頃は20代後半で、背が低く童顔であることを気にしている一般的な女性である。手に持ったスマホにはすでに119の数字が打ち込まれていた。せっかちさに関してだけは一般的ではない

 一方、葉咲伽丸はこのように親身に心配されているにも拘わらず、より一層その冷や汗を加速させていた。……というのも、彼は自分が「お客様」と呼ばれたことに酷く狼狽しているのである。まだ何の注文もしていないとはいえ、ウエイトレスはこういう場合に便宜上、彼のようにトイレだけ借りている人に対しても「お客様」呼びするのは普通なのだが、彼はこう呼ばれたときに「僕はなにか注文しないといけないのか」と深読みして、盛大に取り乱しつつ便座に座したまま学生鞄を漁り始めたのである。が、

「……無い」

 と、彼はトイレの個室で項垂れ出したのである。……無いというのは、財布が無いのである。元より朝練に行って帰るだけのつもりだったのだ。金など用意しているはずもない。「なぜこんなにも無いんだ」と絶望する他なかったのだ。

「無い? トイレットペーパーが無いのですか? 管理が行き届いておらず大変申し訳ございません。すぐに替えのものを用意しますのでしばしお待ちを。くれぐれもティッシュや冷感シートなどで拭かないよう…………」

「違うんです。こちらの事情なんです。紙はあります。どうか取り乱さないでください」

 と受け答えしつつ、葉咲はバタバタと鞄の中身をひっくり返していく。.......ズボンのポケットをひっくり返していく。ルービックキューブ、知恵の輪、ゼルダの伝説コラボの知恵の輪、8×8マスのルービックキューブ、粗大ゴミ置き場から漁ってきた小型金庫(施錠済み)、ナンプレ集、地球儀に足が生えているハッピーセット、液体墨汁、元型論(カール・グスタフ・ユング著)、アメリカザリガニ、妊娠検査薬(陰性)、妊娠検査薬(陰性)、妊娠検査薬(陰性)、皆既日食が見れる眼鏡などがボロボロと個室トイレの床に散乱する。

「……姉貴のやつ、僕のカバンをゴミ箱だと思ってやがる…………」

 伽丸はガックリと項垂れ、深く絶望した。.......財布がなければせめて担保になるものでもと思い、何か高価な物が入っていないか調べてみたが、淡い希望はトイレの片隅に潰えたのだった。

 が、それでも彼は諦めなかった。

 中身の分からない小型の金庫、その中にこそ何か値打ちのある物が入っているのではと思い、姉にスマホ(値打ちのあるもの)で連絡をし、金庫の番号を尋ねる(喫茶店の場所を伝えて財布を持ってきてもらえばいい)。

 返事はなく、10分後に姉は現地に到着する。葉咲家は成人するまで子供の位置情報を家族が共有しているタイプの家庭だった。そのことに葉咲はかなり不満を持っていた。

「おい、お姉ちゃんが来たぞ。さっさと開けなって」

 トイレの扉がゴンゴンとノックされる。「大変申し訳ございません、ただいま他のお客様がご利用中でございまして…………」というウエイトレスの制止も聞かず、「あなたをトイレにしてやってもいいんですよ」と言い出す始末である。たまらず葉咲はトイレを出た。出すものを全て出し切ったからか、もはやそれどころではなくなったからか、腹痛のことはすっかり忘れていた。

「お姉ちゃん! 別に来いとは言ってないんだけど!」

「来るなとも言ってないだろって。まあ来るなって言われても来たけど。私ニートだから。暇だし」

 そう、葉咲の姉、.......葉咲加奈子かなこは、大卒のニートとして発生した。そして、美容系ニートでもあった。親の金で買ったメイク道具一式で毎朝バッチリ決め込み、ヘアスタイルを崩したくないからと親の車で喫茶店まで来た、という設定である。

 服装は「女社長」と聞いて連想するようなパンツルックである。会社員ですらないのにだ。

「で、なんだっけ。金庫がどうとか言ってたんだよねお前は。……金庫。ダイヤルロックの番号を教えてくれときやがったんだ。あれは元々私のンじゃないのに。粗大ゴミ置き場に捨ててあったやつを、暇潰しがてら拾って解いてやろうって代物なのにさ」

「え、お姉ちゃんあれまだ解いたことなかったの? てっきりもう解いてるもんだと思ってたんだけど。.......そうじゃないんなら正直、もう用済みだから帰って欲しいんだけど」

 伽丸は加奈子のことが嫌いではない。少なくともお姉ちゃん呼びするほどには。.......しかし、煙たがっているというのも事実だった。というのも、こういった具合に破天荒なお姉ちゃんキャラのくせして、自分よりも無能な人間だからである。身分がそのまま能力とリンクしており、何をやらせてもダメなのでニートなのだ。あまりに頼りない。喫茶店に到着するまでに車をガードレールに2回擦っているのだ。

「馬鹿言え。見知らぬ他人がロックした金庫の錠なんてすぐに解ける。すぐに解けるからあえて解かなかったんだってば。本当に暇になった時用にね」

「ニートって常に暇なんじゃないの?」

「そのニートという単語を性別とか人種に置き換えて言ってみな。自分がいかに差別的な発言をしたのか分かるはずだっての」

「性別とか人種に置き換えるからだろ馬鹿姉貴」

「私より賢い高校通ってるからって調子乗りやがって~~~~~~~~~~私ァそういうセンシティブな話題が苦手なんだよォ、大抵の場合、なんでか相手をブチ切れさせちまうからなァ~~~~~~~~~~」

「お姉ちゃんのおかげでちょっと冷静になったよ。冷静ついでに席につこうか、ウエイトレスさんが白い目で見てるよ僕らのこと」

「白目なんか剥いてないじゃんか。いい加減なこと言ってると親のアウディで轢き殺すぞ。あれは私のトイレだ」

「アウディじゃなくてオデッセイだよ。雰囲気だけで喋るからあんたは面接に落とされるんだ」

 ようやく姉弟はテーブル席につく。ウエイトレスが来て、「ご注文お伺い致します」と呼びかけられるが(やはりせっかちである)、伽丸は「すみません、まだ決まってなくて…………」と控え目に退ける。先程までの彼の焦りは腹痛による精神不安定に起因するところもあったので、それが過ぎ去った今は大分と安定していた。

「なんだ、まだ注文してなかったの? 朝練じゃないんだっけ今から。間に合うの?」

 加奈子はメニューをパラパラパラパラと一気に捲りながら問う。速読は出来ない。ガードレールに車を擦って手に汗を握ったのでうまくページを捲れないのだ。「僕も見たいからテーブルに置いてよ」と言われ、「このいやしんぼめ」とその通りにした。加奈子は開かれたページの1番左上にあるメニューを指差して「私はこれにしようかな」と得意げに言った。即断即決が出来る人間はかっこいいと思っているからである。

「……カツサンド5キログラム大食いチャレンジ? お姉ちゃんってそんな食べる方だっけ。ちなみに言っとくけど食べ切れなくても僕は助けないからね。この後朝練があるから」

「んな訳ねえだろ大間抜け三太夫が。ジョークも通じなくなったのかようちの弟はなぁ。もうアレだから伽丸と一緒のでいいよ。家族団欒ってそういうことだろ、知らないけど」

「すみませんウエイトレスさん、このカツサンド5キログラム大食いチャレンジ2人前って出来ますか」

「お前ーーーーーー! お前お前お前ーーーーーーーー!!!」

 ツッコミがめちゃくちゃである。専らボケ側に回り続けていた弊害である。伽丸は冷たい目で姉を見、「ごめんなさい、やっぱりモーニングセット二つでお願いします」と注文し直した。「じゃあ私もそれで」と言いかけた姉の口を手で塞ぎ、「注文は以上です。以下でも未満でもありませんので」とウエイトレスを追い払った。

「何しやがんだって。メイク崩れたらどうすんだよ」

 加奈子は弟の手を退け、手鏡で自分の顔面を確認する。「話戻すね。朝練の件だっけ」と返し、相手の反応を待たないまま話し続ける。

「朝練は、……もういいかな。間に合わないのは既に確定してるし、僕は遅刻するくらいなら欠席を選ぶ人間なんだ。途中参加する方が気まずいしさ」

「突然の自己紹介どうした? まず名前を名乗れよ。倒置法にも程があんだろ」

「あんた他人が自分語りする度にそれ言ってんの? まあ自己紹介と自分語りって意味合い的には一緒なんだろうけどさぁ、何だかなぁ…………」

「おいおい見くびられちゃ困るぜ。要はこの金庫を解いてやればいいんでしょ? 見直してくれるんだよね? お姉ちゃん頑張っちゃうぞ~~~~~~~~」

 この後、モーニングセットが届いて優雅に食事を取り、アイスコーヒーで1時間粘ってもなお金庫が解けることはない。「あんたのカバンに色々入れたじゃん。あれ全部、金庫が入ってたダンボールに詰め込まれてたものなんだよね。あれがヒントじゃないかと思ったんだけどなぁ~~~~」「妊娠検査薬あんたのじゃないのかよ。そもそも弟のカバンをゴミ箱にすんなって何度言えば分かるかな」「その発言、もし私以外の性別とか人種の人間にしたらどうなるか分かってるよね」「誰に言ってもおもんなキショ冗談になんだよ。あんたにだけはノーダメなのも意味分からんし。あと僕のカバンをゴミ箱にする理由がまだ聞けてないんだけど」「私が言ってないからじゃない?」「(クソデカ溜息)……もう帰ろうかなこのまま。どうせ朝練は行かないし。お姉ちゃんはせめてチャリ漕いでよ。僕後ろ乗るから」

 と言って伽丸は席を立ち、加奈子も後に続く。「ごめんね奢らせるようで。私財布を持ってないからさ。というかお金持ってないから、そもそも」「言っとくけど僕も払えないよ。でもあんたが車で来てくれて良かった」「どういう意味? 車で逃げるの? でも自転車で2人乗りするみたいなこと言ったよね。何が何?」「まあ見てなって。すみません、お会計お願いします」

 伽丸は伝票を渡し、ウエイトレスはレジのキーボードを叩く。「どうするつもりなの? まさか体売れって言うんじゃないよね?」「熟れた体の間違いだろ」「ウレタン? 低反発って意味? 低反発枕? 低反発枕営業?」というヒソヒソ話の末、会計金額が示される。二人で1200円と少し。妥当である。

「すみません、実は僕たち財布を持っていないんです」

 伽丸は正直に言う。

 ウエイトレスは狼狽し、カウンター越しに姉弟に詰め寄る。

「財布を持っていないのですか!? ならどうして注文して食べきるまで…………、あなた方はさっき、大食いメニューを2人前注文されようとしていましたね? それを取り消してもなお、そちらの方はモーニングセット2人前を2つ注文しようとしていた。あなた方は本来かなり食べる方の人間なのだけれど、なぜかそれを自制しようとしていた。……そちらの方は入店時に既にお腹を壊されていました。この猛暑日の中でお腹を壊すのはおかしい。よっぱどご飯を食べていたのであれば別ですが。……えっと、つまりえっと、あの、何が言いたいんですか? 私は?」

「私はこうも言ったよ。あんたをトイレにしてやってもいいんだぞ、とな」

「はあぁ! 核心を突くような顔とトーンで言われているのに何も分かりません! こうやって今までの人たちも訳が分からないままトイレにされたのでしょうか…………トイレに流されるよりはマシなのでしょうけれど…………」

 伽丸は姉の横腹を肘で打つ。「余計なこと言って混乱させないでよ。出来る話も出来なくなる」加奈子は貧相な横腹をさすりつつ、「ほぼほぼ勝手にこの子がバグっただけじゃん」とむくれた。これに関しては正論である。

「落ち着いてください店員さん。実は折り入って相談があるんです。というのも、店の外にオデッセイが停まっていまして。うちの車なんですけど、あれを担保に出来ないかと思いまして。ちょっと見て貰えますか? ちゃんと姉の持っている鍵で開くかどうか確認していただきたくて」

 と、伽丸と加奈子が喫茶店の外に出た瞬間、2人の姉弟は永遠にこの世から消滅した。

 消滅したということは2人の人間の注文も会計も消滅し、ウエイトレスは喫茶店の内側で「今何をしていたのだろう」と首を傾げて、手持ち無沙汰に店内を清掃し始める。

 彼らがうっかり置き忘れた金庫は、その後忘れ物としてレジカウンターの上に置かれることになるが、果たしてこれを解き破る人間は発生するのだろうか。

 喫茶店は今日も営業する。

 何も無いだだっ広い空間から発生し、やがて消滅していくだけの人間たちに、少しの間だけでも安らぎの時を過ごしてもらうために。

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