シミ

 しばらくの間、僕は動けずにいた。

 その場に座り込み、言わば放心状態となっていた。

 その後も嫌がる金谷に、興奮した教頭が何やら囁いていることが聞こえてきたが何を言っているかまではわからなかった。

 その代わりスリスリと布の擦れる音が僕の耳には届いていた。


 ズボンのシミはどうしようかと一人で恥ずかしくなっていると、どこからともなくサキュバスの彼女が現れた。

 今日もセーラー服に茶色のローファー姿をしている。


「ククク。お前イカ臭いぞ。ずいぶんと出たなぁ……こういう趣味もあるのか……」


 女の子にそんな指摘をされるなんて夢にも思っていなかった。

 僕は自分でもわかるほど赤面し、どうにか誤魔化す方法を考えるが、結局何もアイディアが出てこなかった。


 誰にも会わないように、さっさと帰宅しよう。

 もう金谷に仕返しはできた。教頭に迫られてさぞかし気分が悪いことだろう。


「……とにかく、これで分かったかね。制服はちゃんと着ないと」


 教頭はモゾモゾしながら囁くと、いつの間にそんなことになっていたのかわからないが、カチャカチャと音を出していた。

 そして、しばらくすると教頭は進路指導室を出て行った。

 教頭が出ていくと、隣の部屋から大きな物音がした。金谷が机を蹴ったのだろうと僕は想像しながら、見つからないようにこっそりと進路指導室を後にした。

 今バレたら大変なことになりそうだから。


 しかし、その予想が見事に的中してしまった。

 僕は早歩きで、廊下を進み、下駄箱に向かっていた時だった。

 背後から声をかけられた。

 望月乃々香の声だった。


「まさか、お前にそんな根性があったなんてねー」

「え?」


 僕は驚いて振り向いた。

 緩くウェーブのかかった茶色ロングに、大きなクリッとした目が印象的だ。いつも綺麗にアイロンがかけられている真っ白なブラウスを着ているが、学校中の男子を従わせるほどのはち切れそうな大きな胸のせいでシワが寄ってしまっている。

 背は小柄だが、どこでも態度は大きく、声も溌剌としていて僕が一番苦手なタイプだ。

 そんな望月がなぜまだ学校にいるのか。

 こんなところで何をしているのか。

 そして、何を言われているのか、一瞬わからず頭が真っ白になる。


「教頭とグルだったのかな? それとも教頭に脅されてやったのかな?」

「……あ、いや」


 ——何のことやら。


 とは、いかないだろう雰囲気だ。


「キモ豚が自分から私たちに話しかけてくるなんておかしいと思ったんだよねー。それで後をつけてみれば、案の定。これは傑作だわ」


 望月はスマートフォンの画面をこちらに見せ、ニヤニヤしながら近づてくる。

 画面には何か映っていた。

 トランクスに手をかけ涎を垂らしている教頭と、ブラウスを脱がされ怯えている金谷だった。

 パーテーションの隙間にスマホを差し込んで撮影したのだろうか。少しブレてピントが合っていないが、間違いなく先ほどの二人の姿だった。

 

「こんな笑えることある? 思いついても、さすがのわたしもここまではできないなー」

「こ、これ。どうやって……」


 心臓がバクバクしてきた。

 歯が噛み合わず、ガタガタと音が鳴り出した。


「こっちもあるんだよね」


 望月が次の写真を表示した。

 僕が聞き耳をたてながら、情けなく一人でシている瞬間だった。


「ホント、最高だわ。教頭とグルにしろ、単独犯にしろ、こんな惨めな姿晒しちゃって」


 望月は笑いが止まらないようで、お腹を抱え、涙を浮かべながら僕を指差す。


「最、高」


 ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい……。

 ど、どうする?

 無理やり彼女のスマホを奪って、写真を消すか。いや、もう破壊するしかないのでは。いやいや、そんなこと無理だ。それこそ後でとんでもないことになるぞ。

 待てよ、アプリがある。

 『サキュバス・コード』を使ってどうにかできるか?

 急いで望月の写真を撮って、どうにか彼女を操作して写真を消せればあるいは……。


 ——もう、それしかない?


 ポケットに手を突っ込む、スマホは持っている。

 心配なのはバッテリーだけだ。


「……教頭は社会的に抹殺するとして、お前はどうしようかな?」

「…………え」

「美涼はもういいや。なんだか最近、あの子も調子づいてきてウザかったし。次は君で遊ぼうかな?」


 望月は笑いを堪えながら、続ける。


「キモ豚くん。今から戻って美涼にとどめ刺してきてよ」

「は?」

「一日に二度も。しかも、今度は学校一のキモ男に犯されたら死にたくなるだろうなー」


 望月は僕の写真をチラつかせている。


「えっと、いや。何を言って——」

「ほら。早くしてくれない?」


 こいつ本当に何を言っているんだ。

 金谷とはほんの少し前まで楽しそうにしていたじゃないか。

 それが急に切り捨てるような、裏切るような……。


 僕はどうしたらいいのかわからず挙動不審になっていると、彼女は舌打ちをしてスマホを耳に当てた。電話が来たようだった。


「はあ、ダル……。もう迎え来たの? 今日のパーティーめんどいから行かないって言ったじゃん。パパに伝えておいてって、お手伝いにお願いしたはずなんだけど。はぁ? 聞いてないって……ホントあいつ無能だわ」


 面倒そうに望月は歩き出す。


「はいはい。わかりました。あー、そうだ。写真。拡散されたくなかったらオモチャになってねー」


 と、こちらを見ることもなく手だけを振って、彼女は消えていった。


 去年から続く、今まで嫌がらせはなんだったのか。

 まだオモチャですらなかったのか。

 そんなことを思案しながら、僕は彼女の後ろ姿をしばらく見ていたのだった。

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