第20話:ガラス張りの妖精王②

 とりあえず平和だった朝と変わらぬ水面をたたえる湖を見て、アルトはセリを振り返った。


「セリ」


 セリは思わず体をこわばらせた。こんな風に硬くて冷たい声でアルトに名前を呼ばれたことなんてなかったから。


 まるでセリが何をしたのかすでに知っているかのようなアルトの口調に、セリはアルトに近づけない。


『初代妖精王は相手が弱ったここぞという時に、過大な要求をする嫌な奴です!』


 灰色猫はプラカードに、もはやアルトの意見か猫自身の意見かよくわからないことを書いてくる。


「私がそれを失っても、誰も悲しむ者がいない『愛』を渡した」


 アルトの顔が失望に歪むのを見て、セリはやりきれなくなる。


「じゃぁどうすればよかったの? 器が壊れれば……たくさんの妖精たちが死ぬ上に、アルトの中から『愛』がなくなるって。愛を感じなくなるって。そんなの、絶対に耐えられないよ。アルトは眠っているし、何も分からない世界で、私にはこれが最善だったんだから」


 『愛』がなくなるという話に、アルトは意外そうに目を見開いた。そして、「ごめん」と言ってセリのもとへ歩み寄ってくる。セリをそっと抱きしめてくると、もう一度アルトは「ごめん」と囁いた。


「アルトが死ぬのが一番嫌だけど。でも、アルトが私を愛してくれなくなるのも嫌だし、それにこんなに優しいアルトが、何に対しても愛を感じられなくなるのも絶対に嫌だよ」


「逆、理解」


『うん。逆の立場なら僕も気が狂うよ。ごめんね』


 これくらいならセリにも分かるのだが、灰色猫はプラカードを掲げてくる。

アルトはそれをまったく無視して、セリのこめかみに頬をすりよせた。


 そしてアルトは何も言っていないのに、灰色猫はさらにプラカードに文字をぎっしりつめてきた。


『セリ。セリは僕の妻だ。セリが頼りない僕のために最善をつくしてくれたことは分かっているし、本当に感謝している。でも、このセリの肉体も、魂も僕のものだ。そして感情も、それが誰のためのものであろうと、どんな感情であろうと、それもすべて僕のものだ。――もう絶対に誰にも渡さないで』


 セリはプラカードを見て目をぱちぱちさせる。本当なら嬉しいが、アルトがそこまで自分に執着してくれているのだろうか。


 セリが自分ではないところを見ていることに気づいたアルトは顔をあげ、プラカードを見てギョっとする。


『初代妖精王の亡霊に負けずに頑張ってください。エッチな時以外の翻訳には時々協力してさしあげます。あ、嫉妬ポイントは濃ゆい愛の交歓で随時リセットされますよん――初代妖精王の亡霊の奴隷より』


 灰色猫はそんなプラカードをかかげ、二人にカワイイ肉球をみせながらひらひらと手を振り、その場から姿を消した。


 嫉妬の時と同じで、セリは嬉しいのに、アルトはちょっと執着じみた本心をばらされたことが恥ずかしいのか、耳を赤くさせながら視線をさまよわせている。胸をみると、まさかのゲージが70%に上がっていた。まぁ濃ゆい愛の交歓でリセットされるなら、明日の朝にはゼロにしてみせようとセリは決意する。


 セリの視線に気づき、嫉妬ゲージが増えていることに気づいたのか、あわててそれを隠そうするのを止めて、セリはアルトをぎゅっと抱きしめる。


「隠さないで。それも私への愛の証でしょう? あのねアルト。私ね、アルトが前の妖精王よりも大きな器を作れるって確信してる。ひらめいたんだけど」


 セリが自信満々の笑顔で言うと、アルトはどういうことなのかと、きょとんとした表情で続きを促してくる。


 その目はセリへの信頼に満ちていて、その事実をすごく喜ぶ自分に、あぁこの人のことが好きだなぁ、とセリはあらためて思う。


「これまでの妖精王は伴侶がいなかったでしょう? 器は愛でできているってきいたけど……そもそも妖精王たちは妖精界で独身で暮らしていたから、愛の対象が妖精たちしかいなくて、それで器作成の定義が、妖精たちへの漠然とした博愛というか、慈愛というか、まぁそういう気持ちという風になっちゃっただけじゃないかな。だからね、本当は器は別に妖精たちへの愛じゃなくてもいいんじゃないかな。……誰か一人への重くて濃ゆーい愛でも」


 初代妖精王は器が壊れれば、アルトはセリへの愛を失うといった。愛を感じるという機構を失うと。なぜ妖精たちへの愛だけでなく、セリを含めた愛を失うのだろうか。そしてデキアに器の交代の話をきいて、セリは確信した。


 妖精王たちは樹から生まれてくる。そしてその後しばらく前妖精王と過ごした後、代替わりする。妖精王は家族と呼べる者もいなければ、そもそも伴侶など必要がない環境で育つのだ。


 愛でできているという器。そして歴代妖精王たちに伴侶がいなかったなら、その愛の種類は恋人などに向けるものではなかったはずだ。どちらが重い軽い、などというのは当人でなければ判断できないが、アルトがセリに抱いてくれている愛の方が、前代妖精王の妖精たちへ向けた愛よりも大きいのではないかと思った。慈愛の心が多少はある初代妖精王が、ソルニャを憐れむといっても、セリのように泣くまではいかなかったように。


「待つ」


 アルトはセリにそういうと、チュっとセリにキスをしてから部屋をとびだした。


 そして数分後、テラスから見やると、湖の傍に立つアルトの姿を見つけた。


「がんばれ」


 アルトが自分をすごく愛してくれていることは知っている。あとはただ応援するだけだ。


 両手を握って祈るセリの前で、しばらくの後、突然の轟音とともに、その場が一瞬大きく揺れた。


 揺れの瞬間、思わず目を閉じたセリが再び目を開けると、目の前には信じられない光景が広がっていた。


「すごい……」


 そこには周囲の山さえも削り取ってできあがった、もとの湖の十倍はありそうなクレーターができていた。


 そして以前は湖からあふれそうだった水は、アルトの器に対してあまりにも少なく、クレーターの中に存在するちょっとした水たまりのように見える。


「サイコー!」


 こちらを振り返ったアルトが、遠くて見えるはずがないのに、どこか得意げな表情をしているような気がして、セリも届くかわからない歓声をあげる。


「すごいね。すごいよアルト」


 振動で何か察したのか、やがて湖のまわりにわらわらと妖精たちが集まってきた。


 そして、その夜はずっと彼らの喜びの声は絶えることがなかった。

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