第18話:炎をあやつる者②
「今の妖精たちは悲しみを知らない者に育てられた、さらに歪な存在ばかりだ。決して愛がないわけでも、わからないわけでもない。だが……質が違うと言わざるを得ない」
嘆きの混じった重い口調で言う。
「キミのように、他人のことを自分のことのように悲しんでくれる者がいないのといるのとでは、その者の『愛』に対する信頼感が変わってくる。そしてソルニャはもうその信頼できる『愛』を知った。……自分の死を嘆き悲しんでくれるという歪んだ方法でだが」
――キミは分かっていないだろうが、もうソルニャは正気ではない。
初代妖精王は憐れみに満ちた口調でソルニャをそう評する。
「ソルニャの望みは、キミの悲しみを背負ってこのまま生命の樹になることだ。そして一切の苦しみから解放されて、愛を感じながら生きていく」
それが正しいことなのだろうか。セリはそうは思えない。
「いいえ。私の愛が嬉しいなら、一緒に生きたいと思ってくれるはずです」
「キミはまだ分からないのか」
愚かで利己的な人間よ、と初代妖精王はため息をつく。
「ソルニャが生き続けてもキミは哀しまない。そしてキミの哀しみが自分の幸せだとソルニャは知ってしまった」
初代妖精王の声は力強く、まるでそれがすべての答えであるかのような口調だ。
「不安や不満がすべて怒りや憎悪に変わることが、どれほど苦しいかキミも分かっただろう? そして人間も同じだろうが、欲と怒りはそこから消えることはない。ソルニャはキミの愛を感じて一時的に幸せになったとしても、さらなる怒りや欲の地獄にとらわれることになるだろう。ソルニャも愛を知ったがゆえに、その地獄を再び味わうことを恐れたに違いない」
再びとはどういう意味なのか。そう思った瞬間、灰色猫が『嫉妬』とプラカードを掲げる。
『妖精たちの嫉妬は、くよくよ悲しむ暇もなくすぐに怒りに転嫁されるため、攻撃的な変化を起こしやすいのです。もう事件がいつもいっぱいで歴代妖精王は結構大変そうだった☆』
「ソルニャに憐れみをもって優しくしたのは前妖精王だけだった。だが、次代の妖精王の卵体がドラゴンに盗まれてしまった。それ以来、前妖精王はソルニャを顧みることはなくなった。誰が手引きしたのかはわかるだろう?」
『初代妖精王の亡霊が、ちなみに私はその時はドラゴンに憑依していないと嘘をついています』
真剣な話。そして衝撃的な事実を話しているのに……。本当に嫌になる。この亡霊と猫。アルトが人間界に来ることになったのは、ソルニャが原因だったという事実だけでも衝撃的なのに、結局実行犯は目の前の亡霊ではないか。
ソルニャがそんなことをしたのはやはり嫉妬のせいなのだろうか。孵化したアルトに、先代妖精王の関心が奪われると考えたのだろうか。セリには分からない。
「妖精としての肉体は死ぬが、愛を感じながらさらに長い間、樹としてキミと生き続けたい。それが、ソルニャの望みだ」
そんなおかしな望みがどこにあるだろうか。
「この世界での事を、人間の物差しで判断しても無駄なだけだ。そのためにあれは必要な経験だった。ただの人間であるキミには」
妖精体験のことを言っているのだろう。黙り込むセリに、初代妖精王はもうそれ以上は何も言わなかった。
そしてしばしの静寂の後、「ところで」、と軽い口調で話題を転じてきた。
「この体に憑依できるのもあと数時間だ。この体を妖精界の外に捨てにいかないといけないからな」
「はぁ」
「この湖の水が減らなければ、ゼノアルトは目が覚めないだろう。そしてそうこうしているうちに、前妖精王のこの器は壊れ、ゼノアルトは愛を失うだろう」
「……」
そうだ。その問題もあるのだ。思いついたことがあるので、器の交代はできそうな気がする。だがアルトを目覚めさせる方法は思いつかないでいた。
「この体はドラゴンの体だ。ドラゴンは炎を扱う。水と炎は相克だ。減らせても少しだが、妖精王の目が覚めることがまずは重要だろう?」
セリは目を見開いた。希望に満ちた目を向けた先、初代妖精王は意地悪そうにニヤリと微笑んでいて、セリは嫌な予感を覚える。
「一部でいい。『愛』が欲しい。私の最終的な目標のために、それが必要だ」
「私はあなたにどんな感情も与えたくない」
そうしてこの世界の妖精のように、どこか歪な存在になりたくはなかった。辛くても悲しくても、自分の感情はすべて自分で引き受けたいと、セリはそう思う。だが。
「この湖の水を減らせるのに? まぁ、妖精王が眠りから覚めるくらいには」
アルトを目覚めさせる方法は、セリにとって解決策が検討もつかない課題だった。だが。
「でも『愛』は渡せません」
「少しだけでいい。今ある『愛』のほんの一部だ」
「ダメです」
セリが言うと、初代妖精王は金色の目を輝かせた。そしてまるで全身をスキャンするように凝視され、セリは戸惑ってしまう。
「消えても『誰も悲しむ者のいない』愛ならいいんじゃないか?」
まるで生命の樹の選定基準のようなことを言ってくる。
「そんな愛なんてありませんよ」
「キミの中にはある。しかも相当な大きさで」
まるである場所を知っているかのように、ドラゴンはセリを凝視してくる。
「アルトへの愛は微塵も減らせません」
「少し減ったところで、支障はなさそうだが。まぁゼノアルトへの愛ではない」
「ソルニャへの愛もダメです」
「私もあの子がさらに苦しむようなことをするつもりはない」
初代妖精王は心外とでもいうように反論する。
「本当に、誰も悲しむ者はいないだろう。キミにあってもなくても支障はない。だからそれをくれないか」
初代妖精王は熱心に請うてくる。
それでも返事をしないセリに焦れたのか、「じゃぁどうするんだ?」と、彼は今にも溢れんばかりの湖を指さした。
「このまま器が壊れるのを待つか? まぁその方がいいかもしれないな。人間はあまりにも弱く、寿命も短い。ゼノアルトがいつか来るキミの死に耐えられると思うか? ……絶対に耐えられないだろう。ならば愛を感じなくなる方が彼のためともいえる」
「死って。まだまだ先の話じゃない。私はあと何十年も生きるつもりです」
おおげさだと肩をすくめるセリを見る彼の眼差しに、切なさが混じっていることに、湖を見つめていたセリは気が付かなかった。とにかく目の前のこの問題をなんとかすることが重要だった。
「……本当に誰も悲しまないんですね?」
そんな愛があるのだろうか。もしアルトへの愛が減ればアルトは悲しむだろうし、ソルニャだってそうだ。しかし他に方法がない上に、とりあえずその二人と関係がないのなら、契約するしかない。
セリが決心したことを察した初代妖精王は、セリに小さな手を差し出した。
「契約成立だな? 私は炎を、キミは愛を私に与える」
セリはうなずくと、ドラゴンの小さな手を握り返した。
途端にすぅっと、何かが体から流れだしていくのがわかった。何かはわからない。
セリの目から、ひとりでに涙がこぼれだした。なぜだかとても寂しかった。
「素晴らしい。愛とはこんな味だったか」
初代妖精王はまるで砂漠でオアシスを見つけたかのような、感嘆のうめき声をあげる。
「それでは伴侶のために働いてやろう」
初代妖精王は湖に向かって歩き出した。そしてそのまま湖の上、つまり水面の上を軽やかに歩いていく。
どこまでも現実感のないその姿を見つめていると、やがて湖の中央で、彼が手を水面にかざした。
そしてそこから広がるように湖の上を炎が舞った瞬間、ぶわぁぁっ、とものすごい熱風を感じ、セリは目を腕で覆った。
感じる熱に、一瞬で汗がにじんでくる。
「まぁ、これくらいならよくやったんじゃないか」
疲れた、と言いながら初代妖精王が戻ってくる。湖の上に炎の絨毯が敷かれたのはほんの一瞬だった。だが、その一瞬でも効果は確実で、確かに湖の水位は、四日前に見た時と同じくらいの高さに見えた。
「今日はごちそうさま。素晴らしい『愛』の味だった。誰も悲しむ者がいないとは信じられないほどの。いや――」
彼は炎のような髪をかき上げ、セリに含みのある視線を向けてきた。
そしてどこか不吉なことを告げる。
「でも、もしかすると誰かは少しくらいは悲しむかもしれないな。愛とは複雑にからみあっているものだから」
その言葉に、セリは自分がそれを失う時に感じた寂しさを思い出した。
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