第15話:湖と妖精の真実

***


 ……湖の水位がこの数日でとてもあがっているような気がする。

 湖から水が今にもあふれそうだ。強い風が吹けば水は今にも陸地に染み出すかもしれない。


 最後に見た時は四日前くらいだが、あふれるにはまだ少し余裕があったはずだ。


「器の交代の前に、前妖精王の器が壊れる方が先かもしれないな」


 今にもあふれ出しそうな湖を前に立つセリの後ろから、少し高めの、明るい少年の声がした。


 振り返ると、真っ赤な髪をした少年が近づいてきた。デキアのようなレンガに似た赤髪とは違い、少年の髪は見ているだけでまぶしくなるような、まるで炎のような色合いをしている。


 見た目は人間のようにも見えるが、目は金色に輝いていて、十歳前後の姿に見えるのに、まとう雰囲気がもっと成熟した大人であることを伝えてくる。


「誰?」


「傷つくな。誰か分からないなんて。デートの約束をしただろう?」


 少年はその見た目に似合わない口調でそんなことを言う。


「まさか……」


 初代妖精王なのか、とセリが思った瞬間、少年の肩から灰色猫がひょこりと現れた。手にはやはりプラカードを持っている。


『初代妖精王の亡霊が、ドラゴンに憑依した自分に気づいてくれなくて拗ねています』


「ドラゴンを定期的に召喚する不届き者が妖精界にはいる。ドラゴンは時々妖精を食べることもある。本来ならけっこうな惨事になるところだが、心優しき初代妖精王がこうして憑依して、事件を未然に防いでやっているというわけさ」


「……プラカードの言葉と全然イメージ違うけど、そっちが地なんですか?」


「この肉体にいれば、言葉に関する制約がないからな」


 よく分からないがつまり、地ということらしい。


「我々デブルや妖精が禁忌を犯すと、言葉に制約が課されることがある。……それは未来にむかって制約が課されるだけでなく、時には過去の自分にさかのぼってまで、その制約は効力を発揮することもある」


 初代妖精王はそう言うと、疲れたようなため息をついた。そして「ところで」と話題を転じてくる。


「どうだ、妖精たちは。一緒にいればいるほどやがて見えてくるだろう。人間よりもさらに愚かで歪な種であるということが」


 初代妖精王はセリの足元に座り込んだ。そして「まだ決められないのか?」ときいてくる。


「誰も悲しまない者を樹にするのは簡単だ」


 初代妖精王はどこか疲れたような表情で湖をじっと見つめている。


「キミはまだ気づいていないが、この妖精界ではある意味、誰が死んでも、誰も悲しまないからな。妖精王ゼノアルトと伴侶であるキミ以外は」


 初代妖精王はそう言って湖を指さした。


「妖精たちの悲しみは、全部ここにたまる」


「え?」


 意味がわからなくて、セリは唖然とする。


「おかしいと思わなかったか? ここの妖精たちは怒りっぽいとか、情が薄いとか、そういう奴が多いだろう?」


 ――彼らは哀しみを知らない。


 まるでそれが大変な罪であるかのように重い口調で彼は告げた。


「はるか昔。私が妖精たちを創造した時。妖精たちはもっと感情豊かで繊細だった。だが、繊細すぎた。大きな悲しみが訪れれば死んでしまうほどに。私が滅した時、妖精界の妖精の半分以上が悲しみで死んでしまった」


 初代妖精王は小さくため息をついた。


「だから私の次の妖精王は、妖精たちから悲しみという感情を消すことにした。いや、消すというよりは、悲しみを感じる前にその悲しみを別の場所に移すというのか。悲しみは水となって、この湖にたまる。さぁ人間よりも愚かで歪な生き物の始まりだ」


 初代妖精王はクク、と声を出して笑う。あざ笑っているが、同情にも満ちたそんな不思議な声。そして彼はすべてを見透かすような黄金の瞳をセリに向かってきらめかせた。


「悲しみは複雑な感情だ。ただ悲嘆にくれるだけではない。相手を思いやるための共感的理解の素養として必要であることもある。そして悲しみは苦しみや怒りを浄化することもある。私が妖精王の時代には、もちろん悲しみで死んでしまう者もいたが、一晩中皆で飲み明かして悲しみつくしてやがて笑って、そして皆次の日には元気にまた一日を歩き始めたものだ。……怒りはなくても健やかに生きていけるが、悲しみはどうだ?」


 初代妖精王は戸惑うセリに続けて問いかける。


「悲しみを知らない奴らが他者に『本当に』優しくすることが可能だと思うか?」


 優しさと悲しみは結びついているだろうか。セリには分からない。


「悲しみを知らない奴らが他者を『本当に』愛することが可能だと思うか?」


 やはりセリにはわからない問いを、初代妖精王は問うてくる。


 困惑するセリにハハ、と彼は若干馬鹿にした風にもとれる笑い声をあげた。


「まぁまだ生まれたばかりの人間には難しい話だったか」


 彼はそう言うと、湖に目を向けた。


「この湖はゼノアルトの先代の妖精王が作り出した器だ。前に説明したと思うが、妖精王の死後は器の寿命はそう長くはない。それに加え、妖精王の死で器は悲しみでいっぱいになるから、次代の妖精王はさらに大きな器を作らなければならない。しかも厄介なことに妖精王が代替わりした時点で、前妖精王の器と現妖精王の体は連結されてしまう。子孫が受け継ぐ呪いのようにな。前妖精王の死後十日が経って、前の器が壊れても駄目、そして前妖精王の器が壊れる前に器を作っても、それが今よりも大きくなければ、結局水があふれて器が壊れ、器の交代は失敗だということだ」


 つまり、前妖精王が死んで、そのせいで湖の水がいっぱいになったからこそ、このタイミングでの次代の生命の樹の選出には『誰も悲しまない者』を選ばなければならないということなのか。アルトがもっと大きい器をまだ作れていないから。


 セリは今にも水が溢れそうな湖を見て怖くなった。


「水が溢れると器が壊れる?」


「そうだ」


「器が壊れるとどうなるの?」


 問うと、今までそうなったことはないが、と初代妖精王は前置きする。


「歴代の妖精王たちは湖があふれて何が起こるか分かっていない。だからゼノアルトもおそらく最悪死ぬとも考えているだろう。だが、あの器のもとになっている感情が壊れるだけだ。その感情を感じる機構を失うだけ。死にはしない。そしてその感情が何かは歴代の妖精王だけが知っている。妖精たちも知らないことだ」


 妖精たちを好きにならないと言っていたアルトをセリは思い出した。


 ――愛でできているのか。


 妖精たちを好きにならなければならないと話していたアルト。つまり、あの器は妖精たちへの愛でできているのだろう。


「私は何でできているか知っています」


「なら、器が壊れれば、キミがもう伴侶として妖精王の隣に立つことはないだろうということも分かっているんだね?」


 意地悪そうな笑み。だが苛立ちよりも、放たれた言葉の衝撃の方が大きすぎて、セリは呆然とする。


「悲しみの感情がない妖精たちと似たようなものだ。器が壊れれば、妖精王は愛を感じることはなくなるだろう」


 まったく面倒くさい世界だ、と初代妖精王は再びため息をつく。


「そして妖精たちは悲しみという感情を取り戻すだろう。突然の悲しみの奔流に飲まれ、ほとんどの者は死んでしまうだろうが」


 ――それでキミは何を選択する?


 そう、どこか楽し気な声で問いかけられた瞬間、「セリ様!」とセリを呼ぶデキアの声が聞こえてきて振り返る。


「じゃあまた後で」


 そう言われて、初代妖精王の方に視線を戻すと、そこにはもう誰もいなかった。


「セリ様、大変です!」


 そしてデキアがそう言ってセリのもとへ来た時だった。


 湖を見たデキアが絶望に満ちた声をあげる。


「昼に見た時はこんな水位じゃなかったのに……あぁ、もう皆に知られているのか」


 今ならその言葉の意味が分かる。


 セリは四日前に比べて水位が異様に上がったと思ったが、どうやら今日の昼までは、まだ水位がここまでではなかったらしい。つまり、昼から今の間にかけて、何か大きな悲しい出来事があったということだ。いや本来なら、悲しむべき出来事というべきか。


「どうしたんですか?」


「エリルの『生命の樹』が枯らされてしまいました」


 さすがにデキアも、苛立ちが滲んだ疲れた表情をしている。


「エリルの樹も、そう長くはもたなさそうだったんです。ですから……もしかするとエリル内部の犯行かもしれません。ソルニャを先にマクスウェルにとられないために」


 妖精が人間より愚かかは分からない。


 だが少なくとも、こんなことをした者は正気ではないことだけは分かる。


 脱力したくなる気持ちをふるいたたせ、セリはデキアとともに、とりあえず助言と助けを得ようとアルトのもとへと向かった。


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