第12話 大切なもの
「
「ああ、分かってる。大丈夫だよ、
心配そうな美羽にそう言ってから、鋼一郎とリリティアは住宅用の勝手口から表に出る。
(うっ……!?)
そして外に出た瞬間、リリティアは鼻を衝く異臭に顔をしかめた。
生臭さを含んだ、鉄錆の匂いだ。
においの元は、人垣ができている中心に続いている気がする。
「失礼。通してくださいまし」
言葉と裏腹に、やや強引にリリティアは人垣の隙間を抉じ開け、奥へと進んだ。リリティアほど強引になれない様子の鋼一郎とは、少しずつ差が開いていく。
「酷い」「なんてことを」など、中心に行くに従って、明瞭な呟きが多くなる。
そして不意に、ぽっかりと空いた空間の最前列にまで辿り着く。
そこには猫が一匹、横たわっていた。
小さな体の下には、大量の血だまりができている。その全てが猫の体から出たものだと理解すると同時に、体が一気に寒くなった。
(あ……っ)
今朝、校門前で触れ合ったウサギの温もりを思い出してしまう。
この猫も同じだ。生きている。温かい命だ。
だが今、冷たくなろうとしている。失われようとしている。
(いいえ、まだ間に合う!)
リリティアは遠巻きにされているその猫へと近寄って、側らに膝を着いた。
「お、おい、下手に触らない方が……。警察にも救急にも動物病院にも連絡してあるから……」
諌めてくる声は、無視をした。
リリティアは野次馬からの視線を自らの体で遮りつつ、手を猫にかざす。そして手の平の下に現象を導く魔法陣を魔力の光で描き、魔法を発動させた。
猫の体が一瞬、柔らかな緑の光に包まれる。魔力が傷付いた体組織そのものへと形を変え、猫を癒していく。
(……でもわたくし、中身に手を出せるだけの技術がないわ)
リリティアにできたのは、大きな傷をできる限り小さくすること、それだけだった。失われた血液を再生させることは叶わない。
それをとても、歯がゆく思った。
そこにようやく、緊急車両のサイレンが耳に届き始める。聞こえてくるほど近くなれば、到着はすぐだ。
リリティアは立ち上がり、来た方向とは逆の人垣の中に埋もれ、立ち去ることにした。
鋼一郎や
(犯人はもう、ここにはいませんわ)
猫に付いていた生臭い鉄錆の臭いは、リリティアが今目を向けている方角に己の残り香を残しつつ、去って行っている。
だがそれも空気中に霧散しつつあり、人の嗅覚で追いかけるのは難しいだろう。
「
「!」
反対側の人垣を抜けたところで、誰かに腕を掴まれた。
ただし知っている声と手の感触、気配であったため、驚いたのは一瞬だけだ。
「何をしているんだ、お前は!」
「お父様、わたくし――」
厳しい声で叱ってきた鋼一郎を見上げ、リリティアはまず、弁明を口にしかける。
だがそれは振り返って鋼一郎の表情を見た瞬間に、喉で詰まって出てこなくなった。
鋼一郎は怒っていた。だがそれ以上にほっとしていた。それが分かってしまって。
「……ごめんなさい」
できる言い訳は沢山あった。しかしそのどれもリリティアは選ばずに謝罪する。
鋼一郎の側を離れないという約束を破ったことに違いはないし、何より、己の行動で心配をさせたのが申し訳なかった。
「自分が約束を守らなかったことを、分かっているな」
「はい。申し訳ありません」
「なぜあんなことをした」
(なぜ……)
問われてゆっくりと、リリティアは当時の心境を思い返す。
鋼一郎としてはリリティアに反省を促し、またその理由を正しく把握するための問いかけだったのだろう。
彼に意図はなかったろうが、それはリリティア自身にとっても自分を見つめる大切な問いとなった。
「……学校で、友人が飼育委員をしていて。今朝、その子が世話をしているウサギに触れる機会があったのです。そのウサギはとても温かくて、けれどあの猫は冷たくなっていくのだと思ったら、つい……」
魔法で癒すところを見られてはならないという理性は、ギリギリ働いた。そうでなければ、今頃更に大変なことになっていただろう。
(わたくしは間違いなく、浅はかでした)
リリティアのことを大切に想ってくれている鋼一郎との約束を、軽視した行いをした。
こちらの世界では異質だという魔法を、満足な隠蔽もせずに使った。
まだ加害者がいたかもしれないのに、周囲への警戒もろくにしなかった。
(――けれど、後悔はしていません)
次もきっと、リリティアは同じことをする。その確信が彼女にはあった。
(それでも、わたくしがお父様を裏切って、心配をかけたことは正しくない)
鋼一郎に対して謝罪の気持ちがあるのも本当だ。
「……分かった。お前は確かに、そういう子だ」
リリティアの言い分を聞いた鋼一郎は、ふうと息を吐いてそう言った。
「お前がきちんと考えて、自分の意思で決めて行動をしたのなら、父さんたちにもその意思を捻じ曲げることはできない。一人の人間の意思には何者だろうとも介入できないし、してもいけないことだから」
(わたくしの、意思……)
鋼一郎の言葉に、リリティアはぼんやりと、これまでの自分の人生を考える。
そうしてみると、リリティア自身が決めてきたことなど、ほとんどなかったのだと気付いてしまう。
リリティアの人生は両親――特に父親によって大体の部分を定められており、そこから逸脱することは許されなかった。というよりも、考えたこともない。
親に従うのが、シェルランダでは当然であったから。
「けれどお前のことが大切で、その身を心配している家族がいることも、忘れないようにしなさい」
「……はい」
猫の命とウサギの姿を重ね、喪われることを悲しく思った。
だがもし、引き換えに緋々希が、鋼一郎が、美羽が喪われることになったら。
(猫よりウサギより、悲しい。きっとわたくしは後悔する)
想像をしただけで、気分が悪くなる。
そしてリリティアはきっと、鋼一郎にそんな思いをさせたのだ。
下ろした手が縁を求めてスカートを握り締め、俯いたまま、リリティアは再度小さく謝罪の言葉を口にする。
そのリリティアの頭を、鋼一郎の手が優しく撫でた。伝わる温もりに、じわりと目頭が熱くなる。
「さ、戻ろう。母さんたちも心配してるだろうから」
「はい」
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