第10話 実体験に勝る経験はないのです

「……」


 それは良く手を掛けられている証に柔らかく優しい肌触りで、何とも言えない癒し効果がある。

 地べたと直接接触していて、汚い以外の感想など持ちようのない足裏までも、奇妙な気持ちよさがあった。

 何より、それらを心地良く感じさせているのは。


(……温かい)


 生き物の持つ、温もりだ。


宮藤くどうさん? どうかした?」


 呆けて固まったリリティアの異変に気が付き、かなでが心配そうにそう問いかけてくる。


「あ! も、もしかして、動物ダメだった!?」

「い、いえ」


 数十秒前のリリティアならば、確実に肯定していた問いかけだ。

 しかしなぜか、今リリティアの口から出てきたのは否定だった。そのことにリリティア自身も驚く。


「その、驚いただけです。わたくし、ケモ……動物と触れ合ったことがなかったものですから」

「大丈夫? 嫌じゃなかった?」

「ええ」


 相手の好悪も知らずにやってしまったことに、奏は申し訳なさを感じているようだった。眉をハの字にして、リリティアが我慢をしていないかを見定めようとする。

 もっとも、リリティアは付き合いで己の好悪を我慢するような性格ではない。この件に関しては奏の取り越し苦労である。

 だがそれとは別に、気遣われて嫌な気持ちになることもない。奏の態度にリリティアは自然、好感を抱いた。


「そっか、よかった。そうだよね、宮藤さんのお家って食べ物屋さんだもん。動物とかってNGだったよね」

「え、ええ。まあ、そうですわね」


 これまでの璃々りりの人生を探る時間はなかったので、適当な返事になってしまった。とはいえ実際、宮藤家に動物の影はない。きっと間違っていないだろう。


(そういえば宮藤璃々は、猫を助けるために飛び出したのでしたね)


 ということは、少なくとも動物嫌いではなかったと思われる。

 あるいは、好悪に関係なく己の身を挺して他者を助けられる義侠心の持ち主であったか――。

 記憶はあれど、感情はない。ゆえにリリティアにはそのとき、璃々が何を思っていたかは分からなかった。


「……」


 目覚めた直後、リリティアは璃々のその行動を愚かとしか思わなかった。だが今はウサギと見つめ合いながら、迷っている。


(……可愛い)


 口がずっともごもごしているのが、妙に愛らしい。純粋な黒の瞳も、ずっと見ていても飽きない愛嬌がある。


(小動物とは、こんなにも愛らしいものだったのですね……)


 だからといってリリティアは己の身を挺してまで助けようとは思わないが――ほんの少しだけ、璃々がなぜ飛び込んだのかは分かった気がした。

 飼育委員も悪くなかったのではと、うっかり頭に過ってしまうぐらいには。


 ――直後、全力で否定したが。




 動物の可愛らしさに目覚めようと、リリティアの日々に大きな変化はない。

 お風呂に入って頭をリフレッシュさせ、スキンケアを終えたら、就寝までの時間、勉強だ。


「――おい、璃々。いいか?」


 机に座り、さて始めようというときに声がかかり、気が削がれたリリティアは少しむっとした。

 とはいえ、声を掛けてきた緋々希ひびきがそのタイミングを狙ったわけではないだろう。悪意のない偶然というものだ。


「問題ありませんわ。どうなさいまして?」


 立ち上がって扉を開け、緋々希を部屋に招き入れる。


「そのお嬢様キャラ、まだ続けるのな……」

「一生変えるつもりがありませんもの」

「あと一、二年もしたら黒歴史だって……。まあいいや。お茶入れたから、飲め。お茶菓子もあるぞ?」


 言う緋々希の手には、言葉通りの物が揃ったお盆がある。


「わたくしにも失敗作の片付けを手伝わせようという魂胆ですわね?」

「そう言わずに、協力してくれ。家族だろう」


 苦笑いをする緋々希は、兄としてのプライドゆえか何ということもなさそうに振る舞っているが、消沈した気配は隠しきれていない。

 五月の新作を家族で考案中で、結果はこの通りイマイチらしい。

 こちらの世界の常識がまだ心許ないリリティアは、勉強を理由に今回は辞退させてもらっている。

 来月は参加する予定だ。


「よろしいですわ。脳の疲労を癒すのに、適度な糖分補給は効果的だと聞きますし」


 取りかかりかけた所ではあるが、一旦忘れることにする。


「お兄様にはお勉強でお世話にもなっておりますしね」

「さすがに四年前に習ったことぐらいは忘れてないって。しっかし本当、いきなり真面目になったな。どういう心境の変化だ?」

「ついていけない話は、つまらないものですわ。ならば面白くなるよう努力しようという、それだけですわね」


 学園の同級生の中で、自分が下位に属するのが嫌だから――という部分は、胸の内に仕舞っておく。


「面白きこともなき世を面白く、ってか。ま、七世代ななよしろだもんなあ。正直、お前が受かるとは思ってなかった。学校はどうだ?」

「中々、有意義に過ごしていましてよ」


 少しずつ驚くことが減って来て、ますますそう感じている。


(もし今、わたくしがシェルランダに帰ったら――……。いいえ、不要ですね)


 リリティアが今感じていることを、きっと璃々も考える。もしかすれば、もっと顕著に。そしてきっと実行する。

 どうも璃々は少しばかり努力が足りない怠け者な気配があるが、自分の望みのために志望校を変えない頑固さも持ち合わせている。きっと、目的に力が足りなければそのときは努力して――そして、成し遂げるだろう。


(……では、わたくしは?)


 ――ふと、そんなことを思ってしまった。


 高位貴族の家に生まれたリリティアには、当然のように家庭教師が付いた。勉学においても他の習い事においても、たとえ王族の前に出ても恥ずかしくない教養を修めるために。

 そして己の立場をよく知っていたリリティアは、妥協せずに努力してきた。自分のために、家のために。

 しかしそれらのほとんどは、今の状況では然程の役に立たない。


(……そ、そうっ。だからこそわたくしは、上を目指すべきなのです! わたくしが培ってきた淑女教育とは、上流階級でこそ活きるものなのだから!)


 弱気な気持ちを振り払う。

 けれど本当の意味で切り離すことはできなくて、声を小さくしながらリリティアに問いかけ続けてくるのだ。


 本当に? と。

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