第410話 火の粉舞う氷獄


「ってことで、ウルティスとしばしお別れ」


「……やぁだぁ! もっとお兄ちゃんと居たいぃ!」


「あら、ギャン泣きされてるじゃない。そこまでして連れて行きたいの?」


「この子の目標を達成するには、必要な鍛錬だ。足りないものを自覚して、得ることができるから」



 朝。

 鍛錬と修行も終わり、朝風呂や朝ご飯をウルティスと共にしたエストは、リビングで改めて氷獄送りにすることを伝えると、なんとウルティスが号泣し始めたのだ。


 エストのシャツを涙と鼻水でぐしょぐしょに濡らし、共鳴するようにエフィリアも泣き出し、阿鼻叫喚といった具合である。



「ちと可哀想じゃのぅ。何か策は無いのか?」


「すんごい懐かれようだね〜。エスト大好きっ子なのは分かってたけど、重症だ〜」


「策か……ウルティス」


「やだ!」



 策もクソもない。連れて行くな! そう言いたい気持ちが痛いほど伝わる否定の二文字。

 エストはよしよしと頭を撫でるが、足と足の間まで巻いた尻尾はピクリとも反応しない。


 ウルティスはつい先日、9歳になったばかりの女の子。

 エストも16歳になり、ちょっと大人なシスティリアはエストの3つ上である。



 かつてエストが辿った入学の道をなぞるウルティスだが、エストはどうも、自分との違いが大きいように感じた。


 ……そして、ちょっぴり羨ましいとも。


 自分が学園に行く時は家族に泣きついたりしなかった。せいぜい『友達ってどんなものかな』と考えるぐらいだった。


 だが、目の前の少女は、たった半年離れるだけで普段は仕舞っている涙を流し、全力で背中に腕を回している。


 むき出しの感情。心の叫びを感じ取れた。



「エストが朝の鍛錬に付き合い、夜に連れて帰るのはどうじゃ? それならエストも利があるじゃろうて」


「それいいかも。昼間だけ修行ってことだよ」


「……それなら、いい」



 魔女の提案を呑んだウルティスは、それでもエストから離れようとしなかった。あまり離しては可哀想なので、出発は明日にして、今日はずっと一緒に居ることにした。


 ……本当に、ずっと一緒だった。


 午前の散歩も、魔術の鍛錬も、昼のシスティリアとの外食も、午後の買い物も、夕方の料理の手伝いも、その後の入浴から就寝に至るまで。


 かつてここまでベッタリだった日はない。

 しかし誰も文句は言わなかった。


 ある種の『覚悟』を決める時間だったからだ。

 そしてウルティスは、一歩踏み出す勇気を出した。


 晩ご飯から朝ご飯まではレガンディ郊外の家で過ごし、朝から晩までは氷獄のログハウスで身の毛もよだつような修行をすると。


 当時のエストより幼く、精神も未熟。

 だが彼女は決めたのだ。

 ゆえに皆が背中を押し、支えてくれる。


 氷獄で待つジオですら、会う前から『やるじゃないかチビ助』と評価するぐらいだ。

 ちなみに氷龍は興味なさげに聞いていた。



 そして──小さな旅立ちの時。



「まず魔力制御で体を守ってね」


「はいっ」


「じゃ、行こうか」



 システィリアたちに見守れながら転移する。

 視界が一瞬にして藍色に染まると、エストは右手を握られる力が強くなったことを感じ取った。



「ここは大陸でも有数の標高を誇る山らしい。7000メートルだっけ。ほら、昼間なのに空が暗く感じる」


「向こう側が……ひょうごく」


「そう。息をするだけで肺が凍り、死んでしまう氷雪地獄。中から山を越えようにも、氷龍の巣の前を通るからね。まさにひとや──牢屋なんだよ」



 そんなことを言いながら、雪山が囲む盆地へ向けて歩いていく。

 今日はウルティスの氷獄デビュー日ということもあり、巣の洞窟を抜けたあとも歩いてログハウスに向かう。


 かつてエストが庭のように走り回った地形を教えつつ、凍ってないのが不思議なくらい冷たい川や、ローブの素材になった白雪蚕の特徴も伝授した。



「あの川のエビは多分、魔物化しないギリギリの魔力量なんだよね。だから美味しいし、僕らの回復量も大きい」


「いっぱい魔術を使って、エビさん食べる!」


「うん。でもそう簡単に捕れるかな? 道具はまだあるはずだから、後で簡単なレクチャーをしてあげる」


「やった〜!」



 ルンルン気分でログハウスに着く頃には、山頂に転移してから4時間も経っていた。

 最短ルートでエストの補助もあってこの時間である。それだけ広大で、過酷で、雄大な自然を有する氷獄の楽しみ方を教えるには充分だった。


 もっとも、ウルティスは遊びに来ているのではない。


 彼女の夢に近づくために。

 大好きなお兄ちゃんに近づくために。

 真剣に体と魔術を鍛えるために、ここへ来たのだ。


 ログハウスのドアをノックすると、黒い髪の青年が迎え入れた。



「よう、クソ優秀なバカ弟子とチビ助。待ってたぞ」


「よ、よろしくお願いしますっ!」


「おはよう先生。半年間、ウルティスがお世話になるね」



 暖炉で温まる大きな白い犬──白狼が起き上がると、久しぶりのエストに甘えた後、ウルティスの匂いを嗅ぎ始めた。



「シュンも喜んでるな。まぁお前の嫁と風狩狼ウィンドベネートの匂いが付いてるんだろ」


「おっきな犬さんだ!」


「チビ助。そいつは絶滅しかけの狼だ」


「甘えん坊だから、相性は良いだろうね」



 半年も世話になる家の住人である。

 ジオは問題ないにせよ、番犬……番狼でもあるシュンが認めたのだから、安心してウルティスを預けられる。


 シュンを撫でながらも、ウルティスは魔力制御で体を守っている。そのことに気が付いたジオは、ギョッとしてエストを見た。



「平常18時間。異常で15時間。好調19時間」


「ほ〜ん。お前にしては良い教え方したんだな」


「ウルティスは感覚が優れている。下手な理論を学ばせるより、感覚でやらせた方が上手くいく」


「だがお前はじょ〜〜〜な理論で教えるから、ちゃんと指導したと」


「さっすが先生。よくわかってる」


「弟子を理解せずして師が務まるかよバカタレ」



 ぺちぺちと頭を叩かれたエスト。

 初日から鍛錬するのも良かったが、エストの時ほど切羽詰まった様子でもないので、今日は氷獄での生き延び方とログハウスでの生活の仕方を教えることに。


 とはいっても、晩から朝は家に帰るので、実はウルティスよりエストの方が大変だったりする。


 何故か。それはエストが、ログハウスに直接転移が出来ないからである。



「お前の転移、なんか不完全なんだよな」


「そう……だよね」


「ああ。角の無い牡鹿おじか。牙の無い狼。翼の無いワイバーンってな感じだ」


「アイデンティティごと消失してるね」


「なんつーか、術式は良いんだが何か足りてねぇ」


「それが牡鹿の角にあたる、と」


「せっかくだ、お前にも稽古つけてやる。チビ助、お前もだ。むしろお前が本命だ。完全無詠唱で使える術式と、各詠唱で使える低練度の術式を全部紙に起こせ」


「はいっ!」



 ジオが指を鳴らすと、テーブルの上に大量の紙とインクと羽根ペンが現れた。紙には丁寧に魔法陣を描く枠が設けられており、ジオのウルティスへの期待が見える。


 その横では、カーペットに座るエストが空間転移の立体魔法陣を出現させ、ひとつずつ術式を確認していく。



 それから3時間。

 日が傾いてくると、ジオはある違和感に眉をひそめた。

 それはいわば、空間魔術における『常識』とも言える、基礎中の基礎の『型』が無かったからだ。



「お前、転移先に結界張ってねぇな」


「結……界……?」


「は? おま、空間魔術のド基礎だぞ!?」


「僕……教わってない」


「はぁ!? 馬鹿言え、ンなワケ……ワケ……わけ…………あるな」



 刹那、ジオのエストに教えた術式を思い出す。

 教えたのは、空間把握と亜空間の開閉、そして転移。


 そう、自分で言う『ド基礎』に関して一文字たりとも教えていなかったことを、この瞬間に思い出した。


 そして頭を抱える。



「……なんでそれで転移出来んだ? つーかよく魔族倒せたな。はぁ? お前有り得ねぇだろ。普通結界ナシに転移とか、チッ、クソ。クソ優秀なせいで出来ちまったのか……はぁぁ」



 こればかりはエストの才能が悪かった。

 あのジオでさえ見落としていた基礎を、その手にすることなく転移が使えてしまっていたのだから。


 同時に、を実感する。


 空間魔術が空間魔術たる最強にして基礎の理論を学ばずに、人類を根絶出来る魔族を打ち倒してしまったのだから。



「もう、お前、何も学ばなくてよくね?」


「やだやだやだ! 僕に結界の術式教えて!」



 エストが興味を持った以上、教えてもらうまで帰る気は無さそうだ。これがバカ弟子たる所以か。



「はぁぁ……チビ助、その点お前は良い弟子だ。クソ優秀ってワケじゃねぇから、人の領域でしっかり学べるぞ」


「うんっ! あたし、頑張るね!」


「おう。後で甘いモン食わせてやる」



 1000年を生きる魔術の祖、リューゼニスでさえ、ウルティスの笑顔には弱いらしい。

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