第397話 熟練の狼吸い


「すぅぅ……はぁぁぁ」



 寝室にて、エストはシスティリアの耳と耳の間に顔をうずめ、大きく息を吸い込んでいた。これはエストが精神的なストレスを発散したい時にする、通称狼吸い。


 実際には石鹸の匂いやフェロモンを吸っているのだろうが、とにかく、エストはシスティリアを吸うことで元気になる。


 しかし、今日は違う。

 昨日馬車がオラッジに着いて早々、宿をとると家に転移し、夜はシスティリアとウルティスと眠り、朝からこうして吸っているのだ。


 傍には、起きたばかりのウルティスが待っている。


 たっぷりとシスティリア成分を補給したエストは、おもむろにウルティスを膝の上に乗せると、その小さな耳と耳の間に顔をうずめた。


 そして、ゆっくりと吸い込む。



「ふむ……これは中々」


「『これは中々』じゃないわよ! アンタなにウルティスまで吸ってんの!?」


「いや、吸ってほしそうに待ってたから」



 事実ウルティスは吸われ待ちをしていたのだが、システィリアが強制的にエストから剥ぎ取ると、エストを押し倒して顔面に胸をうずめさせた。



「むが! もががが!」


「お姉さま……お兄ちゃん……しんじゃう」


「アタシ以外吸っちゃダメなの!」



 窒息に苦しむエストだったが、システィリアに埋もれて死ぬのなら本望だ……とでも言いたげに力を抜くと、柔らかな死が顔から離れた。


 そこには満足そうな顔をするエストが居たが、突然パチッと目を覚ますと、あっという間に着替えを済ませて転移した。


 システィリアはウルティスを見て首を傾げるが、ウルティスも鏡のように同じ方向へ首を傾げる。



「まぁ、すぐに戻ってく──早っ!?」



 すぐ帰ってくると思っていたシスティリアだったが、わずか十数秒で寝室にエストが帰ってくるとは思っていいなかった。


 驚いて耳と尻尾をピンと立てたシスティリアを撫で、エストはローブを脱いだ。



「昨日とった宿に反応があったんだけど、僕に会いたい人が押しかけただった」


「あぁ……フードとっちゃったのよね?」


「うん。用意をしたら、路地から馬車に乗るよ。確か昼の2時からの相乗り馬車がある」



 エストは、眠たげに目を擦るウルティスを抱き上げ、3人で朝食をとった後に日課の鍛錬をこなす。ボタニグラの様子を見たり、ヌーさんたちとのスキンシップも忘れない。


 エフィリアを抱えた魔女が庭に来ると、伸びをしながら木剣を持ってきたシスティリアと模擬戦をする。

 普段は3本先取の寸止め無しだが、今日は予定があるので1本勝負。


 拮抗しながらもエストもで捌こうとするが、相手は星付きの剣士。

 柔軟な動きから振られた剣が、加速したようにインパクトを加えられ、エストも対応出来ずに1本取られた。


 汗をかき、目を閉じて反省するエストに抱きついたシスティリアがぐりぐりと顔を擦り付ける。

 汗臭いだろうにとエストは言うが、システィリアが大好きな匂いだ。そして、離れざまに耳元で『今日は2人よ?』と言う。


 ほんのり照れくさそうに言うシスティリアを、今度はエストが抱き締めた。



 それから軽くシャワーを浴びたエストとウルティスは、昨日と同様に変装をしてオラッジの路地へと転移する。


 宿は前払いなので、これで心置き無く買い食いが出来るというもの。



「お兄ちゃん、あれ食べたい」


「どれ、お兄ちゃんが買ってあげよう」



 システィリアからの誘いに浮かれているエストは、軽くウルティスにノリながら串焼きから野菜巻き、オラッジ名産の柑橘を食べていると、珍しい店を発見した。



「香水屋?」


「いらっしゃいませ。本店は香水を取り扱う店となっております。値は張りますが、一日の香りを彩ることを約束しましょう」



 そんな案内で入店すると、様々な柑橘の香りや甘い香り、華やかな香りに包まれた。奥から歩いてきた女性店員は、目敏くウルティスの耳を発見した。


 一瞬だけ、店員がゴミを見るような目をしたが、幸いにもそれに気付いたのはエストだけだった。



「ウルティスはどんな香りが好き?」



 希望の香りがあれば買ってあげようと思っていたエストに、真正面から答えたウルティスは……



「お兄ちゃんの匂い!」



 近い香りの物があれば探せるが、自分の匂いなど分からないものだ。

 システィリアを連れて来たら分かるかもしれないが、彼女はウルティスよりも数倍は鼻が利くため、香水自体、気に入らないかもしれない。



「ありがとう。じゃあ、僕以外だと?」


「お姉さま!」


「それも除くと?」


「う〜ん……バラさんの香り?」



 エストが近くに居た店員に目配せすると、バラの中でも様々な種類や配合されたコーナーに導かれた。

 その中でも幾つかある小瓶のうち、ウルティスは鼻を鳴らして嗅ぎ分けるが、理想の香りは無いと言いたげに首を横に振った。


 エストが膝をついて小声で尋ねると、中々に入手が難しいバラの香りが好きなようだ。



「あのね、お師匠のね、お家の庭にあるバラさんが好きなの」



 エストは、無表情かつ感情の篭っていない瞳で店員を見た。



「ねぇ、青薔薇の香水はある?」


「そ、そのような物はございません……申し訳ありません」


「だってさ。まぁ、青薔薇の香水なんて数千万リカはするよ。置いてあったら即決で買ったけど、残念だ」



 目当てのものが無いと知ると、エストはウルティスの頭を撫でた。このまま出て行こうかとも考えたが、せっかくだからと、桃のような香りのするバラの香水を1本買った。


 15万リカしたが、システィリアのお土産なら無駄遣いだと怒られることもないだろう。




 そうして、午後2時まであと5分というところ。


 オラッジの屋台や露店を食い尽くさんとばかりに買い食いしていると、予約をしていた相乗り馬車に乗った。


 両手に串焼き4本を持ったウルティスが、定位置とばかりにエストの膝の上に座り、背中とお腹の間で尻尾を振る。


 エストも片手に小麦から出来た生地で肉と野菜を巻いた物を持っており、既に乗っていた4人から視線を集めた。



 だが、視線も気にせず食べていると、知った顔の男が最後に乗り込んできた。



「あ、貴方はっ!」


「昨日の。愛する人の治療費を稼ぐ人」


「もうかってまっか〜?」



 ウルティスが誰から聞いたのか、少々失礼なことを言いながら串焼きを口に運んだ。


 そして目の前の男は、そう。好きな異性の治療費を稼ぐために、アカームへと向かう冒険者だった。

 冒険者ランクはC。名前はウースという。

 得物は腰に差した直剣だが、短剣を使って斥候も出来るという。


 ここまでベラベラ話したのは、エストが一ツ星……ひいては賢者だと知ったからだろう。



「君はアカームのダンジョンに?」


「そうです。エス……貴方たちは?」


「街道の掃除。ボタニグラの種を運んだ馬車の事故、それの被害調査と街道整備」


「あぁ〜。あの不人気な依頼……」


「ま、別に依頼は受けてないけど」


「へ?」



 ウースが驚くのも当然だろう。他に乗っている乗客も、依頼を受けてない部分に思わず声を上げていた。



「どうして受けられないんですか?」


「だって、既に街道付近に種が無かったら、誰が達成を認めるの?」


「……っ! そ、そういうことか」



 エストがあの依頼の確認だけして去ったのは、8割の面倒くささと、2割の疑念があったからだ。依頼主はアカーム市長となっていたが、色々と胡散臭そうなのでやめていた。


 冬にボタニグラが発芽するとは思えないが、それでも発芽していた場合は既に歩き出していることが予想され、他にも種が既に掃除されていた場合など、様々な理由から以来失敗になる可能性があったのだ。


 ゆえに、エストは不人気と聞いて納得した。



「不人気な理由、わかる?」


「いえ……でも、言われて納得しました。種が残っているのか分からない上に、仮に持ってきたとしても、まだ残っていると言われたら失敗扱いになる」


「まぁ、後者はギルドと冒険者の信頼に関わるから、無いとは思うけど」



 やるなら種ひとつにつき何百リカ、などの納品制にすれば解決しやすいだろうとエストは思った。

 まず、依頼として成立しているのか怪しいほど、目的が曖昧なのも不審な点だ。街道付近の種の除去……ひと口で言えば聞こえは良いが、依頼としては不明瞭である。


 すると、ウルティスの耳がピコっと跳ねた。



「お兄ちゃん、魔物いっぱい」


「街の北側から150体のウルフだ」


「街の北……ダンジョンか!?」



 ウースが振り返って北を見ると、なにやら黒く蠢く波が、徐々にではあるがアカームの街へ進行している光景が広がっていた。



 これは……活性化である。



 もっとも、ユエル神国ダンジョン都市での活性化に比べたら、10分の1にも満たないのだが、ダンジョンから魔物が溢れる様子は壮観だ。


 これには御者も馬の足を早め、同乗していた冒険者に活気が満ち始めた。



「お兄ちゃん、倒さないの?」


「今回はウルティスがやるといい。あの規模の活性化なら、街の冒険者たちでなんとかなる」



 何か言いたそうにするウースだったが、馬車はそのまま、何事もなくアカームに到着した。

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