第377話 仕事終わりの休日
シュバイドで軽く買い物を済ませたエストは、防護柵の確認をしてから畑予定地でヌーさんと合流した。
「じゃあ、騎士団巡りをする……前に一度、家に帰るね」
「もちろんだ、賢者殿。その、なんだ……ゆっくりしてくれ。ヌーさん殿もしっかりと休ませてやって欲しい」
「わかってるよ。今回は僕も時間をもらう」
村の主要な人物に見送られたエストは、ヌーさんを連れて半透明の魔法陣を踏む。瞬きをする間に景色が変わると、約一週間ぶりの自宅の庭に足をつけていた。
体を震わせたヌーさんが森の方へ走って行くと、ウルティスと遊んでいたワンワンとバウバウ、それにリィトの3頭とひとりが迎えに来た。
「おにいちゃん! おかえりなさい!」
「ただいま……っとと。力、強くなったね」
飛びついてきたウルティスを受け止めたエストは、数ミリほど衝撃で後ずさってしまう。幼くとも、獣人の中で屈指の力を誇る狼獣人なだけはある。
わしゃわしゃと頭を撫でては耳を揉みほぐすと、花が咲いたような笑顔を見せた。
「えへへ、おねえさまをたおすもん!」
「頑張ってて偉いね。魔術の方はどう?」
そう訊いたエストに、ウルティスが指先の魔法陣を見せようとした瞬間──
「テメェ帰ってくんのが遅せぇんだよクソ優秀なバカ弟子! 俺が一週間後に来るって言ったよな!?」
玄関から飛び出てきた黒い髪の青年……ジオが口の周りにクッキーの粉を付けて叫んだ。どう見ても家を満喫していた姿に、エストは小さな声で囁く。
「ねぇウルティス。あの人いつから居るの?」
「おととい!」
元気に答えたウルティスの頭を撫で、ジオに向き直る。
「じゃあ予定より早く来てたんだ。口の周りを汚した上にお説教なんて、師匠でも1回しかしなかったよ」
「……お前、怒られたことがあるんだな」
「当たり前だよ。食べながら魔道書読んだり、火魔術で大火傷した時とか。あと……魔道書を
大火傷の時は心配ゆえに怒っていたが、魔道書周りは行儀の悪さや書いた者への無礼が原因で叱られたものである。
懐かしさを含んだ恥ずかしい思い出に、唇に力が入るエスト。
「お前は大人の
「……師匠が何か言ってたの?」
「俺がアイツなら、そう感じたってことだ。子どもの傍に居てやれ。あと嫁の見た目を何とかしろ」
「は?」
そう吐き捨てて家に戻っていくジオは脱衣所に消え、エストはウルティスを抱っこして帰った。
手で何かを握っていないと、魔術が暴発してしまいそうだったのだ。ジオへの
テーブルの横でエフィリアを抱っこするシスティリアの髪が、剪定を忘れた木のようにあらぬ方向へと跳ねていたのだ。
足音と匂いを感じてエフィリアをベビーベッドに寝かせると、彼女は両腕を広げて近付いてきた。
エストも軽く広げて抱き留めると、彼女は耳を動かしながらエストの首元に顔を擦り付けた。
「……おかえり」
「ただいま。ちょっと不機嫌?」
「かなり不機嫌よ。アンタ、全然帰ってこないんだもの。尻尾もほら……ぼふぼふになっちゃった」
開いた松ぼっくりのような見た目の尻尾を振りながら、顔を上げたシスティリアとキスをする。
「またどこかに行ったらイヤよ?」
「大丈夫。お仕事自体は終わったから。あとは魔物を倒して、ギルドと話し合いするだけ」
「そっ。ならちゃんとアタシに構いなさい」
彼女を力強く抱き締めたエストは、システィリアにソファで待つように言った。彼女用のブラシや櫛を創る間に、今にも泣き出しそうなエフィリアを抱っこする。
「ただいまエフィ。もう離れないからね。うん、ママとパパと一緒に居よう」
エストの声に反応して動いた、絹のように白い耳。エフィリアが笑みを浮かべるとエストも笑い、再びベッドに寝かせてはブラシたちを手に取った。
横向きに座るシスティリアの隣に腰を下ろし、ボサボサの髪を丁寧に梳かす。
「あたしもあたしも!」
「ウルティスもやろうか。マ……システィが先だから、座って待っていてね」
「アンタ今、ママって言いかけたでしょ」
「わらわを呼んだかのぅ?」
「呼んでないですぅ。言い間違えただけ」
ややこしくなる気配を感じたエストは、素直に言い間違いを認めた。しかしシスティリアの尻尾はゆらりゆらりと揺れており、次はどんなイタズラをしようか考えているようだった。
ひょこっとソファの背から顔を出した魔女だが、ほんのり寂しそうにしながらウルティスに新たな魔道書を手渡す。
表紙を覗けば、ちょうどウルティスと同じ8歳の時に読んだ魔道書に、懐かしさから頬を緩めたエスト。
「綺麗になったよ……ふぅ。吸い心地も抜群」
「寝る前によく吸ってるけど、そんなにアタシの匂いって良いものかしら?」
「最高だね。心が安らぐ香りがする」
「そ、そう? うふふ……アタシもエストの匂い、好きよ?」
背中を向けたまま、左右に激しく振られた尻尾をエストが目で追う。今すぐにでも抱き締めたい衝動に歯を食いしばって耐え、尻尾の付け根に左手を添えると、根元から櫛で整えていく。
櫛の歯が当たり、ぶるりと震えるシスティリア。
しかし、エストのスタイリングを前に緊張はすぐに解け、肩を落としてリラックスしている。
丁寧に毛並みを整えて、エストが愛してやまないふわふわの尻尾に仕上がると、膝の上にウルティスが跳び乗った。
「おにいちゃん、あたしのばん!」
「はいはい、待ってね。オイル塗るから」
エストは両手のひらにボタニグラの種子から抽出したオイルを垂らすと、システィリアの尻尾に馴染ませるように塗っていく。
すると、すんすんと鼻を鳴らしたシスティリアが顔だけ振り向いて訊いた。
「爽やかな花の香り……新しいオイル? いつもと香りが違うわよね?」
「正解。シュバイドで買ったんだ。貴族向けの値段だったけど、システィのお手入れに幅が広がるなら即決だった」
「もうっ……ありがとっ」
お値段は大瓶で7桁もする超高級品だが、数年は使える代物なので小瓶で複数買うよりも経済的であり、何よりも手入れの幅が広がったことが喜ばしい。
濃い化粧をしない庶民ではあるものの、背伸びをすることでより美しく保てるなら安いものだ。
とはいえ、7桁の値段がするオイルは流石に手を出しづらいものだが。
「貿易都市の名は伊達じゃないわね」
「ボタニグラの安定栽培ができたら、もっと入手しやすくなるよ。燃えてくるね」
「魔術の次は化粧品かしら? 試供はアタシね」
「……どうしよう」
「エスト? 何かあったの?」
ピタリと手を止めたエストに、ウルティスも顔を見上げて心配する。
「これ以上システィが綺麗になったら、僕、どうにかなっちゃうよ。心臓が爆発しちゃう」
手を震わせながら呟くエストに、2人は揃って溜め息を吐いた。
「はぁ……ねぇエルミリアさん。エストってば、アタシのこと好きすぎないかしら?」
「エストは一度好きになると中々離れんからのぅ。お主に対する愛は一生続くぞ」
「悔しいのよね……エストに愛情で負けるの。アタシの方が先に好きになったのに……」
そうして髪の手入れも終わると、今度はウルティスの髪も梳かしていくエスト。隣に座るシスティリアがエストの左腕にしなだれかかると、耳をぱくっと咥えられた。
「ふにゃう! うぅ……変態!」
「次は口だよ」
「……じゃあもう1回……んっ」
甘えてくるシスティリアを満足させ、ウルティスの髪と尻尾の手入れを完遂したエストは、両手に花ならぬ両手に狼だった。
右手では膝の上で魔道書を読むウルティスを抱き留め、甘えながら
「なんだか僕も眠くなってきた……」
「おいおい……なんだアレ」
真昼間から風呂に入っていたジオは、濡れた黒髪にタオルを当てながら指さした。
そこには、ウルティスの頭に顔を突っ込むようにして眠るエストと、綺麗になった2人の狼もまたエストに体重を預け、寝息を立てる光景が広がっていた。
「休みなく働いておったからの」
「情けねぇ弟子だ……ったく」
3人に大きな毛布を掛けたジオは、椅子に座ってはテーブル上にあった柑橘系のジュースを飲み干した。
「あ! それウチが飲もうと思ってたご褒美! その1杯が最後だったのに!」
「あ? ンなもんお前が買いに行けよ二ツ星」
「ふん! いいもんね〜、後でエストに言いつけるもんね〜!」
「……姉弟揃ってめんどくせぇな」
エストに絡まれると面倒である。厄介事の火の粉は払うべきだと判断し、席を立ったジオの背中に優しい声が刺さる。
「センパイ、先に片付けるんじゃろ?」
「……もうやったっての」
「ふっ……やはりセンパイは優しいのじゃ」
「優しくねぇよ。これでもクソ優秀な弟子の師匠だ。アイツより役に立たねぇと、示しがつかねぇだろ」
頬を掻きながら言うジオだったが、魔女はムスッとした顔で──
「む? 師匠はわらわじゃ。センパイは先生じゃろ?」
「ンなもんどうでもいいだろ!」
「よくないのじゃ! わらわがエストの師匠じゃ!」
「……だりぃ。アイツの周りの人間、全部だりぃ」
「はよぅ撤回せぇ。エストを起こすぞ〜」
人差し指で黒い単魔法陣をクルクルと回す魔女に、頭をガシガシと掻いたジオは溜め息混じりに肩を落とす。
「はいはい、分かった分かった。師匠はお前で俺が先生、学ぶアイツはクソ優秀。これでいいか?」
「うむ! ついでにパンを30個ほど買ってくるのじゃ」
「……死ね! クソババア!」
「わらわは中々死なんぞ〜」
「待って、チーズも大きいの買ってきて〜!」
「……なんだよマジで、ウザすぎたろこの家」
心底疲れた表情で、パンとチーズ、それから果実のジュースを買いに行くジオであった。
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