第2部-第2章 古代の魔物
第362話 本気を出す賢者
「ヌーさん、そこの街道から逸れて行くよ」
『……ヌゥ』
エストは
「全速前進。楽しむ余裕は無いよ」
愛しい妻子から離れることを嫌い、エストは家族に『本気出してくる』と言って出発したのだ。
のどかなレガンディ公爵領から歩みを進めるエストだが、旅で使った街道は一切通ることなく、直線距離で北西へ移動している。
「山か。ヌーさん、一度休憩しよう」
『ヌゥ』
「やる気があるのは嬉しいけど、体力の消耗が酷い。散歩をサボったツケだよ」
『…………ヌゥ』
朝の鍛錬で庭を走るエストだったが、ヌーさんはウルティスと遊ぶために散歩をあまりしなくなってしまった。
そのせいだろう。レガンディが誇る鉱山にして、帝国内で3番目に高い山を越えられないと判断したエストは、麓でヌーさんを休ませた。
「お、狼だ! バカでかい狼が出た!」
「……人が乗ってるぞ!」
「逃げろ! 逃げろぉぉ!!!」
坑道の入口付近は流石に人が多かったか、大きなヌーさんとそれに跨るエストに驚き、小さなパニックが起きていた。
しかしエストは気にする様子も無く、ブロフから貰った地図と照らし合わせながら北西へ進むが、体感で地図が不完全であることに気付き、そっと亜空間へ仕舞った。
大陸の全ては『行けば分かる』の精神で山頂にヌーさんが着地すると、雲よりも僅かに低い位置から、帝国の大自然を一望する。
ヌーさんの口へ氷を放り込み、青々とした緑の海を見て、肺いっぱいに夏の清風を取り込んだ。
「ふむふむ、反対側は魔物が多いね。パッと見て30……野生個体は処分も面倒だし、駆け抜けちゃおうか」
『ヌゥ……!』
「追い払えるの? でもやっちゃダメだ。近隣の村に被害が出る。僕が魔力を出すから、それで一時しのぎしよう」
『ヌゥ』
そうしてヌーさんの背中に掴まり、氷の縄で体を括り付けてから走り出せば、
普通なら生きた心地がしない落下時間の長さだが、着地の直前に強い風がヌーさんを包み込み、2分足らずで標高約2000メートルを下山した。
その後は生い茂る木々の隙間を縫って進み、時に
ヌーさんを見せて馬を驚かすわけにはいかないので、エストがヌーさんの背中に手を置く。
「
『ヌゥ!』
闇属性の魔力を纏うことが嫌なのか、ヌーさんは周囲の風を操ってエストの
大きな騒動にならないことを祈るエストに反して、丘を薙ぐ風の心地良さに尻尾を振るヌーさん。
「ま、いっか。一風狼の一奇人。ただ大きな狼と変な人だけど、きっとすぐに噂は広まるし、堂々としよう」
『ヌゥ……ヌゥ!』
「楽しそうだね。僕も風が気持ちいいよ。……あ〜あ、これは家族みんなで味わいたかった。こんな良い天気の下で食べるシスティ特製ソースのサンド…………考えただけで涎が止まらない」
『ヌヌゥ』
「丘の先、平原を越えると街があるはず。そこを迂回する頃には日が暮れるだろうから、少し休んだら夜も進むよ」
『ヌゥ?』
「本当だよ。こんな依頼に時間を使っていられない。こうしている今も、システィは母親として1日を過ごすのに、僕は父親として時が止まったままなんだ。少しでも多く一緒に過ごして、一緒に成長しないといけない」
娘のためなら本気を出すことを
時刻は夜8時を過ぎた頃、夕食の休憩をとった後は、街を迂回しながら北西へ向けて凄まじい速度で駆けていく。
風を切り、森を抜け、川を跳び、谷を短距離転移して進むひとりと1体。
家を出てから20時間が経ち、朝日が昇ろうとする時間になれば、遂に目的地のシュバイド……に繋がる街道に出ると、エストはヌーさんを止めた。
「馬車が襲われてるみたい」
『ヌゥ?』
「助けるけど、コソコソはしないよ。やるならド派手に助けて、シュバイドと開拓村に少しずつ圧力をかける」
『ヌゥ!』
ヌーさんから飛び降り、目を凝らしたエストは、前方の集団がゴブリンに襲われる商人一行だと認識する。
だが、ゴブリンの様子が少し変だった。
ただ獲物として人間を襲う動きというよりは、計画性を持った立ち回りを意識しており、Cランクはあるだろう冒険者を翻弄し、腹に爪を突き刺したのだ。
「野生個体にしては賢いな」
ブロフから聞いていた凶暴なトレントの話を思い出し、エストは夜明けと共に
炎龍の魔力を多分に含んだそれは、像と称するには威圧感が強く、本能が恐怖を呼び起こす。
杖を掲げ、振り下ろすと同時に炎のワイバーンがゴブリン集団に突撃すれば、護衛の冒険者は死を覚悟して身構えた。
しかし、ワイバーンは人間や馬車を襲うことはなく、ゴブリンだけを灰にしたのだ。
「大丈夫? 怪我人も居るみたいだけど」
そう言って純白のローブをはためかせて現れたエストに、冒険者たちは酷く怯えていた。
断じて、エストに怯えたのではない。
彼の隣に立つ、人間程度なら丸呑みに出来る巨狼、ヌーさんに怯えている。
「早く怪我人をここに。血の匂いは魔物を呼ぶよ……この子みたいにね」
イタズラな笑みを浮かべてヌーさんの前足を触ると、呼応するように轟音の遠吠えをするヌーさん。
あまりの恐怖から何人かの冒険者が失神してしまうが、ヌーさんが吠えたのには理由があった。
というのも、エストが言った通りに魔物が寄って来ていたのだ。
ド派手にやるならヌーさんの威圧が最適だと判断したエストに、阿吽の呼吸で合わせたに過ぎない。
よくやったと言って撫でるエストに、尻尾を振って風を巻き起こすヌーさん。近付きがたい雰囲気のコンビに、馬車の持ち主が前に出て来た。
商人として成功を収めていることが見て取れる恰幅の良さと脂ぎった肌と髪。下卑た目こそしていないものの、ひと目でエストを賢者だと認識するや否や、値踏みするような目で頭からつま先を見た。
気分が悪いエストは、少しでも癒されようとヌーさんのふわふわした横腹に右手を突っ込むと、ヌーさんが何度も鼻を鳴らす。
「こ、これはこれはエスト様。お初にお目にかかります。わたくし、しがない商人の──」
「魔物が多いね。シュバイドから?」
商人の名乗りを遮って経緯を聞くエストは、ヌーさんを撫で続けていた。
「え、ええ。まさかゴブリンが集団で襲うとは予想も出来ず、お手を煩わせてしまい申し訳ありません」
「本当だよ。煩わしい」
「申し訳ありません……重ねて、救って頂いた恩に報いる物が無く、また後日お支はら──」
「君さぁ。僕はともかく、この子にバレないと思ってるなら中々に愚かだよ?」
「何のことでございましょうか!?」
あわよくばエストと縁を繋げたい商人は、あまりにも鋭い槍剣杖の穂先を喉元に突きつけられ、尻もちを着いてしまう。
その様子に護衛の冒険者らが剣を抜くが、ヌーさんが唸ると腰が引ける。
「それ、首から下げてるやつ。足元に置いて」
「こ、このお守りのことでしょうか?」
次は真っ赤な魔法陣を出して脅すエストに、商人はお守りと言った小さな袋の付いたネックレスを足元に置く。
それを拾ったエストにヌーさんが鼻を鳴らすと、商人に向かって牙を向いた。
襲いかからないよう足を撫でて制止したエストは、護衛の冒険者の前に立つと、皆が見えるように掲げて大声で言う。
「この袋の中にはボタニグラの溶解液が入っている。知っての通り、この溶解液は魔物を誘引する効果があるんだ。君たちはそこの商人に、魔物の餌として使われたんだよ」
ボタニグラの研究者として、溶解液の匂い関しては人一倍敏感なエストだ。唯一魔物化した庭のボタニグラは、処分後も溶解液の研究に使われている。
ヌーさんたち
護衛依頼が罠だと知った冒険者は、商人を囲むと一斉に剣を向けた。
「ち、違うんだ! 本当にこれはお守りとして渡されたんだ! 私だって被害者なんだ!」
「結果として俺たちは危険な目に遭っている」
「お前が居なければ、怪我をすることもなかった!」
「相棒が内臓を抉り出されて死んだんだぞ!」
「……いや、俺生きてるけど」
「……へ?」
「あの人が助けてくれたんだ」
いつの間にか治療を受けていた冒険者が指をさした先には、袋に入っていたボタニグラの溶解液を取り出すエストが居た。
中に入っていた綿は黄色く染まっており、ヌーさんが牙を向いて唸っている。
完全無詠唱の
「僕はもう行くよ。後は君たちでどうぞ」
ヌーさんに跨ったエストがそう言うと、治療を受けた冒険者が手を伸ばす。
「待ってくれ! 治療の代金が──」
「営利目的だと治癒士に怒られるから」
それだけ告げて去る背中は、一瞬にして冒険者たちの心を掴んだのだった。
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