第350話 紅狼珍道中


「アリアおねえちゃん、さいきんね、おにいちゃんがイキイキしてる」


「そだね〜。ボタニグラの研究も順調っぽいし〜、2人でお散歩も増えたし〜、楽しそうだね〜」



 ボタニグラが開花してから2週間が経ち、すっかり初夏の風を感じるようになった頃。庭で鍛錬をするウルティスは、木剣を持ってアリアに立ち向かう。


 まだ8歳の女の子とはいえ、アリアは容赦をしない。

 今日は魔女も日向ぼっこに庭へ出ているので、普段以上に怪我を恐れることなく戦えるのだ。


 ウルティスは両手で木剣を握ると、右足側でだらりと構える。まだ片手で振るには筋力が足りず、アリアの剣術を受け継ぐに至らない。


 そのため、模倣という形をとって剣技を近付ける。



「えぇいっ! やぁ!」


「足運びを意識して。そう。剣を当てるのが目的じゃないよ。間合いを詰めて……うん、いいねぇ。はいそこ」


「うきゃぁっ!」



 ウルティスが次に踏み出す場所に剣先を置くと、前のめりになって転ぶ。しっかりと受身をとって立ち上がり、話を聞く姿勢をとった。



「交互に足を出したくなる気持ちは分かるんだけど〜、動きを読めちゃうからダメ。例えば……よく見ててね」



 アリアはウルティスに近付くが、向かって左側へ一歩を踏み出すと、そこで両足を揃え、次は右側へ二歩進み、半歩下がってまた左側へ一歩を踏み出す。


 秋に舞い落ちる、木の葉のように不規則に。

 されど明確な到達点に向かって進む足運びは、見ているだけで思考を割かれ、立ち止まることもあるせいで予測が困難になる。


 しかし、ウルティスが感動したのはその速度にあった。


 木の葉のように舞う足運びだが、まるで何倍にも加速したような速さで近付いてくるのだ。



「この動き、分かる?」


「わかんない!」



 分からない。それこそが答えである。

 それは例え、動きを読まない動物や魔物であっても対応が間に合わない、生物全般に通ずる技術ということ。


 真紅の尻尾を振り、目を輝かせるウルティスに近付いたアリアは、耳に触れないように頭を撫でた。



「読まれる前に足を揃える。それから動き出して、また読まれる前に足を揃えるの」


「すごい! おねえさまもできるの!?」


「システィちゃんも出来るけど、やらないって言ってたよ〜?」


「どうして?」


「……エストとの模擬戦で使ったら、まず足を潰しに来るからって。要するに〜、お兄ちゃんもこの動きは苦手ってこと」


「これでおにいちゃんもたおせる?」



 いつか一度は倒してみたいと思っているウルティスだったが、アリアは現実を突きつけた。



「無理。今のエストはこの動きを読めちゃうから。天空龍の魔力のせいかな〜? 空気の流れを捉えちゃってさ〜。足運びに合わせられちゃうんだよね〜」



 数日前の朝の鍛錬に同行したアリアは、完璧に動きを合わせてきたエストに驚き、もう足だけでは倒せないことを実感したのだ。


 結果としては剣も使ったのでアリアの圧勝だったが、足を読まれたことを相当根に持っていた。



「微妙に違うのぅ。エストは空気の流れを読めん。その代わりに、空間内の魔素の動きを捉え、アリアの足を読んでおるのじゃ」



 日向ぼっこをしていた魔女がそう言うと、2人は揃って向き直った。



「え〜、何それずる〜い!」


「ずる〜い!」


「じゃが3秒しか維持出来ぬと言っておったぞ。なんでも、魔力ではなく魔素から捉えるゆえ、脳が焼き切れそうになるのじゃとか」


「……え? 魔素から捉えるって、よく考えたら怖くない?」


「うむ。吹雪の中で1粒ずつ雪を見るのと同じじゃ。恐ろしいのは『3秒しか』と言ったエストの方にある。わらわたちにとっては、『3秒も』捉えておるのじゃからな」



 何を思えばそんな技を身につけようと思うのか。

 ウルティスも含めて3人が疑問に思っていると、ちょうど散歩から帰ってきたエストとシスティリアが庭にやってきた。


 指を絡めて手を繋ぎ、笑いながら歩く2人。

 その内に秘める狂気の技術に、アリアは思わず溜め息を吐いた。



「ウルティスよ。まずはその足運びを身につけよ。お主ならばアリアの技を継承出来るゆえな。ここでの生活を糧にするのじゃ」


「うん! アリアおねえちゃん、おしえて!」


「任せなさいな〜」



 アリアの技を少しずつ理解していくウルティスは、武術はアリアから。魔術は基礎を魔女に教わり、応用をエストから学ぶことになった。


 体を動かすのが好きなウルティスは、軽い気持ちでエストに模擬戦を申し込むと手も足も出せずに敗北した。


 動きを学ぼうと早朝の打ち合いの見学を始めたが、型を持つアリアやシスティリアに対して、特定の構えを持たないエストに首を傾げる。


 そのことを指摘すると、エストは真顔でこう答えたのだ。



「僕は近接戦闘の才能が無いからね。大きくなれば、ウルティスは必ず僕を倒せる。型を覚えたら、僕で実験するといい」


「……さいのう、ないの?」


「うん、無い。でもウルティスにはある」


「ほんとう?」


「本当だよ。少なくとも僕よりは」



 頭を撫でられ、耳を揉まれると目を細めるウルティス。ぐりぐりとエストの腹に顔を擦り付けていると、システィリアから氷のように冷たい視線を向けられた。


 仕方がなさそうにエストを背後から抱き締めたシスティリアだったが、大きなお腹が邪魔をする。

 耳と尻尾をしゅんと垂れさせた彼女に、ウルティスを離したエストが逆にシスティリアを後ろから抱き締めてあげた。



「アンタのそういうところ、大好き」


「僕も自分のこういうところが好き。ちゃんとシスティを愛せてるんだな〜って思うもん」


「愛されすぎて溶けちゃいそうよ」


「じゃあもっと溶かしてあげる」



 包み込むように抱き締めるエスト。ちょうどお腹と背中の間にあるシスティリアの尻尾が、暴れる魚のように激しく振られる。


 そんな2人を見ているウルティスの顔が、ぽっと赤くなった。



「こらこらお2人さ〜ん? ウルティスちゃんの前でエッチなこと禁止〜!」


「お姉ちゃん。これはただのハグだよ?」


「そうよ。スキンシップに過ぎないわ」


「う……そういうのは2人の時にやりなさい!」



 エストが物寂しそうに離れると、すかさずウルティスが背中に抱きついた。

 思わず両手を上げて何もしていないとアピールするエストに、お姉さん組の2人がウルティスを見つめる。


 妙に熱っぽい少女の視線に、システィリアは現実を見せることにした。



「ウルティス。エストはアタシの男よ。それ以上くっつくなら耳を切り落とすわ」


「ひぃっ!」



 獣人として本能から悲鳴を上げたウルティスは、アリアの方へと逃げて行った。



「全く……女の子を弄びすぎね。刺すわよ?」


「弄んだ記憶は無いし刺さないで」


「1回だけ。1回だけグサッ、なら許してくれるかしら?」


「……服に穴、空けないなら」


「そういうところが刺される理由なのよ? もうっ、ホントにアタシが刺すと思ってるの?」


「うん。僕以外を刺すでしょ」


「ええ」


「……ウルティスを守らないと」



 理解者であるシスティリアにとって、刺すのはあくまでたかった虫である。例え虫を誘引したのがエストだとしても、彼女の標的は虫のみに向けられる。


 そんなシスティリアの理解者であるエストは、意図せず好意を向けてくる相手を守らねばならない。


 2人の話を聞いていたアリアは、全ての元凶がエストであることに気が付くも、本人が人の心を、特に女心を分かっていないために修正しようが無いと結論を出した。



 とにかくウルティスの頭を撫でて安心させていると、不意に手が耳に当たってしまい、驚いたウルティスが再びエストの元に戻ってきた。



「ふ〜ん? そんなに切り落とされたいのね」


「おにいちゃんたすけて! おねえさまこわい!」



 踏んだり蹴ったりなウルティスは涙目でエストに助けを求め、システィリアとの間にエストを挟むように立ち回る。


 しかし、システィリアはアリアの手が耳に当たったのを見ていたので、冗談混じりにそう言っただけで、本気で切り落とそうとは思っていなかった。



「はいはい、2人とも落ち着いて。まずは朝ご飯を食べよう。お腹が空いてイライラしてきた」


「「は〜い」」


「……イライラの原因、違うと思うな〜」


「お姉ちゃん何か言った?」


「言ってませ〜ん。ご飯作ってるから〜、先に3人はお風呂に入ってきてね〜」



 そう言って最初にアリアが家に帰ると、ウルティスは冷たい手で優しく頭を撫でられた。

 顔を上げればエストが優しく微笑んでおり、恐ろしい群れの長にももう片方の手を差し伸べ、わしゃわしゃと頭を撫でていた。


 撫でられて嬉しそうなシスティリアを見ていると、本当の群れの長はエストなのではないかと思うウルティス。


 彼が『3人でお風呂に入ろっか』と言えば、自然と紅い尻尾を振ってしまい、システィリアは渋々了承した。



 家の浴室は広いが、3人で入るには少し狭い。

 しかし、ウルティスがまだ小さいこともあってか、そこまで窮屈に感じることはない。


 先に体を洗ったウルティスが湯船に浸かり、現在体を洗って貰っているシスティリアは、『全部洗って』と甘い声でお願いした。



「おねえさまずるい!」


「仕方ないじゃない。お腹のせいで洗いづらいんだもの。ウルティスも10年後には分かるわよ。エストがどれだけ体を洗うのが上手か」


「あ、そっちなんだ。昔からお姉ちゃんと師匠の背中を任されてたからね。髪から足の指の間まで練習を重ねたよ」


「前も?」


「前はシスティだけ」


「ふふっ、そうなのね。そうよねっ、ふふふ」



 アリアによる人体の仕組みについて教わる時は、風呂場で触って確かめることも多かった。

 性別による体のつくりが違うことや、筋肉のほぐし方、体格や体型による骨の向きや密度の違いまで、徹底的に頭に叩き込まれている。


 そうした経験もあって、旅の道中でもシスティリアは肩こりに悩むことなく、快適に過ごせたものだ。

 エストがどれだけ勉強と経験を重ねたか、マッサージを受ければ分かるというもの。


 体を洗い終わり、肩甲骨に這わす手が筋肉の位置を捉えると、光魔術を使いながら正常に戻していく。



「ウルティス、よく見て学んで。背骨に沿って、体重を支えるように筋肉が発達しているのはわかる?」


「う、うん」


「首元からあるこの筋肉。左側は僕がほぐしたから、右側がまだ張ったままなの、見てわかるかな」


「……ほんとだ」


「このまま放置すると肩こりの原因になって、酷くなると剣を振るのも大変になるんだ。それで、ほぐし方なんだけど……」



 ただシスティリアばかり構ってもらっていてズルいと思っていたウルティスも、真剣なエストの声色に姿勢を正すと見学が始まる。


 体型維持のために努力を重ねたシスティリアの体は美しく、筋肉の異常が見て分かるほどに均整とれた体つきだ。


 そのため、教材として理想の体だとエストは言う。



「肩が軽くなったわ。ありがとうエスト」


「どういたしまして。ウルティスも少しずつ覚えていこう。練習は僕の土像アルデアでできるから、余裕のある日にちょっとずつ」



 ウルティスは目を輝かせて頷くと、湯船の中で尻尾を振る。それから2人もお湯に浸かり、大きく息を吐いた。


 エストが吐く息だけは、白かった。



「屋敷の大浴場が恋しい」


「アタシはニルマースの露天風呂かしら」


「にるまーす?」


「王国北部の街だよ。温泉がいっぱいある」


「おんせんがいっぱい!? ……おんせんってなに?」


「マジかぁ」



 心のアリアがひょこっと顔を出していると、システィリアが右手を握り、密着する。



「……エスト」


「うん。みんなで旅行に行こうか。温泉旅行」


「おんせんりょこう!」



 はしゃぐウルティスの頭を撫でたシスティリアは、その紅い毛を見て炎龍を思い出した。


 失明する炎を吐く、魔物の頂点に君臨するドラゴンと、その眼前に立ちはだかるエスト。そして、見ていることしか出来なかった過去の自身。


 例え身篭っていなくとも、今あの炎龍に挑めと言われたら逃げ出す自信がある。それほどまでに、ドラゴンという存在は恐ろしかった。



「ウルティスも見られるといいわね。エストと戦うドラゴン」


「おにいちゃんとたたかうどらごん?」


「……逆でしょ。僕を見てよ」


「うふふっ。順番、間違えちゃった」




 そして春も終わり夏の頭が見えてきた頃。

 ウルティスは遂に、初めての旅行を経験する。

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