第332話 甘噛み狼


 システィリアが妊娠してからというもの、エストとの夜は非常に静かになった。


 澄んだ空気で満ちた寝室は、屋敷の使用人たちも嬉々として働くであろう状態だが、エストはとある問題に悩まされていた。



「……ねちょねちょ」



 朝目が覚めたエストは、手を繋いで寝たはずの左手が、知らぬ間にシスティリアの口に運ばれ、数時間に及ぶ甘噛みによって唾液にまみれていた。


 以前より甘噛みの癖はあったのだが、新居に越してからはほぼ毎日になっており、起きて最初にすることが手を洗うことだとは誰も知らない。



「……んぅ……んぅ!」



 指の感覚が消えたシスティリアは、うなされたようにエストの体温を求め始めた。



「……そんなに噛んでいたいのか……可愛い」



 水球アクアに突っ込んでいた手を戻し、そっと彼女の口の前に人差し指を這わせてやれば、『はむっ』と咥えられた。


 ただ噛んでいる感覚が欲しいからか、噛む力は相当に弱い。唇に指の上下を挟まれ、関節の内側に濡れた舌が這い、くすぐったいエストは歯を食いしばった。



「……よしよし。大丈夫。そばに居るから」



 起き上がることをやめ、システィリアの目が覚めるまで付き合うことにしたエストは、再び布団に潜り込む。

 ぴったりと体をくっつけ、自由な右腕を伸ばして頭を撫でてあげると、安心したように指が開放された。


 また唾液まみれになった指だが、無理に引き抜こうとはしない。

 感覚的に分かる、システィリアの要求。

 それに応えてあげることがエストの愛である。



「んむぁ……あえ……えふほ?」


「おはよ、システィ。今日は一段と激しいね」



 ぽっと頬を紅く染め、システィリアはモジモジと体を揺らしながら再び指を咥えると、エストに強請ねだるような視線を向けた。



「だって、出来ないんだもん……アタシはもっとエストとくっ付いていたいのに、体がダメって言うでしょ? そしたら、寝相でアンタの指が口元に来て、それで……閃いたの」



 獣人族の持つ強い生殖本能が一向に弱まらないせいで、システィリアは悶々とした日々を送っていた。

 そんな折に閃いた、エストの指を咥えるという行為は、僅かながら欲求の解消に繋がったのだ。


 しかし、毎度エストの指がふやけた上に唾液まみれになり、その事に関しては申し訳なさを覚えていた。



「じゃあシスティの好きにしていいよ」


「……ほんと?」


「うん。不快とも思っていないし、僕だってシスティの体温を感じられるから。でも、ほら……髪とシーツまでベタベタになってるのは、システィは気にならない?」


「……気になるわよ。気持ち悪い。ベタつくし、お風呂入りたい」



 寝ている間に咥えていた指を伝い、頬から首元、シーツに髪や、寝巻きの襟元まで唾液が垂れた痕跡があった。


 体を起こしたシスティリアは髪を一纏めにすると、エストの手を掴み、上目遣いで言う。



「一緒に朝風呂……どう?」


「……朝ご飯を食べて、水分をとってからね」



 このままだと毎朝と毎晩風呂に入ることになるのではと、そんな予感がしたエストだったが、大好きなシスティリアからの頼みは断れなかった。


 最低限、入浴のリスクを排除することを条件に出せば、彼女は花が咲いたような笑顔で頷いた。



「うんっ! それで? 今何時かしら?」


「7時過ぎ。もうお姉ちゃんが用意してるはず」


「じゃあ降り……る前に。ねぇねぇ、エスト、こっちに顔、向けなさいよ」


「どうしたの?」



 エストを小さく屈ませたシスティリアは、そのひんやりとした頬に唇を当て、チュッと音を鳴らした。


 耳をピクりと動かしながら顔を離すと、エストの方から優しく抱き締められる。

 ほのかに温かい体が心地好く、脱力しながら胸に顔をうずめれば、耳と耳の間にエストの鼻が当てられた。



「すぅぅ……はぁぁ。可愛いなぁ、システィ」


「んにゅっ! エストも素敵よ?」


「ありがとう。でも、それ以上にシスティが魅力的だ。好きだ……大好きだ」



 全身で、五感全てでシスティリアを感じながら愛を吐き出すエスト。そんな愛を余すことなく受け取った彼女は、ちぎれそうな勢いで尻尾を振りながら、エストの背中に手を回した。


 もう少し触れ合う時間を増やそうか迷っていたエストは、ハグ程度なら大丈夫だろうと、積極的に抱き締めると決めた。







 そんな朝を過ごし、朝風呂を終えたエストはレガンディの街に入れば、ファルム商会のロビーで待っていた。



「お待たせしました、エスト様。こちらへ」



 職員の案内で一際豪華な応接間に入ると、冬を跨いで会うことになったファルムが、自ら紅茶と茶菓子を用意していた。



「久しぶりだね。雪は大丈夫だった?」


「……叱ってくだされ。ワタクシはこの冬、全速力で向かうと宣言したにも関わらず、4ヶ月も要してしまいました」



 まず頭を下げたファルムを見ると、エストは柔らかいソファに腰をかけた。

 そして紅茶をひと口含み、ほぅっと息を吐く。



「急用なら自分から行くよ。そうじゃないってことは、どれだけ遅れても僕は怒らない。顔を上げて」


「……申し訳ありません」


「いいよ。さぁ、権利の譲渡をしよう」



 遅れた謝罪などどうでもいいと一蹴したエストは、事前に商会から受け取っていた羊皮紙の権利書を広げると、ファルムは顔を上げ、刃渡りの短いナイフを取り出した。


 羊皮紙に署名し、ナイフで薬指の腹に突き立てると、玉のような血を親指に付け、名前の横に押し付けた。



「そうやってやるんだ」


「ええ。ご自分のナイフでお願いします」


「ナイフは怖いから針でやるよ」



 そう言ってエストも名前を記し、氷針ヒュニスで薬指の腹を突けば、思った以上に鋭かったのか血が滴り落ちた。


 なんとか親指を押し付けて血判を終えれば、瞬く間にエストの傷口は塞がった。



「ごめんね。書面に血が飛んじゃった」


「構いませんよ。これにてあの土地と家の譲渡は完了になります。長らくお待たせいたしました」


「ありがとう。ところでファルム、ドラゴンの魔石はまだ価値があるかな?」


「無論でございます! シトリンより出品した魔石も、大陸中の国が手を挙げて欲していましたぞ!」



 オークションにかけた時の様子を興奮しながら語るファルムに、例のダンジョンについて話すのは野暮だと思ったエストは、紅茶を飲みながら聞き続けた。



「これは単純な興味なんだけど……」


「はい?」


「ドラゴンの魔石、全国にひとつずつ贈ったらどんな反応をするかなぁ」


「……正気でございますか?」


「どうだろう。お金が舞い込むのか、権利を与えられるのか、はたまた礼も言われず使われるだけか……気になるよね」



 ドラゴンの魔石は、この世で最も価値のある魔石であり、その入手はもちろんのこと、運搬も研究も苦労する代物だ。


 オークションにかけられた魔石を買ったのはラゴッドの魔道具研究会だったが、もし全国の手に渡れば、どのような魔術的発展をもたらすのか。


 エストは単純な興味でそう言った。



「手元に4つあってね。お世話になった国にあげようと思うんだけど、ファルムはどう思うかな?」


「……買い取らせるべきかと。失礼ですが、エスト様は権利関係には興味が無いと存じます。であれば、適切な値段で買い取らせ、資産にした方が未来のためになります」


「そういうことね。うん、参考にしよう」


「……いやはや、末恐ろしい御方だ」



 簡単にドラゴンの魔石を集めるエストに、心から畏怖の言葉が出てしまうファルム。

 ニヤリと悪い笑みを浮かべたエストだったが、しばらくは行動に起こす気がなく、本当に、ただファルムから意見を聞いただけである。


 そうして商会を出ると、真っ直ぐ家に帰ったエストは、権利書を氷の金庫に仕舞い、システィリアの耳をマッサージするのだった。

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